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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第12回:監督候補「高木琢也」と初代監督「岩本文昭」)

2004年末、小嶺忠敏と、菊田忠典・辰田英治・塩田貞祐ら三田(さんた)、そして岩本文昭らが有明SCのJリーグクラブ化を進めるために集めた県内サッカー関係者、地元金融機関系者らの集い。彼らは2005年1月にチーム運営など実務的なフロント業務の強化を目的に「長崎プロサッカークラブ推進委員会」を立ち上げた。立ち上げたというよりも、そのまま移行しただけの法人格を持たない任意団体だが、プロクラブ化へ向けた組織の発足である。

推進委員会のトップである委員長には小嶺忠敏、その「補佐」には、三田(さんた)の内、塩田が入り、「総務」には残る2人、菊田と辰田が名を連ねた。それ以外のメンバーはチームスタッフとして関わる者以外は、ボランティアとして運営を支え、スポンサー営業やチーム編成、クラブ運営組織の法人化などを進めていく方針だ。

2005年1月に設立された「長埼県プロサッカークラブ推進委員会」。当初、長崎市の長崎新聞社内に設置された事務局は、ほどなくして三田(さんた)の1人である辰田が経営する雲仙市の「有限会社タツエイ環境」の2階へと移転した。

委員会とは言うものの、実質的にはトップの小嶺が大まかな方針を発し、それに対して三田(さんた)や岩本がそれに合わせて動くというトップダウンの組織だが、あらゆる面で大きな影響力を持つ小嶺という大看板を生かすことが、クラブにとって最も効率的な方法だった。そして、その小嶺から「高木琢也を新チームの監督に」という方針も発せられる。

サンフレッチェ広島や東京ヴェルディ、そして日本代表での活躍から「アジアの大砲」という異名で知られた高木は長崎県南島原市出身。1984年に小嶺が島原商業から国見へ転任したとき、最初にその指導を受けた世代である。

高木にとって小嶺の存在はとても大きなものだった。小学生だった頃には、当時の読売巨人軍の大エース、堀内恒夫氏にあやかり「堀内二世」と呼ばれていた高木だが、中学生になったとき、地元島原のチームを率いて全国で活躍する小嶺に強い憧れを感じたという。

現在はV・ファーレン長崎で代表取締役兼クラブリレーションオフィサーの高木琢也氏。

「サッカーがやりたかった訳じゃないんだよ。とにかく小嶺先生の下でやりたかった。小嶺先生のところでやるのが目的だった。中学のときは週末になると、自転車に乗ってよく島原城まで行ったよ。島原城の一番上に登ると、隣にある島原商業のグラウンドが見えるんだ。そこで練習しているサッカー部を見ていた。今思うと、行っていたのは週末だからトップチームと小嶺先生は遠征に出てたはずなんだよ。だから、そこで練習しているのはセカンド、サードのチーム(笑)。当時は、そんなことわからないからね、自分がそこに入っている姿を想像しながら見ていましたよ」

中学時代の思い出もそう懐かしむ高木は、高校進学を控えていたときに、近所にある小嶺の親類が経営する床屋から「来年あたりに小嶺が国見へ転任する」という話を聞く。それが事実なら、島原商業へ行っても小嶺の指導を受けられるのは1年生までである。高木は迷うことなく国見への進学を決めた。そして、高校2年になる頃、小嶺の国見転任は現実のものとなり、元から3年生がいなかったサッカー部からは、半年も経たずに高木を除く2年生部員がいなくなった。

高校サッカーの名門として全国に名を轟かせる国見高校。高木はその国見で唯一の最上級生だった

唯一の最上級生となった高木の一つ下に、ひときわ大きな目をした後輩がいた。愚直なほど真っすぐにプレーするその後輩は、人一倍元気で、誰よりも前に出る性格で、大きな目が1970年代の人気コメディアン「せんだみつを」に似ているとして地元では「せんだ」というあだ名で呼ばれていた。V・ファーレン長崎の母体となる有明SCのコーチ、岩本文昭その人である。

2人は小嶺の家に下宿し、文字どおり寝食をともにしていた。

「毎朝、小嶺先生の家の台所を借りてね。僕が卵を焼くんだよ。その間に岩本が弁当箱へギュウギュウに白米を詰め込む。その上に卵を乗せてフタをして学校へ持っていく。卒業するまで毎日、その弁当を食べてたね(笑)」

高木が当時をそう懐かしめば、一方の岩本は当時の高木についてこう語る。

「やるとなったら徹底する人でね。とにかく熱心。あるとき「クロスに合わせる練習をするから」って言われて、延々とクロスを上げさせられたよ。納得するまで止めなくてさ、こっちの足がどうにかなりそうだった(笑)」

