ご報告|定位脳手術をしました。局所性ジストニアは完治したようです
クラリネット奏者の葛島涼子です。YouTubeやnoteなどのネット周りではクズシマ名義で活動しています。
2020年9月24日、東京女子医大で左手ジストニアのための定位脳手術を受けました。
後遺症も心配される類の手術でしたが、術後の身体の変化は、あんなに何をしても治らなかったジストニアの症状がきれいに消えただけでした。
手術は成功したようです。
毎朝起きると絶望することから始まる毎日は突然終わりました。いまだ信じがたいですが、この先の人生、音楽家としてたくさんのことに挑戦できる身体にしてもらえました。
力を尽くしてくださった先生方、女子医大の看護師さんやスタッフさんには感謝してもしきれません。
手術のことは周囲の人にほとんど話していませんでした。家族にさえ。
ひとりで手術を決めて、入院していることをほとんど誰にも言わずに手術の日を待っていたある日の病室で、孤独と不安に耐えられなくて、ボロボロ泣いていました。
でも、今思えば私の周りにはたくさんの支えてくださる方がいました。勝手に孤独になっていただけでした。
無条件に応援してくれる友達、先輩、後輩、遠くにいても気にかけてくれるたくさんの方々、いつもありがとうございます。ここでの報告になってしまった方々、申し訳ありません。
良い報告をすることができて心から嬉しいです。たくさんの方にお世話になってきた人生だったので、これから先、私も誰かの未来を作る仕事をして、恩返ししていきたいです。
私は28歳のときに、局所性ジストニアという、楽器を演奏するときだけに現れる神経異常の病気にかかってしまい、それと付き合いながら2年半以上、生きていました。
発症は最悪のタイミングでした。それまでたくさん勉強してきて、これから頑張るぞ!というときに、手が動かなくなりました。最悪です。仕事もほとんど失いました。
ジストニアにかかったばかりの頃から脳手術で治すという治療法は知っていましたが、父からの強い反対があり、手術以外の方法で、なんとか改善を試みていました。
↑私が試した治療などについて、改善の途中経過。
左手にジストニアの症状を持ったまま、クラリネットを吹いて私にできることはごく限られていました。
もうとっくにいろいろなことを諦めているはずなのに、いつか治るという希望を捨てきれず、クラリネット奏者の肩書きを捨てずに、なんとか楽器を吹きながら、生き延びていました。クラリネットをやめずに済んだのは周りの方の協力と理解があってのことだと思います。
2019年6月にはジストニアを持った状態で、リサイタルもしました。
ジストニアの症状はなかなかしぶとく、いろいろな方法で改善を試みましたが、どう足掻いても症状を取り除くことはできませんでした。
手術を決めたのは2019年の11月。「手術をするしか、治す道はない」と確信したためです。周囲からは猛反対されましたが、この頃から自分の意思は完全に固まっていたように思います。
↑手術を決めたときの気持ちや手術について調べたことを過去の記事でまとめています。
年齢、体力を考えても、もう待てない。
「早く手術をしたい」ということばかり考えて毎日を過ごしていました。
しかし、ジストニアの定位脳手術をしてくださる平先生の手術は元々、何ヶ月も待ちがあり、私のように日常生活に支障がないような人はもちろん後回しです。そんな中、コロナの世界になってしまい、手術が何ヶ月も止まっていたそうで、紹介状を書いてもらう先生の予約をとってから、手術までに1年弱もかかってしまいました。
医療現場は大変なのに、自分の手術の順番が来るを心待ちにしている自分をつくづく自分勝手な人間だと思いました。誰にも言えませんでした。
↑東京女子医大の外来を受診して、手術の予約をした日のこと。
ジストニアでできないところを繰り返し練習すると、症状は悪化します。音楽家として前進することは、なかなかに難しい状態。
そんな状況でも、手術を待っている間、人生が停滞するのが嫌で、YouTubeをはじめました。今は登録者1,700名にまでチャンネルを成長させることができました。人は希望や目標がないと生きられない。YouTubeのチャンネルを伸ばすことに必死になれた時間は、少しだけ、ジストニアである自分を忘れることができました。
それに、私が音楽家として活躍していたときのことも、ジストニア患者だということも知らない人たちとたくさん出会うことができました。今思うと良い機会だったのかもしれません。
しかし、別方面で活躍する姿を見て、家族や近しい人は、
「その手でも仕事ができているじゃないか」
「後遺症が残って今ある日常生活さえも失うかもしれない」
「ジストニアになった時点で、もうあなたの音楽家生命は終わりを告げられているということなんだよ」
ジストニアはもう治らないかもしれない。
病気があっても生きていくしかない。
