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記憶のすり合わせをしたかった私

15年前に書いたブログを読み返した。

その最後に「20年後ぐらいに子供たちに聞いてみたいものだ」とあった。特別なお出かけでもない、日常の一コマの出来事を覚えていて欲しかったのだろう。

なぜなら、私はいずれ娘たちが大きくなったら、小さかった頃の『記憶のすり合わせ』をしたいと思っていた。「あー、そんなことあったね」や「こういうこと、教わったよね」と、楽しく昔を思い出し、娘たちの成長を感じ、情緒豊かな子育てをした私自身を自画自賛したかったのだ。(笑)

なので、機は熟したと、最近よく娘たちに昔話を持ち出してみるのだが、これがなかなかうまくいかない。

どういうことかというと、さすがに大きな出来事などは覚えているが、日常的な記憶はあまり残っていないのだ。大体が「そうだったっけ?!」で終わってしまう。米ができるまでの話(注:15年前に散歩中に教えていた)なんて、ひとかけらも覚えていないのだ。

なのに、娘たちは私が覚えておいて欲しくない話はよく覚えている。

パーマ事件、かっこつけサングラス事件、手抜き食事メニューの件、雨が降っても迎えに来ない件とか、笑い話や私へのクレームなどはとてもクリアに覚えていて、いつも私の形勢が不利になる。

これは大きな誤算だった。ドラマや小説に出てくるような、美しく、奇麗な思い出話に花を咲かせる仲良し親子を想像していたのだが、現実は大きく違ってしまった。

それでも、大笑いしたり、言い訳したりしつつ、楽しく会話が出来るのだから、私の望んでいた『記憶のすり合わせ』は達成できたということだ。

そして、なにより娘たちが無事に、健康に、素直に育ってくれた。私が自画自賛などできなくたって、それだけで充分だ。

ただ、これ以上娘たちの記憶の奥底から笑い話やクレームが蘇らないことだけは、切に望んでいる。


最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




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