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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第3回:三田(さんた:塩田・辰田・菊田)、県協会に話を通す)
県内のあるサッカー関係者は、小嶺が残したサッカーの実績について「三田(さんた)がいたからこそ」と指摘する。圧倒的なカリスマ性、勝負師としての勘、情熱・・、小嶺は指導者として群を抜く能力を有していたが、全てにおいて直線的なその性格ゆえに、根回しや後始末といった前後策に無頓着な面を持っていた。そんな小嶺のために準備を整え、フォローし、サポートする。三田(さんた)は、小嶺が指導に集中できる環境を整えるため必要不可欠な存在だったのである。
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塩田・辰田・菊田の三田(さんた)はいずれも島商で小嶺の教えを仰いだ。
3人の役割分担も絶妙だった。菊田と辰田が率先して行動し、最年長の塩田が後ろからフォローに入る。教育委員会に籍を置き、雲仙市のサッカー協会にも影響力を持つ塩田は、教員でもある小嶺にとって何をするにも実に頼りになった。関係先への調整から公務員や学校制度の活用、各所への連絡や手配などは塩田の支援があったればこそであり、公立校の教員である小嶺がサッカー中心の生活が送れた理由でもある。
一方、辰田はより細かい調整を得意とした。国見で清掃業を中心に事業を展開する辰田は民間だからこその柔軟さを持っていた。公務員では動きにくい案件となれば辰田の出番だ。小嶺の意を汲み誰よりも素早く動く。備品の手配から連絡や通達など、人と接することにかけて辰田は実にアクティブで、同時に事業を営んでいるからこその感覚や経験は、そういったものに無頓着な小嶺を見事にサポートした。
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(画像左より 辰田英治、塩田貞祐(中央)、菊田忠典(右))
そして、3人の中でも特にサッカー面で小嶺を支えたのが菊田だ。菊田が初めて小嶺に会ったのは菊田曰く「まだ小学生か中学一年くらいの頃」。当時、島原商業に赴任したばかりの小嶺がサッカー部に子どもを集める目的も兼ね、雲仙や島原でサッカー教室の巡回をしていたときである。
「当時、小嶺先生は20代くらいでしょうね。僕が初めてトラップを教わったのは小嶺先生からですよ。そのときは教え方も優しかった。でも、島商に入ると鬼のようやったです。怖かった(笑)」
小嶺の下でプレーし選手権も経験した菊田は、小嶺のスケールの大きさに魅せられ卒業後も小嶺と関わり続けた。指導や選手のスカウト、生徒の日常生活の管理まで、常に小嶺の側にある懐刀として働き続けた菊田は、常にこう考えていたという
「先生を超えるとかは無理やから、俺は日本一のナンバー2になろう」
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その偉業を支えた三田(さんた)も行動力とバイタリティは群を抜いていた。
このように小嶺にはない適性をそれぞれが生かし、その偉業を下支えしてきた三田(さんた)だが、小嶺の側に長く居すぎたためか、それとも元からの気性か、その決断力と行動力、何より思いの強さという点は師と大差がなかった。何しろ基本は即断即決。決まればすぐに動くという具合である。その気性は小嶺にJリーグクラブを作る内諾を得てからも次々と発揮されていく。
この時点ではまだ具体的なプランや予算の目処、経営や運営の母体をどうするかなどは一切決まっていない。いや、決まっていないというより考えていないと言う方が正しい。だが、「絶対にできる」という信念だけは持っている彼らは止まらない。
「まずは県のサッカー協会に話を通そう。いつが良い?。誰に話す?どこで話す?」
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その勢いと自信がそのまま「長崎からJリーグを目指すチーム」誕生へつながった。
三田(さんた)の動きは実に早い。2003年1月、選手権を終えた国見高校の慰労会の最中、三田(さんた)は、当時の長崎県サッカー協会会長だった金子逸郎に近寄り、そっと声をかけた。
「会長、ちょっとこっちによかですか。別室を取ってありますけん」
この場で話すのは前々からの計画である。事前に会場の九十九ホテル(現 東洋九十九ベイホテル)内に別室は確保している。
「会長、俺らプロクラブば(を)、Jリーグのクラブば(を)ここで、長崎で作ろうと思うとるとです。」
いきなり、そう切り出した菊田たちに金子は驚きながらこう返した。
「お前たちは県の経済力とか、Jリーグに行けるようなプロサッカークラブを作るのにどのくらい予算が必要かとかわかっとるのか?!」
実に真っ当な指摘である。だが、この指摘に菊田らはすぐにこう返した。
「わからんです!わからんけど、動きたかとです」
わからないではなく、そういうことをちゃんと考えろと言う金子に対し、菊田は言葉をかぶせてこう言ったという。
「会長に迷惑はかけません!僕らが動きますから、会長は何も無理せんでよかですから、やらしてください」
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実に一方的な言い分である。もはや相談と言うより宣言だ。県会長としていきなり厄介な宣言をされた金子の心中は余りあるが、三田(さんた)に止まる気は微塵もない。菊田は今も当時のことを振り返り、こう言いきる。
「それで、そこ(県協会の方)は解決したとです」
このポジティブと言うには、余りのも強引で根拠なき自信は、後のV・ファーレン長崎創設後もしばらく続く伝統的な傾向である。彼らは決して増長していたわけでも、聞く耳を持たなかったのではない。そこにあったのは、周囲が不可能と思うことを高校サッカーで成し遂げてきた実績と経験ゆえの自信である。
やる以上は全力を尽くす。全力を尽くす以上は成し遂げてみせる。これが島原商業や国見で小嶺の教えを受けてきた者のメンタルであり、ある種の小嶺イズムだ。そして、三田(さんた)のJリーグクラブを作るという信念もこれに支えられていたのである。
(第3回 了)