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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第7回:第6のキーマン「原田武男」と県リーグ制覇)

V・ファーレン長崎の誕生を語るとき、小嶺忠敏の存在を抜きには語ることは不可能である。実績・知名度・影響力、その全てはクラブ誕生の大前提であり、小嶺の存在無くして長崎からJリーグを目指すクラブの誕生は不可能だった。そういう意味で小嶺は、V・ファーレン誕生の物語において創造神や太陽神的な存在と言ってもいい。

その小嶺の意を汲みながら土台となるものを組み上げ、クラブの枠組みを作ったのが塩田貞祐・辰田英治、菊田忠典の通称「三田(さんた)」である。彼らは絶対神「小嶺」を中心とした世界の中で様々なものをかき集めて、国の形を作ったような存在だ。その中で国を発展させようとクラブの体制や方向性を作っていったのが岩本たちと言えるだろう。

小嶺の下でクラブの土台を築いた三田(さんた)の内、塩田貞祐は現在(2024年11月)、長崎県サッカー協会で副会長という重責を勤めている。

そして、「Jリーグ」という明確な目標を持ったクラブに必要な人材や制度を呼び込んだのが原田だ。横浜フリューゲルスを皮切りに、セレッソ大阪、川崎フロンターレ、大分トリニータ、アビスパ福岡でプレーした原田の人脈・経験・知識は、Jリーグに関わった人間がほぼいない創成期のV・ファーレンにとって実に貴重なものだった。

チーム創設後から数年間、クラブに加わった元Jリーガーの多くは原田によって集められた選手たちで、その中には引退後にフロント入りしたり、そのまま長崎に残って指導者となったりした者も多い。現在、V・ファーレン長崎で強化責任者を務める竹村栄哉も原田が選手として呼んだ人物である。

V・ファーレンでプレーし、現役引退後もフロント・指導者として貢献する原田(背番号14)。
現V・ファーレン長崎テクニカルダイレクターの竹村栄哉(背番号11)も原田との縁で加入した。

だが、有明SCの植木から初めて「長崎からJリーグを目指す」という話を聞いたとき、原田は「そういう話があるんだ」と感じた程度で、それほど強い感慨は持たなかった。

当然である。いくら小嶺が後ろ盾となってJリーグを目指すとは言え、この時点で有明SCはまだ県リーグ。サッカー界のエリート街道を歩み、当時まだ32歳の原田にとっては遙か遠い世界だ。前年末にアビスパ福岡を契約満了となっていたが、プロ最終シーズンでもJ2でリーグ27試合に出場し得点も決めている。「まだやれる」という思いは強い。

「次のチームがなかなか決まらなくて、家族に迷惑かけているのはわかっていたから「もう駄目なのかな」って引退を考えたこともありますよ。でも、どうしても諦めきれなかったんですよ。自分で「もう通用しない」と思ったら諦めますけど、「やれる」と思っていたので」

そう考えていた当時の原田にとって、プロの世界から県リーグへいきなり気持ちを切り替えるのは難しかったのだ。

左はJリーグから発売されていた選手カード。右は横浜フリューゲルス所属時代に「チケットぴあ」で配布されていた選手カード。原田は1994年から10シーズンをJリーグでプレー。デビューからの数年は「Jリーグバブル」と呼ばれた最もJリーグが華やかな時代にプロの世界で生きていた。

そんな原田に植木は「練習参加だけでも良いから来てみんか?」と伝えた。なかなか練習相手も見つからず、走ることしかできないことも多かった原田にとって、この提案は受け入れやすいものだった。

9月、原田は福岡から有明SCの練習場である雲仙へ車を走らせた。Jリーグを目指すとはいえ、社会人チームである有明SCの練習は夜である。初めて参加するチームだが、国見OBがいるチームには顔見知りもそれなりにいる。

アップ練習で原田がボールを蹴り、そのボールをトラップした選手がボールを返し、今度は原田がトラップをする。それはサッカーを始めた頃から何万、何十万回とやってきた何気ない動作のはずである。だが、壁に当たって跳ね返ってきたボールではなく、誰かが蹴ったボールをトラップした瞬間、原田の中で一気に感情があふれ出した。

