有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第2回:長崎高校スポーツ最盛期と総合型スポーツクラブへの期待)
日本中が2002年の日韓ワールドカップの熱狂に包まれていた頃から、菊田、辰田、塩田の三田(さんた)は徐々に焦燥感を募らせていた。国見高校と島原商業で通算14度の全国制覇を成し遂げ、高校サッカーに金字塔を打ち立ててきた小嶺は1945年生まれ。2006年3月の定年退職まであと3年余りに迫っている。小嶺の定年後をどうするか。
それは小嶺の分身ともいえる三田(さんた)にとって人ごとではない。自身の人生にも深く関わる問題である。
単純に高校サッカーの指導をしばらく続ける程度なら問題は大して難しくはない。特例を得るだけの話である。実際、公立高校の教員である小嶺は県の規定に従えば離島の学校に必ず一度は赴任しなければならないが、高校サッカーの実績を踏まえて教育委員会が特例で離島赴任を免除。小嶺は国見高校赴任から定年までの22年間を転任なしで過ごし、その間に教頭と校長まで歴任している。校長就任時にも全国高等学校体育連盟の規定でサッカー部の監督を退きながら総監督として指導を続けてきた。
ちなみに小嶺の総監督就任直前、国見中学校でサッカー部の指導をしていた菊田は、「俺が総監督をやるから、お前は名前だけの監督になれ。指導はそのまま俺が全部やるから」と小嶺に言われたそうだが、「先生、それはなか(ない)ですよ。やるなら、俺もちゃんと指導をしたか(やりたい)」と断っている。菊田曰く、自らの人生で2回だけ小嶺の頼みを断った内の1回目がこれだという。
これほど現場指導にこだわる小嶺である。定年後もサッカーの指導を続けるのは大前提だ。そして、過去に転任も免除されてきたことを考えれば定年後もある程度の指導は十分に可能である。(実際、2006年3月に定年退職した小嶺は、外部指導者として国見高校の総監督を2007年1月まで継続している)だが、その特例がいつまで認められるかはわからない。何より、菊田たちにはもう一つ気になることがあった。
(長崎のスポーツはどうなるのか)
このとき菊田が考えたのはサッカーのことだけではない。長崎県全体のスポーツに関する懸念である。
「当時、長崎県の高校年代のスポーツは成績がすごく良かった。サッカーだけでなく、バスケット、バレー。そこで活躍した生徒たちが今どこにいるのか、長崎に帰ってきて指導とかできんのやろうかって話をみんなでしよった(していた)んです」
複数回の全国制覇を誇る九州文化学園の女子バレーボール部や女子バスケットボールの長崎女子高等学校(旧 鶴鳴女子高等学校)といった伝統強豪校の存在。2003年に地元開催した「長崎ゆめ総体」で男子バレー、ソフトボール男子も全国制覇を達成と、当時の長崎高校スポーツ界は最盛期にあった。その活躍を地元のスポーツ人として嬉しく思う一方で、その次を考えたとき不安を感じたのである。
「井上君(井上博明 前九州文化学園女子バレー部監督)とか同世代だけど、彼の後は誰がやるんだろう。せっかく良い指導者もいるのにその次はどうするのかなって。活躍したあの選手が長崎に帰ってきて次の世代を指導してくれんかな。でも仕事がないもんね。なら、プロがあれば帰ってこられるんじゃないか」
地元で育てた逸材が県外へ流出し続ける現状を島原商業や国見で何度も見てきた三田(さんた)である。現状を変えたいという思いは以前から持っている。長崎のスポーツが好調だからこそ、このまま終わるのは余りにももったいない。何とかならないのか。そんな思いを強めていたとき、三田(さんた)の頭に「Jリーグ百年構想」が浮かんだ
Jリーグ百年構想は、その目的をこう謳う。
「サッカーを核に様々なスポーツクラブを多角的に運営し、アスリートから生涯学習にいたるまで今やりたいスポーツを楽しめる環境作り」
「スポーツを通して様々な世代の人たちが触れ合える場を提供する」
サッカーだけでなく他種目のスポーツをカバーし、長崎で頑張って名を挙げた選手たちが、長崎に帰ってきて次の世代を育てる。長崎のスポーツ界全体を支え、小嶺の定年後もその存在を最大限に活用できるシステム。三田(さんた)の考えとJリーグの掲げる「総合方スポーツクラブ」の理念は重なる。
「これならできる」
三田(さんた)は総合型スポーツクラブとしてJリーグクラブを作ることを決めた。「作ろう」ではなく「作る」である。普通に考えれば実現がどれほど難しいかを予想して尻込みするものだが、彼らにそんな弱気はまったくない。無名の公立校を全国最強校に育て上げた小嶺忠敏という規格外の存在と、そこで得てきた特例を当たり前に見続けてきた身である。恐れ知らずのメンタルだ。
菊田は当時、「俺たちしかできる者はおらんやろうし、俺たちならできるやろう。だから俺たちがやるしかないと思っていた」そうである。
「じゃあ、やってみろ。ただし、俺はそれには加担できないぞ。俺は教員という立場だから動けんからな。お前らだけでやってみろ」
三田(さんた)の話を聞いた小嶺はそう言った。小嶺自身にも長崎にJリーグクラブをという思いがなかったわけではない。三田(さんた)がJリーグクラブ創設を言い出す前に、近しい記者にそんな夢を語ったこともあるし、国見高校で指導をしていた頃には、あるJクラブから監督のオファーを受け、本気で受諾しようか悩んだこともある。そのときは菊田に「先生が本当にやりたいことは何ですか」と問われ高校サッカーに踏みとどまったが、プロの世界に興味は持っていた。だが、曲がりなりも公立校の教員という立場である。何より、現場が全ての小嶺とすれば、クラブ創設に動くより部活の指導に時間を割きたい。そんな小嶺の気持ちを察して菊田はこう言った。
「先生、よかけん。先生は何もせんでよかけん。俺らが動くけん。先生は見とってくれればよかです」
(第2回 了)