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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第11回:資金集め。有明SCの営業狂騒曲)

2005年1月16日に九州リーグ昇格を達成した有明SC。本格的に「長崎県からJリーグ入りを目指すチーム」への変革に向け、選手・監督・コーチ陣の視線が未来へ向かう中、事実上のクラブトップで、小嶺忠敏を支える三田((さんた)菊田忠典、辰田英治、塩田貞祐)は唖然としていた。

クラブの予算計画を立てている中で、何となく予算が思ったより必要になりそうだということは覚悟していたが、4月の開幕までを逆算すると、予算の額以上に時間がなかったのである。

当時、関係者の間で作られた資料の一部。見通しがない中でも強気な数字が並ぶ

リーグ加盟料と運営費、遠征費、用具費、監督・選手人件費など・・。この年に計画された予算は約6,000万。当時は県リーグのアマチュアチームであれば年間50万ほどで全てを賄えていた時代である。企業の後ろ盾も何もないクラブがおいそれと準備できる金額ではない。

小嶺が県内財界人と会話をする中で「長崎県からJリーグを目指すチームの誕生」を話題にする話す程度のことはあったらしいが、基本的に根回しや準備はほとんどない状態だ。このままではリーグ登録料にも事欠く。何より、ユニフォームにスポンサーを入れるには、ゆっくりしている時間はなかった。

「もうよか!すぐ集める!こっからは金を作るのが俺の仕事たい!」

この時期、三田(さんた)の下にはスポンサー営業を申し出る広告代理店から話が持ち込まれることもあったそうだが、営業も全て自前対応のつもりである・・。と言うか、そんな打ち合わせをする時間すら惜しい。

2,005年当時、菊田は国見町役場に勤務。国見町総合運動公園の管理などを行なっていた。

とは言え、当時の菊田はまだ公務員だ。だが、菊田は仕事の合間を縫うように営業に駆けずり回った。だが、これまで営業などをした経験はないし、まず何をすればいいのかもわからない。幸いにも、九州リーグ入りするための各県決勝大会に参加し、この時点で有明SC入りが内定していた原田武男の知人社長が、菊田に営業のイロハを教えてくれた。

「長崎市の田中町にある企業の社長さんでね。名刺の渡し方から、挨拶の仕方まで教わりました。たくさんの企業も紹介してれてね。本当にありがたかった。それで、社長に「せめて、この会社の名前をユニフォームに入れて恩返しをしたい」と提案したんですよ。でも、社長は「ウチは先祖代々のパッケージ屋。表には出ないのがルール。お祝いはするから、そんな心配はしなくていいよ」ってね」

当時、関係者が作成した資料。深い根拠はないまま作られたそうだが、この資料に基づいて三田(さんた)は、2005年の予算を「6000万」程度と見込み、目標にしていた。

こうして、様々な人たちの助けを得てスポンサー営業を進める三田(さんた)だが、開幕までの時間は短く、何より受け皿となる法人化や体制作りは最低限程度しか進捗(しんちょく)していない状態である。九州リーグ開幕までに間に合うスポンサー名入りのユニフォームを発注する納期は迫る。

思うように資金が集まらず、焦る三田(さんた)は「地元銀行ならば地域振興に力を貸してくれるのではないか」と考えて、藁にもすがる思いで地銀の一つである『親和銀行』に営業に行こうと考えた。前年12月に、有明SCコーチだった岩本文昭の呼びかけで集まった支援者の1人、荒木辰雄の職場でもり、荒木とは同じ島原商業、サッカーというつながりもある。最も声のかけやすい銀行が、長崎県佐世保市に本店を置き、現在は同じ地銀の十八銀行と合併して「十八親和銀行」となっている「親和銀行」だった。