このときの気持ちについて、後に原田はある選手にこう語っている。

「俺はアビスパをクビになって、それからずっと1人で練習していたんだよ。それが有明の練習に参加して、久しぶりに人とボールを蹴って・・。ボールを蹴るだろ、その蹴ったボールが返ってくる。その嬉しさ・・、それがわかるか。お前、その嬉しさがわかるか」

社会人チームだった当時の有明SCの練習は夜間が基本。練習着もバラバラだった。

もちろん、カテゴリーやレベル差はあった。練習参加して「アマチュアというかサークル的な雰囲気があった。ここが本当にプロクラブになっていけるのか」と感じてもいた。それでも、ボールを蹴る内に不安よりもサッカーをできる喜びが勝っていく。

「順調に昇格すれば3年ぐらいでJ2まで行けるか・・」

気付けばそんなことを考えるようになっていたという。プロというまばゆい世界で生き、その光を求めてもがき続けていた原田にとって、有明SCはどれほど小さく、儚くとも、ようやく辿り着いた光となったのだ。

以降、原田は週末に有明SCの練習参加することを増やしていく。だが、この時点では有明SCは、原田をメンバー登録して県リーグを戦おうとは考えていない。あくまで原田はその先の補強選手である。なので、この時点で原田に報酬はほとんど支払われてはいない。交通費も含めて原則としては全て原田の自費負担だ。

年明けに控える各県決勝大会前のために練習参加したとき、一度だけ、植木から「交通費」として2万円もらった記憶はあるそうだが、それが植木のポケットマネーなのか、それとも三田(さんた)の誰かから出たのか、はたまた有明SCとして支払ったのかは不明である。そのため原田は「安いから」という理由でラブホテルに1人泊まることもあったそうだが、そんな環境でも上を目指してサッカーをできることが何より嬉しかった。

練習参加とはいえ原田の加入はチーム内に好影響を与えた。この時期、水面下で選手補強を構想する有明SCの下には続々と選手が集結しつつあった。

国見の高校三冠世代のキャプテンで大商大に進学していた田上渉。卒業後はJFLの強豪チームから誘いを受けていたが、小嶺の連絡を受けて有明SCの練習に参加。その後、チームに加入して九州リーグ昇格やJFL昇格に貢献し確かな技術と高い運動量で「長崎の心臓」と呼ばれた創成期の名手。

国見高校で大久保嘉人らと高校三冠(選手権・インターハイ・国体)を達成し、秘蔵っ子として小嶺の母校である大阪商業大へ進学していた田上渉もその1人である。キャプテンとして大商大の関西大学リーグ1部復帰を成し遂げていた田上は、小嶺から唐突に「Jリーグを目指すチームを作るから、九州リーグへ昇格するための大会へ助っ人として参加しろ」と連絡受け、10月から有明SCの練習へ参加する。

練習に参加した田上は、居並ぶ国見OBたちの中に原田がいるのを見た瞬間、「(小嶺)先生、本気や!本気でJリーグクラブを作るつもりだ」と感じたそうである。プロとしての実績、立ち振る舞い、プレーのレベル、知名度・・、その全てにおいて原田は「長崎県からJリーグを目指すクラブ」というロマンに説得力を与える存在だったのだ。

県民の多くにとって無名だった「有明SC」というチーム。
いよいよその名に光を当たろうとしていた。

こうした水面下での補強準備を整えつつ、有明SCは県リーグでも着々と勝ち点を積み上げ続けていた。10月の第6節こそエスタジ佐世保に1対1で引き分けたものの、続く第7節で三菱電機長崎SCとの上位決戦に1対0で勝利。11月にはSFCを11対0で破り、最終節の長崎県教員チームも4対2で勝利。8勝1分けの無敗で4度目の優勝を決定し、「まずは現場での結果」という最初の目標を盤石の強さでクリアする。

あとは年明けに開催される、九州各県の県リーグ王者で九州リーグ昇格を争う「九州各県リーグ決勝大会」を勝ち抜くのみである。

そして、有明SCの優勝を見届けた長崎新聞の副島は、準備していた原稿の最終確認を始めた。5月に「有明SCがJリーグを目指す」動きを知ってから、すでに半年以上が経過していた。だが、ついに県民に有明SCの存在を知らせるときが来たのである。

様々な思惑の中で足かけ2年、それまで水面下で準備し続けた「長崎からJリーグを目指すチーム」がようやく表舞台に立とうとしていた。

(第7回 了)


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