再び誰かを愛するために。関西在住大学講師の想い(アイドルオタク人生録 vol.4)
「それ以来、女の人を好きになれないんですよね」
そう話す彼はなぜか笑顔だった。
照り付ける太陽の中で、下り坂は飯田橋へと長く長く続いていた。
はじめに
「アイドルオタク人生録」というオタクへのインタビュー記事を公開したところ、思った以上に多くの反響があった。正直、普段会う人たちを中心に、20人ぐらい、仲間内で読んで楽しんでもらえば良いかな、という程度の目標だった。欲を言えば、いつか見知らぬ誰かに発掘されて「こんなやつがいたんだ、面白いな」と思ってもらえれば十分だと思っていた。
しかし、思った以上の反応をいただいた。自分と普段絡みが薄いフォロワーさん、また、元アイドルやマネージャーさんなど、自分の全く知らないところでも読まれているということを知った。初対面の人にも「読みました、大変面白かった」と言っていただいたのだった。
この記事でインタビューする「けもやま」さんも、普段は絡みの薄いフォロワーの1人だった。彼との付き合いは10年以上前に遡るが、実際に彼と私が最後にあったのは、おそらくは2014年である。
そんな彼が、インタビューに対してとても面白い、と感想を述べてくれて、自分も受けてみたい、と言ってくれたのだった。
私は、もちろん、彼にインタビューをすることに決めた。
私が彼にインタビューすることを決めたのは、単純に申し込んでくれたからということももちろんある。だが、積極的に話を聞きたいと思ったのは、彼が、vol.3のキーパーソンである原田珠々華を長年推してきたという点にあった。
同じアイドルを、色々なオタクを経由して見て、一つのシリーズでありのままに書いていく。いわば、アイドルにおける一種の「キュビズム」に挑戦したいと思ったのだった。
この記事で主として描くのは相変わらずオタクの話だ。だが、アイドルの姿も描いてゆく。
もしかするとあなたは、この記事を読んで、前の記事と同じアイドルの話をしているのかと不安になるかもしれない。だが、間違いなく、そうなのだ。
前の記事と読み比べて、こうも見る視点や接し方によってアイドルの見え方は違うのかということを感じてもらえれば幸いである。
都会の熱気と喧騒
小田急百貨店のビルが取り壊された新宿駅西口は、私が通い詰めていたころの景色とは全く違い、全く別の駅のようだった。
2019年頃、私は新宿駅西口近くのあるビルで働いていたが、もっと西口は広かった。しかし、2024年6月の新宿駅西口は、狭く、工事囲いだらけで、人がごった返していた。
そして、何よりも6月と言えども、照り付ける容赦ない日差し。新宿は、暑さと狭さが相まって凄まじい閉塞感だった。
私たちは西口で待ち合わせをしようと思っていたが、あまりの狭さに、私は西口から歩いて少しの喫茶店の前を指定し、そこで集合することにした。
「くらさん!」
久しぶりにあった彼に話しかけられたとき、私は記憶の中の彼と目の前に現れた彼が一致していることに安心した。
僕は彼を関西の大学生(当時)の一団の一人として認識していた。そして、最後に会ったのが10年前のももクロの現場だった。だから、他の人と脳内で間違って取り違えているということも考え得たのだ。しかし、目の前に現れた彼は、10年前、陽気にサングラスをかけて玉井詩織を応援していた時の面影がそのまま残っていた。今、彼は黒い帽子に眼鏡をかけた優しげな眼差しを持った青年だった。
「お久しぶりです」
お互いにそう挨拶し、彼は私に土産物を渡してくれた。ありがたい心遣いだった。彼は、このインタビューのために今日関西からわざわざ新幹線で来てくれたのだった。
ただ、あまりにも暑く、人が多い。私はまず礼を言って、その中身を確認する前にカバンにしまい込んだ。そして、一旦、私たちは喧騒から離れることにした。
今回の目的地は温泉ではない。
秋葉原にある原田珠々華が働く秋葉原にあるコンセプトカフェだ。私はそのなかには入らないが、彼は今日そこに行く予約がある。
だが、今、私たちは新宿にいる。何故か。
それは、歩きながら話をしたい、という私の希望だった。歩きながら話をしたほうが運動にもなるし、何よりも捗る。だから、新宿から彼の思い出の場所を訪れつつ、秋葉原まで歩こうという企画にしたのだった。普通は歩く距離ではないが、ウォーキングとしては決して異常な距離というわけではない。
新宿駅西口を歩き、西武新宿駅の脇を通り、向かったのは新宿MARZという小さなライブハウスだった。日本有数の繁華街。決して綺麗とは言えない街を私は落ち着かない気持ちで歩いた。
私たちが新宿MARZに向かった理由は、彼がそこでアイドルネッサンス時代の原田珠々華の生誕ライブを見たから、ということだった。つまり、思い出の地巡りということである。
