AIについて語る背景
“Decade”という単位で括らねばならぬほど昔となってしまったが、大学4年から大学院博士課程を通して、今で言えばAI(人工知能)と呼ばれる技術の応用研究をしていた。あいまいさを許容するコンピュータから始まり、人間のように『思い込み』してしまうコンピュータ、なんて研究もした。が、研究をはじめた当時は、まだ第2次『AI冬の時代』の影響が色濃くあり、AIと名の付く研究には予算が付かなかった。結局、大学院在籍中、一度たりとも自分の研究に『AI』というタグを付けることはなく、いや、許されない、そんな時代だった。ただ、当時、AI(より詳しくはニューラルネットワーク)に触れた人の多くは、遠い遠い将来の可能性を感じていたと思う。もし、利用可能なコンピュータの計算パワーが何十万倍にもなり、学習のためのデータが何億も集まれば、きっと・・・。ラメルハート教授やミンスキー教授は、さらに10年も20年も前に同じことを考えていたのだろう。
しかし、あの『遠い遠い将来』は、案外、すぐにやってきた(2008年頃)。グーグルやアマゾンなどの登場で何十万台ものコンピュータを並列に稼働させるのは当たり前になり、フェイスブックやユーチューブの登場で何億、何十億のコンテンツに簡単にアクセスできるようになった。計算機のパワーは数十万倍程度では足りず、学習のためのデータも未だ不足してるようだが(あるいは、アルゴリズムやデータの使い方がまだ未熟)、この数年の進化のスピードは驚異的であり、何より、AIが経済的に本格的に成功している。技術の進歩は、さらに加速する。『AIの父』と呼ばれるアラン・チューリング博士が思い描いた『知的な機械』がどんなものか知る故もないが、そう遠くない将来、我々は高度に『知的な機械』と暮らすことになるだろう。そんなことを考えながら、ここ数年、AIに囲まれた社会での『人々の価値観』は、どう移り変わってゆくのだろうかと折を見て空想している。ここでは、そんな空想を下地にエッセイめいたものを綴れればな、と思います。
以上、400文字制限のプロファイルでは書ききれなかったので・・・