左翼、キリスト教、定言命法
キリスト教はなぜ生まれたのか?
キリスト教の目的は、ローマ帝国を滅ぼすことである。 キリスト教はローマ帝国を乗っ取った。コンスタンティヌス帝が313年にミラノ勅令を発してキリスト教を公認したときに、ローマ帝国の滅亡は確定したのである。
キリスト教がローマ帝国を憎むのは当然である。イエスを殺したのはローマ帝国だからだ。十字架は、ローマ帝国の処刑方法なのである。 キリスト教徒がキリスト殺害の下手人としてユダヤ人に罪をなすりつけたのは、ローマ帝国への敵意を悟られないようにするためである。
ニーチェはキリスト教の核にルサンチマンがあることを見出した。だがニーチェが着目したのは、「貧しきものは幸いである」というスローガンだった。だからニーチェは、ルサンチマンは単なる価値の転倒ではなく、ローマ帝国を滅ぼすための悪意であり、それに成功したことに気づかなかったのである。
キリスト教のスローガンで注目すべきなのは、「汝の敵を愛せ」「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出せ」の方である。この、利敵行為の命令である。これが滅びの呪文である。 敵の良心を乗っ取って心の中に入り込み、滅びの呪文を唱える。敵は自ら進んで利敵行為をして、自分の敵に滅ぼされるのだ。
ローマ帝国が滅んだのは、ゲルマン人の侵入を許したからである。ローマ帝国は寛容と多文化共生によって滅んだのだ。 「寛容」は、「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出せ」の言い換えである。 「多文化共生」は、「汝の敵を愛せ」の言い換えである。
憲法であれ、民法であれ、刑法であれ、法律というものは、社会契約でできている。法律は社会契約の体系である。だがその中に、社会契約でないものが紛れ込んでいる。それが基本的人権である。基本木人権は社会契約ではない。では一体何なのか? 基本的人権は、定言命法である。
社会契約は、仮言命法である。では仮言命法と定言命法がぶつかったとき、どちらを優先するべきか? 定言命法を優先せよと主張するのが左翼である。 仮言命法を優先せよと主張するのが右翼である。
定言命法と仮言命法のどちらを優先するかについて判断する基準はない。なぜかというと、基準に基づいて判断をすること自体が、仮言命法だからである。 だから、左翼は定言命法は定言命法なんだから、定言命法を優先しろと、トートロジーを叫ぶしかない。 これが、左翼が押しつけがましい理由である。
左翼の押しつけがましさとは、ギロチンであり、強制収容所であり、拷問であり、虐殺だからだ。 これが、革命政府が大量虐殺と粛清と強制収容を繰り返す理由なのである。
(了)