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有明の残光~V・ファーレン長崎の20年~(第10回:九州リーグ昇格と有終の美を飾る有明SC)

1月16日、有明SCは九州各県リーグ決勝大会準決勝で熊本教員蹴友団と対戦した。勝てば九州リーグ昇格となる2位以内は確定だ。この戦いに勝利するために有明SCと国見FCは合併し、西有家SCの選手を加え、原田のような元Jリーガー、田上のような大学生、帆足俊洋・隅田浩輔・町田雄輝ら国見高校在学中の選手らも緊急加入させてきた。

当然、「必勝」以外の道はない。

当の有明SCの主立った面々は全員が「必勝」を信じ抜いていた。何しろ、チームに関わるほぼ全員が、小嶺忠敏という地方の無名公立校を一挙に全国一にまで育てる偉業を間近で見てきた者たちである。ここに至って「できない」と感じるような感覚は持ち合わせてはいない。良くも悪くも、「理詰めの根拠はないが、難しい状況を実現可能だと本気で信じる力」は異様に高い。後に何度も発揮されるクラブ黎明期の特徴だ。

熊本教員蹴友団戦でその特徴は、勢いとなって存分に発揮された。

名古屋グランパスやセレッソ大阪でプレー後、国見町役場で働きながら九州各県決勝大会でプレーした内田利広。現在は国見高校サッカー部の総監督を務めている。

開始からモチベーションのまま相手ボールホルダーに迫り、ボールを奪えば素早く敵陣へボールを運ぶ。中盤に君臨する原田・田上のレベルが高いこともあり、有明SCは試合の主導権を瞬く間に掌握する。再三、相手ゴールに迫りチャンスを作りながらもゴールを奪いきれない展開にわずかに嫌な予感がよぎったものの、前半終了間際の41分、ゴール前の宮崎真吾が左サイドからのクロスに完璧なタイミングで飛び込み先制ゴール。

わずかに漂っていて小さな不安を打ち砕く背番号10の一撃は、チームに余裕とさらなる安定感をもたらした。後半に入っても攻勢を緩めない有明SCは、後半12分にセットプレーから町田雄輝が追加点。6分後に再び宮崎が勝負を決定付けるゴールを奪い3点差。守っては熊本蹴友団のロングボールを使った反撃を無失点に抑え込む。

そして・・試合終了の笛が鳴る。

その瞬間、長崎新聞の記者として取材をしていた副島は時計を確認した。

2005年1月16日午前11時42分。
当日の試合レポートの記事中で副島は、こう書いている。

「その瞬間はやってきた。」

まさに、小嶺、三田((塩田・菊田・辰田)さんた)、有明SC、国見FC、それらに関わる全ての人間にとって待望の瞬間だった。

九州各県決勝大会の登録メンバー表。

監督の植木とキャプテンの宮崎は試合後、「ホッとした」と安堵感を口にした。長崎で結果をやきもきしながら待っていた宮田は、コーチの岩本から「勝ちましたー」と電話をもらった瞬間のことを今も覚えているという。どれほど強気であってもやはり重圧の中で戦っていたのだ。

有明SCが歓喜に沸く一方、大会のもう一つの山では沖縄県代表のFC琉球(現 FC琉球 OKINAWA)が勝ち上がっていた。初戦に宮崎県リーグを4連覇中だった延岡市SCに9対0、準決勝では前年まで九州リーグに在籍していた九州INAX(現Brew KASHIMA)に4対0と圧勝しての決勝進出である。

FC琉球は2003年に設立されたばかりのチームだが、2年前に沖縄かりゆしFCが九州リーグで優勝したときのメンバーを主体とし、本来ならばこの年は沖縄県社会人2部リーグを戦うところを、その実力の高さから沖縄県サッカー協会社会人連盟の推薦で県リーグ1部へ飛び級で参入し、優勝して今大会に参加していた。元Jリーガーも多く在籍しており、力的には、頭一つ・・、いや、二つ以上抜きん出ている。

九州各県決勝大会決勝での初対戦後、九州リーグ・JFL・J2で何度も戦うことになるFC琉球。
(画像は2021年 J2で対戦したときのもの)

そんな強者に対して、すでに目的を完遂していた有明SCが抗うのは難しかった。ベテランで主力の内田利広や原田武男を休ませて決勝戦を挑んだ有明SCは、0対8でFC琉球に大敗する。そこにそれだけの力差があったのは事実だが、大仕事を達成した直後の選手たちに、1日2試合のダブルヘッダーで力を発揮しろというのも酷な話であろう。