酒臭く汚れた路地を抜けると、そのライブハウスが目の前に現れた。私も一度、虹のコンキスタドールのあるメンバーの生誕で行ったことがあるライブハウスだったように思う。
ライブハウスの前には、ストリートライブスペースが新設されていた。そこでは、シンガーソングライターの若い女性がギターを持って歌っており、数名のファンらしき男性がそれを撮影していた。
今はこんな風に変わったんだな、と、しばらく見ていた。ライブハウスの前にはオタクと思われる人たちがたむろしていた。今日も、何かがあるのだろう。するとちょうど開場したのか、オタクはライブハウスへ吸い込まれていった。そして、少しすると、目の前に見たこともないアイドル衣装を着たアイドルたちが数名現れ、同じくライブハウスへ吸い込まれて行った。
どうも対バンをしているらしい。入口に貼られたグループリストを見て、
「開歌ですよ」
と、彼は言った。
「開歌って、アイドルネッサンスにいた百岡古宵が所属してたグループです」
彼は付け加えた。
こんな偶然もあるんだなと思った。ただ、彼女はもうグループを卒業している。でも、きっと彼女と在籍期間が被っているメンバーもいるだろう。
とりあえずは、目的地付近。後述するが、彼は関西の人間だ。東京在住たる私が持ち合わせている若干の土地勘を総合すると、歌舞伎町のど真ん中を突っ切るよりも、もはや大久保方面に出てしまったほうが良いという判断で、大久保方面へ突き抜けることにした。
途中、大久保病院があり、「ああ、これが有名な”立ちんぼ”のスポットか・・・」と驚いた。大久保病院というから、もっと大久保の方にあるのだと思っていたが、歌舞伎町にあるということを初めて知ったのだった。
大きな通りに出ると、周りはハングル文字だらけだったが、やっと少し落ち着いた。絶えず自転車が行き来していて、派手な服装の人が目立ったが、先程よりは道も広く、落ち着いて話せる雰囲気になったのだった。
生い立ち
「けもやま」と名乗る彼が生まれたのは、1993年9月26日。神戸市で長男として生まれて、約3年後に妹が生まれた。その後、小学校4年生までは神奈川県の藤沢市で過ごし、それから京都府の長岡京市に引っ越した。
どんな小学生だったかと言えば、とにかくサッカー漬けだったそうだ。勉強もスポーツも全部そこそこできるし、サッカーをすれば友達ができたので、生きていくうえで悩みはあまりなく、困ることはなかった。
流石に、京都に転校することになった時には友達関係が全部リセットになるということに衝撃を受けたが、持ち前の運動神経とコミュニケーション能力で、関西弁もしっかり覚え、ネイティブとして溶け込んだ。
ちょうど2003年に京都に来たため、その時のクラスの話題の中心は久しぶりに優勝した阪神タイガースだった。周りの人間全員が全員阪神タイガースを応援しているということに少し驚いたが、こちらもすぐに適応し、今度は阪神漬けになった。
ちなみに、自分の親が関西出身だということを意識しないで生きていたため、京都に来て親が関西弁を話し始めたときに、何が起こっているのかよくわからなかったそうだ。その時に初めて、親が関西出身だということに気が付いた、と彼は話していた。
運動も勉強もできる彼は順風満帆な生活を送っていたようだが、一つだけ彼は注意深く付け加えた。
「空気を読む癖がすごくありました。それで、嫌な空気っていうものにどうしても耐えられないんです。ありますよね?そういうときって」
「ありますね」
「そういうとき、自分が損な役回りを引き受けてしまうんです、自分がそれをやればその空気を終わらせることができるなら、って」
「それはつまり、例えば学級委員が決まらないみたいなときとか、そんなときとかに立候補してしまう、みたいなことですか?」
「そうですね。例えばそういうものもありますね。実際学級委員はやりました」
「なるほど、ちょっと大げさに言うと、自分を犠牲にするっていう癖があったということですかね」
「そうです」
中学校もサッカー部で過ごした。高校もサッカー部一筋で過ごした。勉強は得意だったので、京都でも有数の進学校に入った。
サッカー部では微妙なポジションで、スタメンでもないが、万年補欠でもなく、1.5軍のような立ち位置だった。そして、同時に彼はスクールカーストにおいても、常にクラスの1.5軍のようなポジションだったという。
「けもやまさんの中高生の時の生活って、サッカーして、飯食って、寝て、学校行ってって繰り返しですよね?すごく良いじゃないですか」
「はい、あと、そうだ、お笑いが好きでしたね。当時エンタの神様の全盛期で、お笑いって面白いなって思っていました」
そんな彼が受験期で目指したのは、関西では名門と呼ばれる国立大学だった。学部は理系とも文系とも言えないような、スポーツ科学的な学部だということだった。
