有明の残光 V・ファーレン長崎の20年(第0回:序文)
序文~この物語を書くにあたって~
2004年、私はあるブログを書いていた。どのサービスを利用していたかはもう覚えていない。ブログのタイトルは「西の果てから」。西の果ては、私が住んでいた長崎の街を指す。ブログのテーマはサッカー。・・と言うより、どうすれば長崎の街にJリーグクラブが出来るのか。それをつらつらと書く個人ブログだ。
当時、JリーグはJ1が16でJ2が12の総28チーム。J3はまだ存在していないものの、1993年の開幕からリーグはチーム数を急速に拡大させており、翌2005年からは徳島ヴォルティスとザスパ草津(現ザスパ群馬)のJ2入参入が決定していた。2002年の日韓ワールドカップの影響もあって、全国の地方都市ではJリーグ入りを目指そうというクラブが増えつつあった。だが、私の暮らす長崎県にそんな話題はなく、私はどうすればこの街にJリーグクラブが生まれるか。それについて書くことで、憂さを晴らしていたのである。
だが、当初こそ2~3日おきに更新していたこのブログは2カ月もせず更新をストップした。当初こそ妄想的な話を書いて楽しんでいたのが、Jリーグクラブを作るために必要な費用や体制について書けば書くほど、考えれば考えるほど絶望的な気持ちになったのだ。この街で生まれ、この街で育ったからこそ、長崎の経済状況やスポーツ環境を踏まえると、Jリーグクラブの誕生がいかに難しいかを痛感したのである。
この数年前にも同じ感覚を味わったことがある。当時の私はフランスワールドカップを現地観戦したり、気に入ったJリーグクラブがあれば県外へ出かけ、それなりに熱心なエリアで応援するサポーターだった。だが、熱心に応援すればするほど、自分の街・日常の暮らしの中でクラブと共にある周囲と、それを他の町やクラブで代用していた自分の違いを感じることが増えていった。私はやはり自分の街にあるクラブがほしかったのだ。
それに気付いた私の足は、熱心なサポーターのエリアから遠ざかり、近くで試合があるときだけJリーグの試合をメインスタンドで観るようになっていった。そして数年後、ブログを続けていく中で、それと同じ気持ちを感じてしまったのである。
(この街にJリーグクラブは生まれないのだろうな。無理なんだろうな。)
ブログを書かなくなった私はそう考えた。そう思い込むことで気持ちの折り合いをつけたとも言える。だが、現実は私のネガティブな予想を打ち砕いた。
2004年12月7日。リビングで長崎新聞を広げた私は紙面の文字に目を奪われた。
「Jリーグを目指すチーム発足へ」
この日、この瞬間から、私の人生は大きく変わった。以後、私は地元からJリーグを目指すチームのサポーターとなり、情報発信のウェブサイトを作ろうと1週間でウェブサイトのを作るために使うコード『HTML』を頭に叩き込んだ。我流のまま作った個人サイトの名前は「KLM」。「KLM」とはオランダの航空会社ではなく、アルファベット順で「J」と「N」の間にあった文字を取ったものだ。「Jリーグ」と「NAGASAKI」の間をつなぐという意味である。KLMのサイトを立ち上げたあとには「KLMブログ」という名のブログも開始した。
以降の日々は、青とオレンジで彩られたバラ色の日々である。クラブを追いかけて日本中を回り、サポーター団体、クラブの外部協力団体、ボランティア団体などで活動を重ね、2013年からはプロのライターとして取材者となり、今もまだクラブの側で暮らしている。
この物語は、クラブを間近で20年に渡って見続けてきた、そんな私の語る真実である。可能な限り事実に基づいて書いており、客観的な証拠なども揃えてはいるが、それでも私の見てきた真実と、他の方が見ていた真実が違うことはあるだろう。
それら全てを踏まえた上で、これから私が語るクラブの歴史と、それに関わった人たちの話を知っていただければ幸いである。そして、あなたが応援しているあらゆるものにも同様の歴史や物語が存在し、少しでも先人たちに感謝を捧げてくれればこれに勝る喜びはない。
では、次回から私が知るV・ファーレン長崎というクラブの物語を書いていくとしよう。
(第0回 了)