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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第8回:人生を変えた記事と急速に進む組織体制作り)

2004年、12月7日。長崎県1部リーグが終わり、有明SCが無敗優勝を達成した2日後、長崎新聞の一面に後々まで語り継がれる記事が載った。

「Jリーグ目指すチーム発足へ 本県初、有明SC母体に強化策」

5月にJリーグを目指すチーム誕生の情報をつかんでから7カ月。ついに長崎新聞と副島記者が一報を発信したのだ。長崎新聞の完全独占スクープである。

県内で高校生のスポーツ選手を主に診てきた整形外科医の秋山寛治は、記事を読んだとき「チームドクターになるのは自分じゃないかな」と考え、すぐに小嶺に連絡を入れた。ラグビー界に近かった秋山がなぜ、そんなことを思ってしまったのかは本人にもわからない。それでも、後にチームと関わるようになった秋山は「本気で関わるためには必要だから」と考えてリハビリ施設の充実した病院へ移り、Jリーグ昇格後までドクターを務めることになる。

クラブ発足の第一報以来、長崎新聞は地元紙の強みを生かし続々と続報を発表した。
当時の長崎新聞紙面。(著作権保護のためモザイクを入れています)

豊田自動車に籍を置きインド事業の経営を管理していた森貴信は、渇望していたプロスポーツクラブが生まれ故郷に誕生するという一報を知り退社を決断。その後に「3年は給与なしで構わないから」と小嶺に直談判してフロント入りし、2008年2月までスタッフとして働き、運営法人の立ち上げへ尽力することになる。

秋山や森ばかりではない。長崎新聞の記事を読んで、サポーター団体を立ち上げることを決めた者もいた。そこでプレーしたいと考える者もいた。多くの人が何か力になれることはないかと考え、何ができるかを考えたのだ。一つの記事が、一つの原稿が、何人もの人生に大きな影響を与えたのである。

長崎新聞の一報は県内の至るところに大きな影響を与えた。
高校サッカーの以外でこれほどサッカーの話題が長崎の街を駆け巡ったことはなかった。
(画像提供:宇都宮徹壱 )

一報は行政にも影響を与えた。記事が出た翌日に県議会では、当時の県教育長が「地域や企業などと一体となったクラブづくりを進めていくことが必要」と答弁し、経済界からも歓迎する声が上がる。10日後の18日には当時の県議会議長を会長に超党派の47人が集まり「Jリーグ長崎クラブチーム立ち上げ県議懇話会」が発足し、翌19日には県内での天皇杯準々決勝開催に合わせて、小嶺が会長を務める長崎県サッカー協会が当時の大分トリニータのフロントを呼んで勉強会を開催と、長崎県中を有明SCの話題が駆け抜けた。

この頃、ピッチ最優先で活動してきた有明SC内でも、クラブの体制作りが進もうとしていた。秋口から小嶺・三田(さんた)・植木・岩本らは話し合いを重ね、有明SCの組織体制の構想を練っていたのだ。

当時、菊田が働いていた雲仙市国見町の「遊学の里」。岩本はここで菊田にプロ推進委員会設立を提案した。その後、一度は遊学の里を離れた菊田は2024年現在もここの管理を行なっている。

菊田はこう当時を振り返る。
「ほぼ3人(三田(さんた))で(フロントみたいなことを)やっていたら、岩本が訪ねてきて「その3人だけでプロクラブ(の準備)をやるのはあんまりだから、プロスポーツ推進委員会みたいなものを作りましょう」って言ってきた。それで、岩本に「じゃあ、財界の人や経営のわかる人をお前が集めろ。現場は俺らが何とかする」ってなったんです」

外部から人を呼ぶ以上、叩き台になる組織体制は必要だ。そこで、有明SCの運営組織として「推進委員会」、その支援組織として「後援会」を立ち上げ、行政・県協会とともに「法人設立準備委員会」を発足させ、2005年に運営母体となる法人を設立するプランが策定される。

上記は当時、実際に作られた資料。文字が括弧内に納まりきれないあたりに手作り感が見える。「推進委員会」は「委員長」を頂点に総務部が全体を統括。その下は「後援会推進部」「育成強化部」「事業部」「広報部」の4部門。実にシンプルな組織体系が構想されていた。

このプランが見えてきた2004年12月、三田(さんた)と岩本は有明SC外から初めて人を集めて話をした。初回こそ欠席したものの3回目から参加し、後のV・ファーレン長崎で2代目の取締役社長となる宮田伴之は、ここで集まった13人を後々まで「V・ファーレン創設に関わった最初の13人」と呼ぶ。実際は14名程なのだが欠席者もいたため「だいたい13人」ということらしい。

塩田・辰田・菊田の三田(さんた)。
有明SCから岩本と植木。
プロ経験者の原田。
市内でサッカー専門店を経営し島原商業OBでもある森崎公彦。
諫早市サッカー協会から応戸 誠二郎と緒方学。
島原商業OBで長崎市内で3種の指導を行なう大山昇。
地元地銀からは、十八銀行こそ都合がつかず出席はできなかったものの、親和銀行から荒木辰雄、長崎銀行から宮田伴之。
宮田や岩本の長崎銀行時代の先輩で、翌2005年に諫早市議となる黒田茂。
推進委員会で働くことになっていた溝口透馬。

後にV・ファーレン長崎の2代目取締役社長となる宮田。
2011年から2014年までの在任中にチームの悲願であったJリーグ昇格を達成する。

スポーツマーケティングを学びアメフトのインターンシップを経験していた溝口は、面識も情報もない中で2004年秋に「県にJチームを作る企画書」を小嶺に提出。小嶺は「わけのわからんのが来た」と放置していたそうだが、それを知った三田(さんた)が「事務や営業をやる人間が1人はほしい」と、会の直前にメンバーへ加えたばかりだった。

将来的なホームホームスタジアムや事務局のことも考えて、三田(さんた)は複数の市サッカー協会に連絡を入れたそうだが返答はなく、諫早市サッカー協会だけの参加であった。県サッカー協会に関しては小嶺が会長であることから、菊田曰く「別に何もせんでも大丈夫」だったそうある。

活動の最初期から事実上の事務所となっていた辰田が経営する会社の倉庫。
この通称「タツエイの2階」は2005年末まで事務局として利用された。

この13人(実際は14人)で基本理念や事業計画を語り、1人1万円ずつ出して当面の事務費用とすることも決まった。推進委員会の事務所については、すでに利用され始めていた辰田の経営する会社の2階をそのまま間借りしつつ、後には長崎新聞社内に仮の事務所とすることなども決まったという。

長崎新聞の一報とその後の喧騒、そして急きょ始まった組織体制作り。慌ただしく年末が過ぎ去る中、有明SCは原田や田上ら助っ人8名を加えることを決め、年明けに予定される各県のリーグ戦王者が集まり、九州リーグ昇格をかけて戦うトーナメント「九州各県決勝大会」への準備を整えつつあった。

足かけ3年に渡って準備してきた「長崎からJリーグを目指すクラブ作り」。
その最初にして、絶対に達成しなければならないハードルは「九州各県リーグ決勝大会」。

ここまで来るのに2チームを合併させ、多くの選手に土台となってもらった。新たな選手にも集まってもらった。すでに県民の期待は高まっている。ここまで来て大会に敗退し、翌年も県リーグを1年を戦いますと言える状態ではない。負けることは許されない戦いである。

決戦は2005年1月15・16日の2日間。

有明SCというクラブにとって、最大で最後の決戦「第28回九州各県リーグ決勝大会」が始まろうとしていた。

(第8回 了)

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