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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第4回:母体チーム探し。三菱重工長埼SC・有明SC・国見FC)

 会長である金子に話をしたことで、県のサッカー協会に筋は通した・・と考えた三田(さんた)が次に取りかかったのは、Jリーグクラブの母体となるチーム探しである。ゼロからチームを作るという手もあるにはあるが、そうなればスタートは県リーグの一番下から。県2部、県1部、地域リーグ、JFLと全カテゴリーで順調に昇格を重ねても、Jリーグ入りには4年から5年はかかってしまう。即断即決で最短距離しか考えない三田(さんた)がまず注目したのは、長崎市に拠点を置く『三菱重工長崎SC』だった。

昭和の頃、長埼市の飲食街で「三菱のお方、県庁の人、市役所のもん(者)」と言われ、「みつぶし」と方言化されるほど県の基幹産業だった三菱。その名を冠する重工長埼は県の名門である。

1947年に創部された重工は、82年に全国に9つある地域リーグの一つ「九州リーグ」に参入し、93年にリーグ最下位となり降格を経験するが、翌年に県リーグを制して、そのまま九州リーグに復帰。九州リーグでの上位進出こそ少ないが元Jリーガーも所属する長崎県最強の社会人チームである。2004年当時も九州リーグに在籍しており、県内チームとしては最も高いカテゴリーに所属する。Jクラブを目指すには県内最短距離のチームだ。

「僕らにすれば重工は九州リーグにおるから話が早かよねって。でも、僕らは重工のことはあまり知らんかったとですよ。それでどうするかなと」

菊田がそう語るとおり、長崎市と島原・雲仙市にはやや距離がある。山と海に囲まれた長埼特有の複雑な地形と県内交通アクセスの弱さ、江戸時代には天領と離島も含めれば7つの藩に分かれていた歴史的経緯もあり、長埼県内の各市にはそれぞれ独立した気風が残るためだ。長崎市を拠点とする重工長崎と、雲仙・島原を拠点とする三田(さんた)たちとのつながりも強いものではない。

2024年に完成した長埼スタジアムシティ隣に広がる「三菱球場」。
三菱重工長埼SCはここを主なトレーニング場として活動していた。

だが、三田(さんた)から活動の進捗具合を聞いた小嶺はこう言った。

「じゃあ、重工に話をしてみよう」

活動を始める際に「俺は動けんぞ」と釘を刺しておきながら、こうやっていきなり動くこともあるのが小嶺の小嶺たる所以である。柔軟と言えば聞こえはいいが、それに振り回される方はたまったものではない。ある教え子は「すぐ、先生は自分でちゃぶ台をひっくり返すから」というが、そんなことには慣れっこの三田(さんた)は動じたりしない。先生が動くというのなら、まずは動いてもらうだけだ。

何しろ、小嶺はこの年の6月に金子の後任として県サッカー協会の会長になる身である。この時点ではまだ会長になると決定していたわけではないが、県サッカー界の大看板として重工長崎にも十分に顔は利く。三田(さんた)だけで動くよりも話はしやすい。こうして、重工長崎の監督を務める根橋和文の下にすぐ連絡が入り、根橋は母体チームになることを提案された。

重工長崎で現役時代はプレーし、その後も監督・総監督としてチームを支える根橋和文。

「話があると言われて、何ですかって。そしたら、Jリーグを目指すクラブを作るからその土台チームになってくれみたいな話でしたね。いやー、ちょっとそれは・・と思ったけど、一度考えてみますみたいな返事をして、それからチーム内で相談をすることにしました。結局、ウチは企業チームというか、会社に支援してもらっていますし、重工としては三菱の名前を外せないのでと言って断りました」

後に根橋は母体チーム化の話を聞いたときのことをそう語る。繰り返すが、この時点では経営・運営組織もなく、予算から何からほぼノープランである。事実上、チームを譲れと言われたようなものだ。話を持ち込まれた根橋もさぞ困ったことだろう。だからだろう、話を断られたときに菊田らが思ったのは「そら、そうやろね」という変な納得感だったそうだ。

こうして重工長崎の母体チーム化がならなかった三田(さんた)は、次の母体候補を探すことにした。地域リーグの重工長崎が駄目なら、次は長崎県社会人1部リーグである。そこで白羽の矢が立ったのが『有明SC』だ。

長埼県1部リーグに所属し、当時の県社会人チームでトップに立っていた有明SC。

有明クラブと呼ばれていたこのクラブは、1999・2000・2002年に県1部優勝の実績を誇るなど実力的には十分である。しかも有明SCの地元は島原・雲仙。重工長崎に比べれば遙かに小嶺や三田(さんた)との関係も深く、教え子たちも在籍している。

だが、相手は本来まったく無関係の社会人チームである。おいそれと話をのむかはわからない。ならば有明SCの強化や受け皿も含めてもう一つのチームにも声をかけておこうとなり、そこで選ばれたのが当時の長崎県リーグ2部に所属していた『国見FC』だ。

国見FCはカテゴリーこそ県2部だが、比較的若い選手が多く実力的には1部レベルどころか、有明SCにも引けを取らない強豪である。何より国見高校OBが大半を占めるため、小嶺や三田(さんた)にとって「ほぼ全員が教え子のチーム」であり「文句は言わせない」自信もあった。国見FCで指導をしていた植木総司が、辰田の経営する有限会社タツエイで働いていたこともあり話をしやすい環境でもあったのも大きい。

国見FCの中心であり、後にV・ファーレン長崎初代キャプテン、背番号10を背負った宮崎真吾。
(画像は2015年のOB戦のときのもの)

「Jリーグのクラブば(を)作るけん。その土台になるチームになってほしか(ほしい)。みんなのためにお前ら、犠牲になってくれ」

この直球過ぎる提案を受けた2003年3月当時の心境について、後にV・ファーレン長崎初代キャプテンとなった国見FCの宮崎真吾はこう振り返る。

「言われたら、もう嫌とは言えんでしょ。国見の上下関係ですもん。断ることとかありえません(笑)。そんなことは無理です(笑)」

監督である植木の求心力もあり、ネガティブ意見がほぼないまま話が決まった国見FCに対し、有明SCとの話は難航した。まず、有明SCの部長を務める林田広昭に連絡を入れ話をしたものの、有明SCの反応は良くない。

「Jリーグ」という頂を目指しながら難航する母体チーム探し。
有明SCはチームを差し出すか、自分たちの手元に残すか。重大な決断を迫られていた。

これまた当然である。有明SCは平成の大合併で消滅した南高来郡の体協サッカー部を発祥とし、15年以上に渡って自分たちで歴史を紡いできたチームで、自分たちがサッカーを楽しめる場所でもある。小嶺と距離のある者もいる中で、チームをそっくりそのまま明け渡せと言われても納得できるわけがない。チームの半分以上は三田(さんた)の提案に反対であった。

普通なら、あるいはここで有明SCと三田(さんた)の話は終わりだったかもしれない。だが、有明SCには、V・ファーレン長崎を語る上で決して外せない小嶺・三田(さんた)に続く第五のキーマンがいた。

後のV・ファーレン長崎初代監督、そして代表取締役の1人となる「岩本文昭」。その人である。

V・ファーレン長崎の歴史に大きな影響を与えた岩本文昭。
良くも悪くもクラブの歴史を象徴する存在である。

(第4回 了)


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