やりたいことなんて別になかった。だけど、強いて言えば、お笑いに対する憧れがあった。だから、テレビマンになれないかと漠然と思っていた。そこで、彼は、とりあえず良い大学に入る必要があると、名門の国立大学を目指すのだった。
しかし、彼は一度では大学に受からず浪人する。ただとにかく、一年後、大学には無事合格し、大学生活がスタートする。
アイドルオタクのはじまり
大学に入学し、いろいろなサークルを見学に行った。落語研究会にも見学に行ったらしい。しかし、どうもこれじゃない、と感じたそうだ。
サッカーには、部活などで真剣に競技として取り組むというより、交流がメインのフットサルサークルに入ることにした。
とにかく、暇だった。何をしようかと考えていた。
そんな時、2013年の夏が来る前の、ちょうど5月か6月だった。大学の友人とカラオケに行って、ある男性の友達が歌ったももクロに衝撃を受けた。
「とにかく、めちゃくちゃ楽しそうだったんですよ」
歌っていたのはココ☆ナツと、ワニとシャンプーだった。曲がどうこうより、とにかくその友人の楽しそうな姿に猛烈に惹かれた。インターネットでももクロを調べ、瞬く間にももクロの虜になった。
「それでいうと、ももクロのオタクに惹かれたんですか?」
「はい、最初は。でも、ももクロ自身が本当に楽しそうにライブしたりしているのに惹かれましたね」
「ちなみに、玉井詩織を推してましたよね?どこに惹かれたんですか?」
「僕はアイドルに触れてこなかったので、推しを選ぶ方法もわからなかったんです。ももクロはメンバー全員が好きでした。だから、実は、ももクロマンチョコっていう商品で、ランダムでシールが1枚入ってるんですけど、1つだけ買って、それで、出た子を推そう、って決めたんです」
「え、そんな理由なんですか!つまり、それで出てきたのが玉井詩織だった、と」
「はい、そういうことです」
私たちは東へ歩き続けていた。
新宿から、東新宿を通り、今、若松河田駅周辺にたどり着いていた。私は実は、大学生時代に若松河田駅のすぐそばに住んでいたことがある。
あまりにも変わり果てた景色に声が出てしまった。
「うわー、マジか、景色変わりすぎ・・・」
「東京はほんと変わりますねえ・・・」
以前は細い道が多数存在していたところが、今や大きな太い車道になっていた。
そして、私が住んでいた小さなアパートは、13階建ての高級マンションに様変わりしていた。通い詰めたセブンイレブンだけが同じだった。
「ももクロのファンになってTwitterを初めて、ファンで関西で集まって友達になりました。それで、うちで働けよってバイトに誘われたりしてみんなで同じ居酒屋でバイトしてましたね。オタクだらけの居酒屋で、本当に楽しかったです。そのあと、ももクロが国立に行って、たこ虹(たこやきレインボー)が出てきて、みんなでそちらに行くようになりました」
「たこ虹は関西のグループですもんね、推しメンは誰でしたっけ」
「そうなんです。堀くるみを推していました」
「理由はなんですか?」
「捻挫かなんか、怪我して椅子座ってたんですよ。それを見て、面白そうだなって」
「また顔とかじゃないんですね」
「はい、実はそうなんです」
交差点へたどり着いた。まっすぐ行くと早稲田、右へ曲がると牛込柳町や飯田橋という方面への分かれ道だ。大学生時代の無意識の感覚で、早稲田へ向かってしまいそうになる。冷静にアプリを立ち上げ、私たちは東へ向かわなければならないことを思い出し、確認し、右に曲がることにした。
挫折と失敗
その時、彼がボソッと話し始めた。
「そういえば、高校の時、彼女いたんですよ」
「お、いいですね。いつからいつまで付き合ってたんですか?」
「高校1年のときから、浪人中ぐらいまで付き合っていました。同じ高校で」
「長いですね!」
「で、それ以来、女の人を好きになれないんですよね」
「それは、どういうことですか?」
「責任を取れないっていうか」
「責任?結婚しないといけないのに別れてしまったみたいな意味ですか?」
「いや、いろいろあって…僕はそれを失敗と捉えているんです。言ってしまえば、ずっと挫折なんて経験してこなかったんですけど、初めてそこで挫折というか、そういう経験をしたんです」
彼は、ゆっくり、話し始めた。
「彼女のお母さんは双極性障害だったんです。つまり、躁病と、うつ病を繰り返すタイプで。僕が会ったときは、全然普通だったんですけどね。でも、やっぱり色々大変だったみたいで。ある日彼女から連絡が来て、家に帰ったら、弟と妹がしびれて倒れている、と」
「どういうことですかね・・・?」
「とにかくわからないけど、作ったカレーがそこにはあったらしくて。なにか、お母さんが、整腸剤か何かわからないですけど、カレーに薬物を入れちゃったらしいんです」
