居合を辞めようと思った理由
・一言でまとめると、私が一番悔しいことは「師匠と師匠の居合が大好きなのに、それをみんなに納得してもらえるレベルで昇華することができない自分の力なさ」。
・そして今となっては、実力を向上させていくためのモチベーションがない。その理由が以下。居合の上手さ=才能2+環境7+努力1。現在の道場にいると、全日本で評価される方法を学ぶことはできず、全日本選手として活躍する展望が見えない。他の有力なまで行き教えを乞うことで成長が見込めるが、仮にそれで成長したとしても、自分の先生の居合ではないという意識がどうしても拭えない。
・有力な道場に通い、そこで全日本ウケする居合になるように稽古をしたとしても、それは自分の先生の居合ではないということにはならないし、そこで習ったことを上手く自分の先生の居合と融合させることができれば、それは自分の居合になると思う。が、別の道場に継続的に通い続けているこの状況が、まるで先生を裏切るような気持ちを生み出しており、心苦しい。自分の認識を変えればいいだけなのだろうが、それがどうしてもできない。
・強い道場に通って分かったが、全日本で勝てる方法は今までやっていた方法と全然違う方法だった。切るときは足で蹴らずに股関節を締めるだけ。抜き付け抜き打ちは右手右足を同じスピードで出して同じタイミングで止めると剣と体が合ってピタリと決まる。姿勢も腰を入れるやり方。血振りは両膝の二等辺三角形を正確に。「これをやればチャンスはあるかも」と感動したが、一方でこういったやり方を数年前から教わっていれば、全日本選考会で選ばれなかったときに「これ以上は自分の才能がないだけだ」ときれいさっぱり諦めることができたのにと、心の底から悲しくなった。それでも頑張ろう!全日本でウケる居合をやろう!と何度も心を入れ替えようとしたが、燻った薪に火をくべるように、もう、情熱の炎がまた燃えてくれることはなかった。
・勝てる環境は基本的に、範士や教士の先生の下に全日本選手がいる。範士・教士の先生が「居合」を教え、全日本選手は「試合」を教える。うちの道場では、教士号を持った「試合」を教えるポジションとなる先生は、他人に指導することが好きではなかった。その先生は先天的に才能があるタイプであり、居合の習熟に関しては、個人の努力が占める割合が大きいと考えている。自分は元からできるから、できない人に教えたとしてその人が伸びるとは考えない。更に言えばその先生は「なぜ自分が勝てているか=なぜ自分が勝つために必要な要素を満たしているか」を、その先生自身が正確には理解していない。私は入門当時は「この先生に教わったら、全日本に出るテクニックについて学べるだろう」と思っていた。しかし現実には、指導が嫌いで、観念的な教え方をする先生だった。自分が思い描いていた未来予想図の、唯一にして最大のこの瑕疵が、入門当時には分からなかった。本当に誤算だった。
・元々「師匠の居合がやりたい、それで全日本で勝ちたい」と思い、それをモチベーションにしていた。先生の居合以外は、今でもやりたいとは思えない。…なのだが、この間古流5本で試合をする大きな大会に出るための練習をしたとき、古流をやっていても楽しいと感じることが出来なかった。あんなに楽しくてやっていた古流をつまらないと感じた時、ああ、もう、辞め時なのかな、と思ってしまった。
・上達する、ということを主目的にやってきたので、上達を目的としないのであれば刀を振っていても楽しくない。運動を主目的として稽古すると、30分程度で飽きてしまう。
・自分に自信が持てないまま居合道会に籍を置いていても、どうしても全日本で活躍できない自分を卑下してしまう心が湧いてきてつらいだけなので、この機会に人間関係の断捨離もいいのかもしれない。孤独に生きるのはつらいから、新しいコミュニティを探そうか。
・全剣連居合道は「昇段できる人=実力がある人=名前が売れている人=試合で勝っている人」であり、仮に昇段を主目的として稽古したとしても、試合で勝てなければ昇段も危うくなる。居合道全国大会では、うちの道場でやるような武道的要素を見てくれないことはないが、まず多くの先生方が見るポイントは、体操的で勢いのある身体操作と正確性である。例えば組太刀や杖道を稽古し、摺り上げや巻き落としがいくらできるようになったとしても、全国大会では評価されない。
・そうなると先生として誰かに居合を教えるキャリアには自信が持てなくなる。何より、全国で通用しない居合を誰にも評価されないままやる、あるいは、通用したとしても県内で2番手3番手の実力にしか自分は到達できないんだ、自分は県の代表にも選ばれないんだという負い目を感じたまま昇段していき、自分の居合に自信が持てないまま、胸を張って「これは素晴らしい居合なんだ!」と思うことのできない、自分で自信を持てない自分の居合を誰かに教えることはこの上なくつらいと思う。自分だったら下手な人=結果が出せない人=全国大会で活躍できない人には教わりたくない。なぜならその人に教わっても全日本で活躍はできないし、八段にもなれないから。八段になったとして、一生そんな思いを引き摺ったまま生きていくのかと思うと、お先真っ暗な気持ちになってしまう。
・仮に、自分が入門当時学びたかった武道的本質を極めようとして続けたとして、「あの先生、古流は知ってるし武道居合の先生なんだけど、制定はできないから、全日本で勝つのはちょっと難しいんだよな…審査も制定だしなあ」と思われる未来が見える。今の自分が未来の自分に教わったら、自分の居合キャリアをそのように予測すると思う。どっちもできる先生になればいいじゃないか、と思うものの、自分のポテンシャルに自信が持てないことでそれは難しい。
【今感じていること】
・気持ちだけで繋がるものほど貴いものはない。道場は気持ちだけで繋がっている。まるで家族のようで、そこにギブアンドテイクの関係はない。好きだからやる。好きだから極める。結果としてそこに良い人間関係が生まれる。社会人になって、これほど貴い関係性を築くことができるものは他にどれだけあるだろうか。本当に居合をやってよかったと思う。
・未練がない…はずがない。何も長続きしなかった自分が10年間も続けた居合は自分のアイデンティティであり、心の支えである。それがぽっかりと抜けた喪失感は言葉にできない。結局宗教と同じ。何かを信じたいだけ。自分は居合を信じたかった。居合で活躍している自分に誇りと自信を持って生活を送りたかった。活躍できないのならば、自分を信じることはできない。そこに自信はない。
・自信がなくなるとルサンチマンに支配される。「勝てないやつの気持ちがわかるのか」「代表になれていいよなあ。いい気分だろう。才能があるっていうのは。環境に恵まれるっていうのは」そんな負け犬のメンタルを持ちながら、無理して叶わぬ夢に向かって努力するくらいなら、すっぱりと諦めるほうが精神的に健康になれる。諦める=明らめる。自分にできないこと=やらなくていいことを明らかにする。
・年明け、一度道場に行って刀を振ってみたが、まったく楽しくなかった…。もうダメなのかな。しばらく距離を置くかキッパリ辞めるかしたほうがいい。一人でたまに刀を振る分にはまあ、運動になっていいかもしれない。
【辞める理由をまとめると】
・いつ開花するかわからない才能を信じて継続することへの恐怖と無力感
・道場にいるだけでは勝てないことへの悲しさと別の道場へ通うことの罪悪感
・試合と昇段・選手選考・道場・武道的居合・仕事・お金・育児、これらのモヤモヤした思いを抱えたまま稽古していて、以前のように心から居合を楽しむことができない