その事実を受け止め、日々、必死に前を向いて生きていこうとする私の姿を近くで見ている人たち程、このようなことを言いました。
確かに、ただ楽器が演奏できないだけで絶望とか言っちゃって、私は贅沢なのかもしれない。
1番自分の思いを理解してほしかった人と分かり合えなかったのは悲しかったけど、仕方がない。私がひとりで生きていけなくなったら、世話をしなければいけないのは彼らだもの。
でも、私が生きていくためにはクラリネットを吹けたほうが圧倒的に良い。演奏できない身体で生計を維持していくのは物凄いハードモードでした。
家族を裏切るのは心が痛み、正直、全然平気じゃありませんでしたが、どう考えても手術をすることは私が望む未来に対しての正しい決断でした。手術によって起こるすべてのことを受け入れる覚悟を持って、手術に臨みました。
決断をするにあたって手助けをしてくださった精神科の先生にはとても感謝しています。(手術前の半年間、名古屋市立大学病院の中口先生の元、認知行動療法を学びました。)
正直、手術を1番不安に思っていたのは私本人です。でも、そんなこと、一言だって言える状況ではありませんでした。
結局家族にも入院日を伝えることができないまま、保証人を立てることもできず、(現金積んで解決しました)ひとり病院に向かいました。
局所麻酔で意識のあるまま、頭蓋骨に穴を開ける手術はもうそれはそれは恐ろしかったけれど、十分な覚悟があったので、途中で逃げたくなったり、嫌だなと思ったりすることは一度たりともありませんでした。
入院してからは、女子医大の先生方や看護師さんが本当によくしてくださいました。手術や入院自体も初めてで不安な中、1週間以上の入院生活でしたが、手術も含め、本当にいい経験でした。
今、演奏家の5%はジストニアを持っていると脳外科の先生がおっしゃっていました。(何調べなんでしょう)
この記事を出すことで、今も尚、ジストニアに苦しんだり、ジストニアと共に生きている音楽家の方、ジストニアを持つ人が身近にいる方に向けて、何を伝えたいのか、正直よくわかりません。
ただ、楽器を学ぶ方々には「どうか無理のない奏法で、正しく練習を積み重ねましょう」と伝えていきたいです。幸運にも、私はそれを伝えることのできる職業です。
職業性のジストニアを、脳手術で治すことがそんなに褒められたことではないことは、なんとなく感じています。
「手術いいよ〜!みんなもやれば?」
なんて、決して言えません。
後遺症もなく症状が改善したのは運が良かっただけでしょう。
手術での治療は良くも悪くも不可逆です。脳を焼いてしまえば、後戻りできません。思うような改善が見られなかった方や、術後の後遺症に苦しんでいる方の話も聞きます。
うまくいくんだったら早く手術をすれば良かった、と、頭をよぎりましたが、ジストニアを持っていた2年半、多分無駄な時間ではなかった。たくさんのことを経験しました。必死に選択と決断を重ねて生きてきました。
地獄から這い上がる精神力と、どうしようもないことを目の前にしたときの問題解決能力がつきました。強くなりました。どんな困難な状況でも下を向いていては、誰も手を差し伸べてくれません。
何度ももうダメかと思いました。ストレスで関係ないところまで身体がボロボロになった数年間でした。(人間は限界までストレスを感じると身体が壊れます)
そんな私に這い上がるためのエネルギーをくれた人、手を差し伸べてくれた人、たくさんの方々の支えによって生き延びることができました。
演奏家としてのキャリアを進めることはできませんでしたが、空白の時間だったとは思いません。長いお休みいただきました。たくさん遊んだし、たくさんのことに挑戦しました。楽しかった。
一緒に暮らしている彼に手術を受ける覚悟ができたと報告をしたときに、
「また(音楽家としての生活を)はじめる覚悟があるってことだね?」
と聞かれた。
そう、音楽家として生きるのにも覚悟が必要だ。私はまた、はじめます。
ジストニアが治ったけれど、長いステージブランクがあるため、自由な音楽をできる演奏技術をつけるのに少々時間がかかると思います。信頼を取り戻してお仕事をいただけるようになるのにはもっと時間がかかるでしょう。
それでも、今、この身体を手に入れて、毎日ワクワクしています。練習しても何も積み上がらなかった日々を思えば、少しでも毎日進歩していく、脳が身体の動きを覚えていく感覚を味わえて、本当に嬉しいです。
ジストニアになる前、「もっと出世するんだ!いつか成果をあげるために、今は我慢の時だ!」と思い、様々な感情を打ち消して、狂ったように練習していました。ジストニアになってからも、「いつかは治して、またスポットライトを浴びるんだ!」と思っていました。
でも、多分その「いつか」ってのも、そのときどきの今でしかなくて、最悪な日もサイコーな日も、毎日が人生の途中です。
これから出会うであろう、困難も喜びも、楽しんで受け入れられたら。
2020.10.4. 葛島涼子