「それは、なぜですか?」
「わからないですね。でも、多分病気で入れちゃったんだと思います。そのとき、彼女から、助けてってメールが来て」
「そうですよね…」
「たびたびそういうことがありました。でも、僕たちが通っていた高校は京都にあって、僕は大阪寄りの京都だし、彼女は奈良寄りの京都で、どう頑張っても彼女の家に行くのに2時間以上かかるんです。夜中とかだったりすると、もう無理で」
「うーん、それは、高校生にはどうしようもないですよね」
「そのあと、2,3か月して、彼女のお母さんは精神病棟に入院しました。いわゆるそういう服を着て、です」
自傷を防止するために、自由を奪う服、いわゆる、拘束着だ。
牛込特有の急坂を降りて行く。歩いているとは言っても、相当な急斜面を降りている実感がある。
「ただ・・・どうにかしてその拘束着の中に刃物を持ち込んで、拘束着を切ったらしいんです。そして、彼女のお母さんは、病院の窓から飛び降りて、亡くなりました。2月の国公立の大学受験の、2週間前くらいのときでした」
彼の話すテンポは先程までと比べると明らかに遅くなっていた。それは、もちろん話の内容にもよるだろうが、それよりも、慣れていないことを話すことによる緊張感があるようだった。
「そんなことがあって、どうして良いかわからなくなってしまって、僕は彼女から遠ざかりました。僕は完全に部外者じゃないですか。それから、あんまり連絡を取らなくなりました。浪人中の10月頃、相手はもう大学生になっていたんですけど、『もう好きじゃなくなった』って言われて振られました」
「なるほど・・・それは、やっぱり、さっきの話じゃないけれど、悪い空気から逃げたくなるっていうことなんですかね。今までは自分が損な役回りを引き受ければどうにかなったけど、今回ばかりはそうもできないというか」
「そうかもしれませんね…。この話はほとんど人にしたことがないんです。だからなんですよ、僕がアイドル好きなのって。付き合うわけじゃないし、責任を負わなくていいじゃないですか。あくまでファンとアイドルっていう壁があるから、一定以上の関係には絶対にならないので」
「なるほど・・・てか、話戻りますけど、彼女メンタル強くないですか?2月にそんなことあっても大学受験して受かってるんですよね?」
「そうなんですよ、僕がショック受けて落ちるっていう」
アイドルネッサンスの発見
「話は戻ると、そんな感じで、基本たこ虹に行ってたんですけど、あるとき、YouTubeを見ていたら、アイドルネッサンスを見つけました。そして、そのコンセプトが”永久機関”だと思ったんです」
「永久機関とはどういうことですか?」
「アイドルネッサンスって、昔の名曲をカバーするじゃないですか。これって尽きることがないし、永遠にできるじゃん、って。しかも、普通のアイドル以外の曲をアイドルがやることで、逆にアイドルっていうものが浮き彫りになるように思えたんです」
「アイドルネッサンスを見て、原田珠々華にすぐに惹かれたんですか?」
「はい、顔が好みだったのと、何か、自分と同じ匂いがしたんです。空気を読んでいるというか。そこに共感しました」
「じゃあ、原田珠々華は初めて自分の意思で決めた推しメンなんですね」
「そうなります」
そうして、彼はアイドルネッサンスにハマっていき、徐々にたこやきレインボーからアイドルネッサンスをメインとするようになる。
「2016年の年末でしたが、師匠と言える人と2人で初めて見に行ったんです」
「師匠?どんな人か詳しく聞いても良いですか?」
彼が言う師匠とはこんな人だった。
圧倒的に金を使ったりするようなTOというタイプではない。ただし、必ずどの現場にもいた。いわゆる2番手、3番手のオタクである。
(TOとは、トップオタクの略。あるアイドルのオタクの中で、基本的に1人しかいない、トップに立つオタクである。人によって定義は違い、金額、頻度、推しからの気に入られ方、知名度などを総合して判断される)
とにかく面白い人で、TOとも仲が良かったし、彼のたこ虹の接触は、その様子を第三者に発信し、それを楽しんでもらうところまで含めて設計されていた。さながら、大喜利のようだった。その人が推しメンと話すのを見ているだけでも自分が楽しくなると彼は話した。
自分がこうなりたい、という理想が完全にその人だったということらしい。
実際にその「師匠」は、ケータイ大喜利という番組で「レジェンド」の称号を与えられるほど笑いのセンスがある人だったようだ。
(※ケータイ大喜利とは、NHKの視聴者投稿型の大喜利番組。何度も投稿が採用されて面白いと思われなければレジェンドの称号を手にするのは難しい)
「実際に原田珠々華に会って、どうでしたか?」
「それが、全然自分が思っていた暗さみたいなものはなくて、ひたすらアイドルって感じでかわいいと思いました」