決勝に敗れたとは言え、有明SCは見事に目標だった九州リーグを達成したのだ。彼らが勝者であることに疑いの余地はない。だが、それは同時に有明SC最後の日となることを意味していた。Jリーグを目指すチームとして、チーム名やエンブレムの変更方針はすでに決定されている。母体として残りはするが、目に見えるものとして有明SCの存在はなくなるのだ。

県リーグ時代の有明SCに戦術の基礎を持ち込み、強豪への道を作った定方敏和(現長崎総合科学大学附属高校サッカー部監督)は、有明SCでプレーした頃のことを「みんなが、とにかくサッカーには真面目だった。みんなが全力でサッカーして、みんなが全力で遊んで、またみんなで全力でサッカーをした。一番、面白い時代でしたね」と振り返る。

1980年代に南高来郡有明町体育協会サッカー部として発足し、県リーグを戦い続けた有明SC。彼らは、Jリーグクラブの土台になる道へ進み、最大・最後の大仕事「九州リーグ昇格」を達成し、最後の公式戦を戦い終えた。

一瞬の輝きというには、あまりにも小さく、儚い輝きである。
だが、その光は次の道を確実に照らしていた。

「長崎にJリーグチームを作るため、一歩一歩、大事に進んでいくしかない」

試合後、キャプテンの宮崎真吾はそう噛みしめるように呟いた。監督の植木は「決勝の結果は今の実力。課題はわかった。こういうチームと戦えるようになっていかないといけない」と昇格後を意識したコメントした。抜群の存在感で有明SCを昇格へ導いた原田も「(今後)どうなるかはわからないが、お手伝いができるのなら夢に向かって一緒に進みたい」と語った。

そこには、明らかに決勝の結果より、九州リーグ昇格を達成した自負と、九州リーグ昇格後を見据えた決意が感じられた。すでにチームの視線は未来を向いていたのである。光は残り、次代へとつながったのだ。

「有明(ありあけ):まだ月が残っている内に夜が明けること」
チーム名そのままに有明SCの灯した光は、新しい夜明けへとつながった。

これかもやるべきことは山積みだ。4月の九州リーグ開幕までにクラブの体制作りやチーム名・エンブレムの変更、選手とスタッフ編成、その後にも運営母体の法人化や法人の組織体制作りもある。

何より、次に戦うべき九州リーグのレベルは県リーグとは訳が違う。

前年の優勝チームである沖縄かりゆしは戦力が低下したものの、その受け皿となったFC琉球は優勝できるだけのポテンシャルを持つ。隣県の熊本では、アルエット熊本を母体とするロッソ熊本(現 ロアッソ熊本)がJリーグを目指して活動を開始し、監督・選手全員をプロ契約とする方針を示していた。

鹿児島では「鹿児島サッカー教員団」が1995年からヴォルカ鹿児島(2013年にFC KAGOSHIMA(現鹿児島ユナイテッド)と統合)がJリーグ参入を目指し、福岡県北九州市では三菱化成黒崎サッカー部を前身とするニューウェーブ北九州(現 ギラヴァンツ北九州)が2001年からJリーグ入りを目標に掲げて活動中。社会人チームとしても長崎の三菱重工長崎SC、常にリーグ中位から上位をキープする新日鐵大分サッカー部(現 日本製鉄大分サッカー部)といった強豪がひしめいている。

当時の有明SC(後のV・ファーレン長崎の実際の協議資料の一部)
これだけの業務を1月の昇格達成後から始めることになった。

九州の外に目を移せば、競争はさらに苛烈だ。岐阜県では2001年の岐阜国体を機に発足したチームが、この時期からFC岐阜として活動を本格化。岡山では2003年にJリーグを目指して、県リーグの「リバーフリーキッカーズ」を母体としたファジアーノ岡山が結成され、その翌年には長野県で松本山雅FCがJリーグを目指すとして運営法人を設立。香川県でもサンライフフットボールクラブがスポンサー契約満了を機に改称し、将来のJリーグ入りを目指すチーム、後のカマタマーレ讃岐が誕生直前という具合である。

当時は全国の至るところでJリーグを目指す動きが広まり、さながら「地方からJリーグ入りを目指すチーム」の戦国時代に入ろうとしていたのだ。

長崎からJリーグクラブを誕生させるには、こういった難敵との競争に勝っていかねばならない。有明SCの灯りを胸に抱えたチームは、さらなる戦いの中に向かおうとしていた。

(第10回 了)

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