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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第5回:有明SCの葛藤と岩本文昭。そしてチームは動き出す)
有明SCに「長崎からJリーグを目指すクラブチームの母体」となる話が持ち込まれた2003年当時、1968年生まれの岩本は34歳。国見高校3年時にインターハイ優勝と選手権準優勝を達成し、駒澤大学2年時に全日本大学選抜に選ばれた経験も持つ岩本は、大学卒業後に長崎へ戻り地元銀行で働きながら国見FCと有明SCでプレー。1997年から加わった有明SCでは、定方敏和(現 長崎総合科学大学附属高校サッカー部監督)らとともにチームを県トップレベルへと押し上げ、当時は選手兼任で指導も担う立場にいた。
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三田(さんた)から話を持ち込まれるずっと前、岩本は有明SCの部長である林田宏昭と、同チームの選手でチーム内の重鎮だった山本一郎にこう話したことがあったという。
「長崎にJリーグチームを作れんのかな。作れると思うんだよな、俺たちで作るべきじゃないのか」
岩本の性格を一言で言うとすれば「究極のロマンチスト」である。自身の在り方も含めて理想やロマンといったものを誰よりも強く信じ、そこへ突き進むことを正しいと信じて疑わない。その一直線さゆえに、そのロマンや理想に疑いを抱く人からは距離を置かれることもあるが、そこに自身の夢を重ねられる人からは絶大に支持される。
そんな岩本は30を過ぎてもなお、全国の頂点を争った選手権、日の丸を背負った全日本選抜というロマンの先を求めていた。その根底にあったのは、大学卒業時に日本サッカーリーグ(JSL)でプレーする夢を自ら断念した岩本自身の経験だ。
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後にV・ファーレン長崎初代監督、代表取締役も務めた岩本文昭。
「大学卒業のときにJSLのチームへ行くことを決めて、内定ももうもらっていたんですよ。それで年末に選手権で関東に来ていた(小嶺)先生に「JSLのチームに行きます」って報告しに行ったんだよね。そしたら、みるみる先生の顔色が変わってね。「もう、お前の就職する銀行と話は決めてある。承知せんぞ!」ってもの凄い形相で言われたよ。先生には恩もあるし、逆らうわけにもいかんからね。悩みに悩んで内定を辞退したんだよ」
なぜ、小嶺がJSLでプレーすることに反対したのかは岩本本人にもわからないという。教育者でもある小嶺が教え子の安直なプロ入を好まなかったせいか、それとも小柄な岩本が高いレベルで戦い続けることの苦しさを考えてのことか、あるいは単純に関係性も近い岩本には近くにいてほしいという思いだったのか。ただ、岩本にとって初めて自身の信じるロマンを諦めることになったこの一件は、ずっとその心の中に残り、くすぶり続けていた。
そんな中で、いつの頃からか漠然と抱くようになった「長崎にJリーグクラブを作る」というロマン。その思いが2002年の日韓ワールドカップによる盛り上がりを見て一層強くなっていたときに舞い込んだ三田(さんた)からの話だ。岩本の心は大きく動いた。
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「俺たちに任せてくれませんか。必ず説得してみせます」
菊田と塩田は岩本たちの返事を聞き、有明SC内の話し合いを任せることにした。そして、ここから有明SC内では徹底した話し合いが続くことになる。
当時、有明SCの練習は午後20時から2時間半で週3回。当然ながら週末はほぼ試合で予定は埋まる。その上、かかる費用は自分たちの負担である。選手のほとんどが仕事を持つ社会人チームが、これだけの負担を背負ってもサッカーを続けるのはなぜか。自分自身のためである。サッカーを楽しむためである。その楽しさを、愛着のあるチームを失うことに抵抗がないプレーヤーがいるわけはない。
受け皿チームがあっても、新チームを立ち上げるとしても、それは変わらない。特にある程度の年齢になった者にとって「このまま存続させて良いのではないか」、「プロにならなくてもサッカーができれば楽しい」という思いは容易く消えない。もちろん、サッカー好きである以上、地元にJリーグクラブはほしい。次の世代のためにも必要だとはわかっている。それでも納得はしがたいものである。
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現在も使用されているトレーニング道具の中には山本が自作したものがそのまま残っている。
そんな選手や関係者に対して、岩本・林田・山本は粘り強く話し合いを続けた。当時のことを知る関係者は「(林田)広昭と(山本)一郎。この2人がいたのが大きかった」と語る。林田は島原工業、山本は島原農業の出身で2人とも島商・国見出身ではない。だが、岩本の語るロマンに夢を重ねられる2人は身を粉にして説得を重ねた。選手の家にまでいき話をしたことも1度や2度ではないという。
菊田や辰田も複数回、説得に足を運び、「最低でも数カ月、もしかすると1年近くかかった(菊田)」という時間の中で、坂本利明、稲田利明ら林田以前の有明SC歴代部長も加わって議論をし、悩み、説得を続けた。当初は反対する者の方が多かった有明SCの選手たちだが、同じ有明SCの仲間が訴える必死な声を聞き、1人、また1人と反対する言葉は減っていく。
そうして、サッカーが、そして長崎という街が好きだという思いの下で意見が一つにまとまった。
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長崎県からJリーグを目指すチームの誕生に光が差し込んだ。
「やろう」
後に辰田は、彼らの「自分たちは、いつか長崎にJリーグチームができたときの土台になれればいい」という彼らの決意を聞き、「あぁ、やっとスタートに立てた」と思いながら、感謝の気持ちでいっぱいになったという。
2003年、有明SCは惜しくも県リーグ優勝を逸した。
それが合併に揺れた影響なのか、それともまったく関係ないのかは誰にもわからない。ただ、その裏では、小さくとも偉大な一歩が踏み出されようとしていた。
「長崎からJリーグを目指すクラブ」の誕生は目前に迫っていた。
(第5回 了)