「そっからは、ガチ恋みたいな感じですか」
「そうですね。ガチ恋にかなり近かったかなと。でも学生だし、地方だから、限界があるわけで。ブログのコメントとか、必ずするのは当たり前で、そのうえで尖らせていくというか、そういうのは意識していました」
「オタクはオタクとしてしつつ、進路はどうしたんですか」
「テレビマンになりたいという漠然とした夢があって、小さな制作会社に内定はもらっていたんです。でも、漠然と迷いがあって。そのとき、ゼミの先生から、うちで研究しないか?って言われたんです。それで、先生にお世話になっていたこともあったし、先輩がかっこよかったので、ああ、こう言う人になりたいなって思って、院に進学することに決めました」
「じゃあ、2017年3月に卒業して、院に行ったということですか」
「いや、そうじゃなくて、実は大学は5年行ってるんです。大学の先生からその話をされたとき、もう大学院の試験って終わってて。だから休学したんです」
「なるほど、それで。じゃあ、2018年4月に院入学ってことですね」
「そうです」
「通っていた大学の大学院へ?」
「はい。そのまま」
「そうすると、さっき通った新宿MARZの原田珠々華の生誕って、2017年10月だから、休学中ぐらいになるんですかね」
「そうですね。ちなみに、アイルネの生誕イベントって、ソロでやるんですよ基本。彼女とサポートメンバーのバンドがいて、それで歌ったりっていう」
「そうなんですね」
「そのとき、ああ、こういうのもいいな、って思ったんです。ソロアーティストも良いなって」
「そうでしたか」
「でも、まさか、アイドルネッサンスがああいう形で終わるとは思ってもいませんでした。今でも覚えてますよ。1週間ぐらいブログが無くて、なんだろうってざわめきがあって、アイドルネッサンス解散発表があって。突然でしたね」
「最後のライブは行ったんですか?」
「はい、解散ライブは行きましたね。でも、接触がなかったんです」
「らしいですね」
「なので、またシンガーソングライターとして出てきたときは、嬉しくて、2回目ぐらいのライブですぐ見に行きました」
アイドルネッサンスは、2018年2月に解散している。そして、原田珠々華は2018年にシンガーソングライターとして復活をしている。
それから彼女はソロアルバムなどを発売し活動を続けて行く。
「ちなみに、彼女はけもやまさんから見て、病んでるように見えませんでしたか?」
「いや、全然そんな風には見えなかったですよ」
「リスカとかそんな話はなかったですか?」
「いや、あれはヘアアイロンで火傷したとかって。誤解されがちですけど」
「ああ、そうなんですか・・・」
「原田珠々華の好きなところは、どんなところだったんですか?」
「顔と、歌声と、あと、なんて言うんだろう、上に行こうとする強さというか。アイドルネッサンスって石野理子がやっぱり大きな存在だったと思うんです。でも、アイドルネッサンスのオリジナル曲である『前髪』の歌い出しは原田珠々華なんです。その絶対的な存在である石野にチャレンジしていって、ある程度のパートを貰えて。結果を残せたというか。そういう、上へ上へ行こうとする負けん気っていうのは自分にないところなので、すごく惹かれましたね」
水道橋まで来たところで、2時間近く歩き続けていた。流石にかなり疲れが溜まってきた。再び人通りは非常に多くなり、制服の高校生が目立つようになってきた。
私たちは交差点を渡った河川敷の小さな石の上で腰掛けて一休みすることにした。
「それで、2020年から、またいろいろあったんですよ…」
自分との向き合い
2018年4月に大学院に入学した彼は、2020年3月に卒業を控えていた。
彼は、研究者を目指して博士課程に進むことを決めていた。
理由は2つあった。
スポーツをすることによる身体的効用についての研究はたくさんあるが、スポーツを見た人が、どうして明日頑張ろうと思えるような活力を貰えるのだろう、ということを本気で研究している人がいなかったこと。
そして、自分が実際に自分がそうしたものに本当に活力を貰ってきたから、それを解明したいと思ったことだ。
そうして、研究者の道へ進むべく、研究計画を作っていた彼だったが、新型コロナウイルスが世界を変えた。
コロナですべてが崩壊し、スポーツどころではなくなった。東京オリンピックは延期され、その後もしばらく多くのスポーツは無観客という状態で競技が行われた。彼の研究計画は実現不可能なものとなってしまった。彼は1週間、ほとんどベッドから起き上がることができなくなった。そして、見るに見かねた親に、病院に行けと言われ、ついに精神科に行くことになった。
付いた病名は双極性障害Ⅱ型だった。
治療の一環でカウンセリングを受けることとなり、そこで初めて、自分自身としっかり向き合うという機会を得たのだった。
