有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第6回:副島記者の気付きと進撃の新生有明SC)
2004年5月、全国の社会人チーム日本一を決める全国社会人へとつながる九州社会人選手権の長崎県予選。長崎新聞の運動部記者である副島宏城は取材中に違和感を感じた。
「何で宮崎君が有明SCにいるんだろう」
宮崎真吾は国見FCの中心である。国見の友人・知人とともに自らが作ってき国見FCから有明SCへ簡単に移籍することは考えられない。
いくら地元新聞運動部の記者とはいえ、普通なら県リーグレベルの選手の移籍をそこまで気にすることはない。だが、自身も学生時代にサッカー部へ所属し、運動部記者となってからも国見高校黄金期を間近で取材していた副島はこの微妙な違和感を見逃さず、すぐさま関係者に確認を始めた。
この時点ではまだ、Jリーグを目指すチームの誕生は内々の話である。だが、そこは地元サッカーの取材を続けてきた副島との信頼関係。関係者たちはアッサリと「有明SCと国見FCが合併してJリーグを目指す」ことを明かした。
高校サッカーの名将である小嶺忠敏が関わり、長崎県にJリーグクラブを創るために動く。
取材する記者にとっては十分なスクープだ。だが、副島と長崎新聞はこの時点で記事化することをしなかった。まだ話が始まったばかりであったことも大きいが、拙速な報道で話が壊れる可能性にも配慮したのだ。何しろ、長い時間をかけて説得し、ようやくJリーグを目指すチームを誕生させたばかりの状態である。この時点でも、何か一つボタンを掛け違えば話が容易く話は壊れかねない。その上、この時点でもまだJリーグを目指すための具体的な方針は固まりきっていなかった。
この時点で有明SC内で決まっている方針は「新チームの母体は有明SCとする」、「有明SCと国見を合併させる」、「国見FCも存続させて、受け皿チームとしての役割も担う」、「2004年の県一部リーグを制して、2005年からの九州リーグ入りを目指す」の4点のみ。
それにあわせて、岩本・植木・三田(さんた)で、国見FCと有明SCの選手を集めて選手の選考会も行ない、2004年3月の長崎県選手権社会人リーグ後に新チームを始動させたばかりである。国見FC出身の植木を監督、有明SC出身の岩本をコーチとしたが2人とも選手兼任という体制であり、その規模感はまだ県リーグの社会人チームレベルを超えはしない。
本来ならば、このあたりでフロント面の体制作りやスポンサー先の根回しなどを進めても良い頃だが、ここに至ってもなお具体的な動きはない。当時の県リーグは年50万円も集まれば1シーズン戦える規模ということで、ユニフォームや登録料も全て自腹のチームにとって緊急性が低いということもあったが、関係者全員がサッカー界の現場一筋だったため、「まずはピッチの結果」という意識が強かったためである。
2004年6月20日。ついに、必勝が義務づけられた長崎県1部リーグが開幕した。国見FCの若手と有明SCのベテランがそろう新生・有明SCは初戦の島原SC戦を9対0で大勝発進。その後も第2節で大村航空基地FC戦を5対1、第3節の佐世保SC戦も3対1と順調に勝利を重ね、7月に入っても西有家SCに6対1と大勝し開幕4連勝を達成する。
当然ながら毎試合ベストメンバーが揃うわけではないが、彼らの多くは高校や大学では全国レベルの真剣勝負を戦っていた者たちである。社会人になってもう一度真剣勝負ができることに燃えないわけはない。チームの合併に貢献した山本もチーム最年長ながら、試合出場を重ね勝利に貢献するなどチーム全体に勢いが生まれているのは明らかだった。
一方で、三田(さんた)と植木・岩本は、チームに対しては目の前の試合に集中させるよう仕向けつつ、今後の補強について水面下で構想していた。過去に3度、県リーグ制覇を経験している有明SCだが、一つ上のカテゴリーとなる九州リーグを懸けて行なわれるトーナメント「九州各県決勝大会」を突破したことはない。
初挑戦となった1999年度の大会は初戦敗退、2度目のチャレンジとなった2000年度の大会は、初戦を突破したしたものの準決勝でプロフェソール宮崎に大敗。直近では2002年度の大会でも、初戦で中津SCに1対4で敗れている。確実に昇格するためには補強はしておきたい。とは言え、この時点ではまだ無名の県リーグチーム。大枚はたいての補強などできるわけはない。
「誰が動かせる?」
「誰なら動かせる?」
大学卒業を控える世代の国見高校OBならやり方次第で補強できるのではないか。地域リーグやJFLでの経験を持つ者はいないか。Jリーグでやっていて有明SCに来れそうな選手はいないか。植木と岩本、そして三田(さんた)と小嶺は頭の中でグルグルと候補の顔を思い浮かべる。何人かの候補が挙がる中、議論はある1人の男の名前へと辿り着いた。
「いいんじゃないか!?」
その名が出たとき異論を挟む者はいなかったという。問題は来てくれるかだ。確認も含めて、最初の連絡役となったのは有明SCで監督となっていた植木だ。国見高校で永井秀樹らと同級生だった植木は、その男の一つ年長で共にプレーした時間も長いというのが、その理由である。植木は早速、連絡を入れる。
当時、その男は福岡にいた。
前年の末、10年のプロキャリアで初めてとなる戦力外通告を受けた彼は、コーチの打診を断り、あくまでもピッチ上でのプレーにこだわり、浪人して再びプロチームからオファーが来るのを待っていたのだ。
小学校5年生で全日本少年サッカー大会(現 JFA 全日本U-12サッカー選手権大会)に出場し、中学3年時には全国中学校サッカー大会に出場し九州選抜でもプレー。国見高校では1年からレギュラーとして活動し、早稲田大学では現鹿児島ユナイテッド監督兼GMの相馬直樹とともに黄金時代を築き、五輪代表やA代表にも選出。Jリーグ5クラブでプレーした彼はこのとき、所属チームなしのまま1人でボールを蹴る日々を過ごしていたのである。
その日も1人でボールを蹴っていた彼の電話が鳴り、電話に出た彼は名を名乗った。
「原田です」
電話を受けた男の名は原田武男。V・ファーレン長崎誕生6番目のキーマンであり、今もクラブ史に燦然と輝く大功労者。後に「ミスター V・ファーレン」と呼ばれる男である。
2004年夏、原田と有明SCがつながろうとしていた。
(第6回 了)