「何とか協力してくれ。銀行の役員と話をさせてくれんか。」

電話口で菊田は荒木辰雄に率直な気持ちを伝えた。この突差の申し出に荒木はすぐに交渉の場をセッティングして応える。塩田、菊田、辰田の三田(さんた)はそろい踏みで親和銀行の本店へ行き、親和銀行取締役の荒木隆繁営業統括部長に胸スポンサーを頼み込んだ。

後のスポンサー契約発表後に作成されたステッカー。クラブ単独でグッズをほとんど作れない中で、親和銀行が作成したこのステッカーがクラブ最初のステッカーだった。

「九州リーグのユニフォームに「親和銀行」と入れたいんです。ですが、すぐに発注をかけないとリーグの開幕に間に合いません。間に合わせるために、できるだけ早く・・来週の月曜までに返事をくれますか?間に合わなければ、ユニフォームにスポンサーが入るのは開幕戦後に後になります」

この話をしたときの曜日は金曜日である。ギリギリどころではない。いくら当時の長崎県で週休2日制がそれほど浸透していないとはいえ、金融機関はとうに週休2日制完全導入済みである。にも関わらず、親和銀行の対応は早かった。親和銀行は休みにも関わらず緊急役員会議を開き、週明けに「スポンサー契約了承」の返事を返してきたのだ。

当時の小田信彦頭取が、以前に小嶺社長から有明SCがJリーグを目指すという話を聞いていたことも背中を押したが、それ以上に地域振興のために重要なことであるという思いが強かったのだという。

こちらも親和銀行が2005年に作って配布していた「ラジオ体操カード」
初期の頃はクラブの公式グッズより親和銀行グッズの方が多かった。

大口スポンサーが決まったことで少しだけ安堵できたのも束の間、三田(さんた)はその後も次々とスポンサー営業を重ねた。そして2番目の大口スポンサーとなったのが、現在もクラブスポンサーを務める長崎市の食品会社で「長崎角煮まんじゅう」を主力とする「岩崎食品」である。

当時、プロクラブの営業などやったことのない三田(さんた)だが、島原商業での小嶺の教え子で、現役時代にJSL(日本サッカーリーグ)のマツダSCでプレーし、引退後はマツダやサンフレッチェ広島のコーチ、アビスパ福岡監督などを務めた中村重和などに相談したり、意見を聞いたことはある。あとは度胸を頼りの飛び込み営業だ。

「まだ何もないんです。まだ会社もありません。だから、夢の話をするしかないんです」

当時、菊田は営業でこう話して支援を募った。まだ夢しか語れない無茶な営業である。当然ながら、良い反応を得られないことも多かった。だが、それでも地域振興の夢を託す企業もあった。前述の親和銀行もそうだし、岩崎食品もそうだった。有明SCにとって二つ目のスポンサーとなることを了承したのである。

こちらは、岩崎食品がクラブ創設期のホームゲームで配布したタトゥーシール。
好評で後にグッズ化されたりもした。

「小嶺先生は細かい契約とかの話は得意じゃないからね。だから僕らが行くんです。それで僕らが説明して、最後は先生が行くんです」

そうやって営業を続けていく三田(さんた)だが、もとはサッカー界の現場に生きてきた人間たちである。経済界や行政の関係性はわからないこともある。そのため、話を持っていく順序を間違えたり、相手方の事情に気付かないこともあったりして、ときに思わぬ失敗をしでかすこともあった。あるときなどは、精神的に堪えたため、「1週間くらい動けんやった」ときもあったという。

こうしてどうにかこうにか予算が集まりつつあったチームだが、クラブの組織体制作りとチーム作りも同時並行して進められていた。その最初の段階で、小嶺はいきなりビッグプランを口にする。

現役時代に日本代表でも活躍し、そのダイナミックなプレーからついた異名は「アジアの大砲」。
後に監督として故郷のクラブをJ1昇格に導く地元の英雄の名が、小嶺の口から飛び出す。

「高木琢也を新しいチームの初代監督にしようと思う」

高木自身も深く理解しないまま、クラブと高木の間につながりが作られようとしていた。

(第11回 了)

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