そう語るとき、2人の表情は実に穏やかだ。高木や岩本にとって当時の小嶺は師であり親、互いは兄弟のような存在だったのだろう。

現役時代はサイド。ドリブル突破からのクロスやシュートが得意だった岩本文昭。

当然、そんな間柄なのだから、高木も有明SCを母体に長崎からJリーグを目指す動きについては話を聞いていた。小嶺との会話の中で「自分に何か協力できることがあれば」と話した記憶もあるという。だが、本格的に話を聞いたことが一度もないまま、小嶺の意向を受けた菊田から「有明SCの監督に」という連絡である。

当時、高木は解説業の傍らS級ライセンスの取得中である。今も昔も、基本的にS級ライセンス取得に関わる費用は自腹だ。そんな中で運営母体も会社組織もない地方都市の地域リーグクラブの監督に就任というは、かなり難しい。菊田が提示できる条件も、有明SCとしては大きくとも、本来の相場を大きく下回るものでしかない。高木自身のことや家族の生活を考えれば無理筋なオファーである。かと言って、「僕は2つのものを同時にできないんですよ。だから、選手とのときは引退後を考えられなかった」というタイプの高木にとって、解説者と監督の二足の草鞋を履くことはできない。

「中途半端に受けるのはかえって迷惑をかけてしまうと思いますし、生活もあります。すいません。監督はできません。ですが、他に協力できることがあればやりますから、何かあれば連絡をください」

最終的に新チームの初代監督ではなく技術アドバイザーとなった高木。
彼がこのチームの監督となるのは8年後のことである。

小嶺の意を受けて連絡した菊田自身も内心には(無理な話ではないか)という思いがある。高木の返事を聞いた菊田は「わかった。ごめん。いつかちゃんと予算とか整ったときに、また声をかけさせてもらうよ」と言い電話を切った。その後、報告を聞いた小嶺は外部アドバイザー的な役割を提案し、それは後に高木の「技術アドバイザー」就任という形に結びついていく。

こうして、高木に監督オファーを断られた有明SCは、新たな監督候補を考える必要性に迫られた。次の候補となったのは、現有明SC監督の植木総司だ。選手たちの信頼も厚く、九州リーグ昇格を達成した実績もある。最も順当で穏便な人選だろう。だが、三田(さんた)の1人である辰田の会社で働いているとはいえ植木も会社員である。県リーグ時代から格段に注目度の上がったチームの監督となれば、責任は格段に増し、より多忙になることは想像に難くない。植木自身からも「仕事もあって動きにくいと思います。監督はちょっと難しい」という返答が返ってきた。

有明SC監督として九州リーグ昇格を達成し、高木に次ぐ監督候補だった植木総司。

「総司が駄目なら、誰ができる?」
三田(さんた)が次の候補に挙げたのがコーチの岩本だ。実際、常に先頭を切って行動する岩本に対しては、以前から監督候補に挙げる者もいたというし、有明SCでも練習の指導や起用について岩本が主導することも多かった。そのあたりを踏まえれば最も最も妥当な人選である。

ただ、全てにおいてアクティブな岩本は全てを1人で背負い込む面があり、そのために誤解され悪目立ちすることもある。そのあたりを懸念する意見もチラホラあったというが、三田(さんた)はこう考えた。

「岩本はそういうときに跳ねる(化ける)」

岩本のアグレッシブさ、勝負強さに期待したのだ。岩本の職場環境が恵まれていたことも幸いした。当時、岩本が務めていた長崎銀行は、上役に後の2代目クラブ社長となる宮田伴之、クラブ発足後20年に渡って運営ボランティアのリーダーを務める岸川賢一郎といった理解者が揃っていたのだ。何より、勤め先の長崎銀行自体がユニフォームスポンサーはできないが、できる限りの協力をするという方針を取っていた。新チームの監督として岩本が動ける状況が整っていたのである。

有明SCのコーチであり、V・ファーレン長崎初代、そして計3回に渡ってクラブの監督を務め、後に取締役としてフロント入りする岩本文昭。間違いなくクラブ史の最重要人物の1人である。

こうして岩本が新チームの初代監督になることが決まった。このとき、後に自身がクラブに強烈な影響を与え、合計3度も監督になるとは、誰も思わなかったろう。後の数年に渡って「岩本長崎」と呼ばれることになる、クラブの一時代が始まろうとしていた。

(第12回 了)

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