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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第1回:はじまり町、国見。小嶺忠敏と三田(さんた))

 物語はとても小さな町から始まる。昼と夜の気温差が大きく、夏は熱く冬の冷え込みが厳しいこの町は、雲仙内では最大の人口を誇っているがそれでも住人は約9,000人程度である。至るところで土器や石器といった旧石器時代からの遺跡が出土し、町の一角に江戸時代の武家屋敷を残すこの町は、本来ならば豊かな歴史と自然に恵まれた土地として知られたことだろう。

だが、この町の名を聞いて多くの人は他のことを思い浮かべる。

その理由は町の中を歩いてみればすぐにわかる。町中にかかる看板の多くは華やかな青と黄色。小さな町にしてはやけに芝生の施設が多く、飲食店には明らかに売り物とは違う年代物のペナントが並ぶ。何より、海沿いの道路を見れば一目瞭然だ。広がる有明海に夕日の残光が揺らめく頃、この町を照らし出すのはサッカーボールの型の街灯である。そう、この町はサッカーでまばゆいばかりの光を放った町なのだ。

長崎県雲仙市国見町。

国内のサッカーファンでこの町の名を知らない者はない。名将「小嶺忠敏」に率いられ1984年から2006年までの22年間で全国高校サッカー選手権6度の優勝を含む13度の全国制覇を成し遂げ、高木琢也・三浦淳宏・大久保嘉人・徳永悠平・平山相太ら数多の日本代表選手を輩出してきた伝説級の実績を持つ強豪「長崎県立国見高校」の地元だ。

長崎県立 国見高校
全国制覇の数は実に13回。高校サッカー界で常勝王者として君臨した国見高校

小嶺の教えを仰ごうと全国から多くの生徒や指導者が町を訪れ、国見高校の成績に呼応するように、県や市が町内にサッカーのできる施設を整備した。本来、国見高校のスクールカラーは青のみだが、国見高校サッカー部の青と黄色の縦縞が国見カラーとして知られたため、それが当たり前のように町の色として定着し、国見では小学校と中学校でも青との黄色の縦縞ユニフォームである。国見の町は間違いなくサッカーによって脚光を浴び、支えられてきたのだ。

それを国見高校で築き上げた小嶺は、町にとって、長崎のサッカー界にとって太陽のような存在だった。県内でも弱小だった国見高校を瞬く間に強豪に育て上げただけではなく、1988年に長崎県民栄誉賞の第1号を受賞し、1993年には代表監督としてFIFA U-17世界選手権大会でベスト8入りを達成するなど、その業績は一高校教諭の範疇を遙か越える。国見の町に暮らし、教育にも熱心な街の名士は町の誇りでもあった。

赴任した島原商業、国見高校、長崎総合科学大学附属高校の全てでサッカー部を全国レベルに育て上げ、高校サッカー界で伝説の存在だった故 小嶺忠敏さん

そんな小嶺の下で築かれた輝かしい栄光の裏にはいつも3人の男がいた。3人の名は菊田忠典、辰田英治、塩田貞祐。国見町役場の職員の塩田と菊田、国見町で事業を営む辰田は、いずれも小嶺が国見高校へ赴任する前に指導していた島原商業高校時代の教え子たちで、小嶺をあらゆる面で支えてきた者たちである。サッカーの指導から各手続きや調整、ときには運営業務やボランティアまで、小嶺の求めるあらゆる役割を何でもこなす彼ら3人は、いわば小嶺にとっての片腕であり、分身ともいえる存在だ。3人とも名前に「田」の字が入ることから、彼ら3人を合せて地元のサッカー関係者は「三田(さんた)」と呼んだ。

いつの頃からだろうか。そんな三田(さんた)の話が、いつも同じ流れを辿り、同じ結論へと落ち着くようになったのは。三田(さんた)の1人である菊田は、その時期について「日韓ワールドカップ(2002年)のあたりだったかな、もっと前だったかな。どっちにしても誰も覚えとらんやろうね」と語る。ときに小嶺も加わり、酒も入った席の中で何度も続けられてきた話は、必ず最後にこの言葉へつながったという。

「Jリーグのクラブば(を)作らんばやろ」

なぜそんな話になったのか。
どうしてJリーグのクラブなのか。
なぜ、三田(さんた)からなのか。

長崎県の片隅にある小さな町で、三田(さんた)が誕生の物語を始めようとしていた。

(第1回 了)


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