「感情があったら、紙に書いて吐き出してくださいと言われました。そして、書いたらその感情を自分から切り離してください、と。そのあと、その紙を使って、どうしてそういう感情になるのだろう、というのをカウンセラーと一緒に見て行くんですけど、本当にそうかな?自分の思い込みじゃないかな、というようなことを客観的にカウンセラーに指摘してもらうんです」
「認知のゆがみを客観的に認識する、というものですね」
「はい、認知行動療法という手法らしいです。自分が恐れていることの3割も起こらないんだなということがわかりました」
「そこからはしばらく休んでいました。2023年まで、3年ぐらい休みましたね。これまでも実家なのですが、実家で療養するという形になりました。この話は原田珠々華にも伝えました。メッセージなどを送って、しっかり自分が今こういう状態で、なかなかイベントやライブに行くことはできない、ということを」
「なるほど」
「そんな療養中でした。2022年3月に突然、事務所を退社と発表があって。アイドルネッサンスの時と同じく、また突然の終わりでした。最後に立ち会えなかったという気持ちがまた生まれました」
最後のアイドル
原田珠々華は2022年3月31日に事務所(タワーレコード)を突然退所となり、タワーレコードのアーティストとしてはシンガーソングライターとしての活動が終了。不安が広がった。次はどうなるのだろう、と。
しかし、次の活動の発表までにそれほどの時間はかからなかった。2022年6月4日、虹のコンキスタドールの予科生になることが発表されたからだ。
「虹コンに入った時の感想はどうでした?」
「虹コンかぁ・・・という感じでした。別に虹コンの曲は好きでしたし、グループとしては大手のほうだと思うんでグループが嫌だとかじゃないんですけど、虹コンの曲とか全部覚えないととか、メンバーを好きにならなきゃ、と思ったんです。好きにならないといけない、と感じている自分が凄く嫌でした」
「好きにならなきゃ、という義務感を感じてしまって、それが嫌だった、と」
「はい」
「なんでグループを好きにならなきゃ、って思ったんですかね?単推しとして生きていく事もできたわけですけど」
「僕はももクロからアイドルに入っているので、メンバーよりもまずグループを好きになって、そこから推しメンを選ぶっていう推し方しかできないんです。箱ごと推す。ももクロも、たこ虹も、アイドルネッサンスも、グループからメンバーという順番でした。もうそこは変えられないな、と思ったんです」
「なるほど。だから、虹コンを好きになるというか、インストールしなきゃいけなくて、それがちょっとしんどいな、と思ったわけですか」
「そうですね」
歩き疲れてエネルギーを消費していた私は、何かを口に入れたかった。そういえば、と彼から貰ったお土産を出した。それは小分けにされたバターケーキだった。
「美味しそうですね。これ、今食べて良いですか?」
どうしても何か食べたい私。
「もちろん。めっちゃおいしいですよ。でも、水分をだいぶ取られますよ」
と彼。
黄色いパッケージを開封してバターケーキを取り出した。
口に入れると確かにバターの香りがはっきりとしてきて、甘く美味しい。そして、確かに彼の言うとおり、口から水分が失われていく。
私たちはバターケーキをミネラルウォーターで流し込んだ。
約2時間の有酸素運動でフラフラになっていた私にはバターケーキは天からの恵みであった。ただひたすらに美味かった。
しばらく休憩した私たちは、再び秋葉原へ歩き出した。とはいっても、もはや水道橋まで来ている。あと少し歩けば千代田区。千代田区に入りさえすれば、もう少しだ。
実は、このルートは、たまたま、私が東京に住んでいた地に近い部分を巡っているのだ、と彼に話した。
先述のとおり、大学生の時は新宿区の若松河田に住み、何かあれば新宿へ買い物に出かけていた。その後就職し神奈川県横浜市戸塚区に住んだあとは文京区白山。休日には文京区随一の娯楽施設である水道橋の東京ドームシティに温泉に入りに来たりしていた。その後、千代田区の岩本町。つまり秋葉原に住んでいたのだ。
私は、ずっとどこか懐かしい空気を味わいながら歩いていた。
そして、私たちはついに、私が大好きな道の1つである、水道橋から御茶ノ水、秋葉原への道を歩き始めた。この道は川沿いで美しく、緑もあり、歴史を感じられる道である。
ただ、どこか歩く人は落ち着かなかった。謎の紙のお面を被った年老いた男性とすれ違ったり、一眼でよく分からない場所の写真を撮る挙動不審な清潔感のないオタクっぽい人が、私たちの周りにウロウロしていた。
「今思うとですが、どうして原田珠々華にずっとついて行ったんでしょうか?グループが変わるタイミングだったり、そもそも途中で他のアイドルに行く機会なんていくらでもあったと思うんですよ」
「そうですね・・・言われてみると。でも、なんだろう、アイドルネッサンスからシンガーソングライターになってそのあと虹コンに入ったりで、彼女を推していて変化が多かったのはあると思います。ついていくと、次はどうなるんだろうって、色々な景色を見せてもらえる、みたいな」
「なるほど。一人ではあるけど多様な経験ができたと。虹コンにはどのくらい行ったんですか?」
「全然行ってないんです。片手で数えられるくらいしか行ってないです」
「なるほど。それはやっぱり病気の件があって、という感じですか?」
「そうですね、それはありました」
ここまで話してきて、そろそろ聞いてみたいことがあった。
まずは、TOを認識していたかどうかということ。
そして、原田珠々華の精神的な面についてである。
この2つの疑問は、前のnoteを読んでいただいた方であればわかるだろう。
おそらくTOであったかわもとさんを彼は認識していたのか、また、推しメンに対して、彼と同じ捉え方をしていたのかを確認したかった。
「TOってわかりました?」
「いや、全然わからなかったです。まあでも、多分この人なんだろうなっていう人はいました」
「そうなんですね」
「あ、あとトントンさん、虹コンの時には目立っていました。実際に行ってなかったのでわからないですが、多分トントンさんがTOだったんだろうなと」
「そもそも、トップになろうと思ったことは一度もないんです」
「でしょうね。なんていうか、中間にいることを好む傾向がある気がします」
「まさにそうです。サッカーも、サイドバックだったんですけど、ボランチにポジション変えてもらったんです。僕が点取るんじゃなくて、自分が媒介になって誰かを生かすのが好きだったので」
「あと、もう1つ聞いておきたいことがあるんですが、原田珠々華がかまってちゃんだとか、病んでいるなと思ったことはないですか?」
「いや、あんまり・・・」
「そうでしたか」
「もしかしたらですが・・・、僕がそういう空気を拒否していたのかもしれないです」
「どういうことです?つまり、心を病んでいる、みたいな発言を聞きたくないから、そういう風にならないように話題を変えてしまう、とか、そういうことですか?」
「そうです。僕はそういう話題がすごく苦手だったので、基本的に推しとそういう話はしなかったし、極力それを避けてきました」
「なるほど。オタクっていろんな人がいると思うんですけど、推しから弱音を吐いてもらうみたいなのを、”頼られてる”って喜ぶ人ってまあまあいると思うんです。そういう点においてけもやまさんは、全くそういうことは嬉しくもないし、そもそも聞きたくなかった、と、そういうことですかね」
「はい、完全にそうです、言われて、今、気が付きました・・・僕は、確かにそれを避けていました」
「なるほど」
「でも、避けていたんですけど、配信とかで彼女が病んでるという話は見たりしましたね。記憶が飛ぶって言ってたんです。病気なのかよくわからないんですけど」
「ああ、なるほど、精神的な解離とかなんですかね」
「それはわからないんですけど、でも、逆にそういうことがあるからこそ曲が書けるんだ、みたいな話もしていました」
「病んでる分感性が鋭くなるみたいなのはあるんでしょうね」
「でも、最近そういう病んでるみたいな話もできるようになったんです。アイドルを辞めてからコンカフェでそういう話をしました。前回帰り際に、『お互い同じもの持ってるから気をつけようね』って。彼女だけが病んでるわけではなくて、僕もまた、そうなんです」
秋葉原の象徴の1つとも言える鉄橋を超え、私たちは秋葉原駅の方へ歩いていた。何かイベントを開催しており、お面のようなものを配っており、人でごった返していた。
先ほどの男性がつけていたのはこのお面だったのか。
もう、ゴール地点まではすぐ。聞けることは聞いておきたい、と思った。
「けもさんは、もう1回人を好きになりたいと思いますか」
「まだわからないですけど・・・ちょうど、先週の日曜日に祖母が亡くなったんです。そのとき、危篤状態になってから親戚が全員集まるまで死なずに生きてたんです。祖母は孫や子供に看取られながら亡くなったんですけど、その時、ああ、自分もこうなりたいなってふと思ったんです。そうしたら、そもそも子供がいないじゃん、と気が付いて。それで、結婚したいなって思うようになりました」
「なるほどですね」
駅のすぐそばに着く。
人混みを避けるように、向かって左側・・・つまり、駅から北側へ歩いていく。
前回コンセプトカフェへ行っていたため、場所はなんとなく把握しているのだ。
「その、別れた彼女は何をしているのかわかるんですか?」
「いや、まったくわからないですね」
「なるほど、彼女に対して今何を思いますか?」
「幸せに暮らしていてほしいです、ただそれだけです」
「そうですか…」
決まらない前髪を
今日、別れる前にきちんと伝えておきたい。話しながら考えてきたことを。彼が無意識に背負っている重荷について…。
「僕思うんですけどね・・・。けもやまさんは、空気に非常に敏感なんだと思います。だから、小さい時から嫌な空気というものに耐えられなかった一方で、ももクロのオタクが楽しそうなものを見てすごく惹かれたりとか、スポーツとかアイドルが発するポジティブな空気にものすごく惹きつけられているんだと思います。そして、良くも悪くもその周りの空気に同化しようとしてしまう気がするんです。彼女のお母さんが亡くなった時も同じで、もしかしたら、彼女と同じだけの苦しみを背負おうとしたんじゃないかなっていう気がします」
私は話し続けた。
「けもやまさんは、彼女のお母さんが亡くなった時、自分は部外者だと言いましたが、それは当たり前で、逆に、部外者だからこそ、冷静でいられるはずの部分もあるし、亡くなったお母さんの家族である彼女と同じだけ悲しむ必要はなかったんです。でも、けもやまさんは同じくらい悲しもうとしてしまった。その結果、耐えられなくなって、限界に達してしまったのかもしれない、そう思います。そういう意味では、確かにお母さんが亡くなった時、けもやまさんは逃げたのかもしれないです。でも、仮にそうだとしても、辛いときにけもやまさんがそばにいてくれたことは絶対彼女にとって救いだったと思うんですよね」
「そうですかね・・・」
「うん、そう思いますよ。やっぱり、本当に辛いことがあった時って、誰かそばにいてほしいじゃないですか。絶対、そのときに、けもやまさんがいて良かったと思います」
「そうですかね・・・人に話したことがないから、そうやって肯定してくれるのも初めてなので、なんと言っていいか」
「あと、けもやまさんは、アイドルに対しては責任を負わなくていいから良いと言っていましたが、僕にはそうは見えなかったんですよ。アイドルに対してもどこか、責任を負おうとしているように見えました」
「ははは、それを言われると小刀で胸を突かれたような、そんな気持ちになりますね」
「もっと無責任に推して良いんだと思いますよ。良い意味でね」
秋葉原の消防署の前を通っていく。秋葉原と火事は密接な関係がある地域だ。元々、秋葉原は大火対策の火除地であった。
「ちなみに、虹コンの最後はどうだったんですか」
「そうですね、虹コンだけは、最後がアナウンスされたんで、これは絶対行かないといけない、と思って、会いに行きました。それで、何を言おうかってたくさん考えて考えて、”推してる間、幸せだった”って伝えたんです」
「おー、素敵ですね」
「そうしたら、『私を幸せにしてくれてありがとう』って返してくれたんです。正直こんなこと言われるって思ってなかったですし、ああ、自分のやってきたことは間違ってなかった、とすごく嬉しくなりました」
「うわ~~!それはめっちゃ嬉しいですね」
「そうなんですよ、それでその後富士そば行ったんですけど、泣きながら蕎麦を食べました」
「ははは、富士そばですか」
キミの夢が叶うのは
最後に、コンカフェの予約時間まで、少し座って話していた。
「今まで、オタクをしてきて、一番楽しかった時っていつですか?さっきの富士そば?」
「うーん、それもありますけど、ロッカジャポニカとたこやきレインボーが大阪でフリーライブした時に、友達とぼーっとライブが始まるのを待ってたんです。そうしたら、後ろの人から肩を叩かれて『けもさんですよね?』って。誰かわからないけれど、『はい』って答えたら、『あなたのおかげでオタク始めました』って言ってくれたんです」
「おお、どうしてですか」
「昔、僕らが他のイベントで後ろのほうでフリコピして踊りまくってたりしていたんですけど、それが結構目立ったらしくて。その僕らがあまりにも楽しそうで、それでオタクになったって言ってました」
「完全にけもさんがオタクになったきっかけと一緒ですね!ももクロのオタクがカラオケするのがあまりにも楽しそうでオタクを始めたんですよね?今の話って、自分が楽しくオタクする姿をきっかけに、新しくオタクが生まれたわけで」
「本当に、そうなんですよ。その時は本当に嬉しかったです」
「ところで、原田さんがアイドル卒業したので、アイドルを推す枠って空いてますよね?ニアジョイでも通いませんか。地上枠っていうんですか、良い意味で無責任に通ってみたらどうかなって」
「ああ、そういう意味では、僕は日向坂に通ってるんですよ」
「あ、そうなんですね。推しメンは誰ですか?」
「丹生明里です」
「ああ、いいですね。顔が好きで?」
「いえ、ラジオで。声が好きで推しました」
「変わってますねえ。結構積んでますか?」
「いつも60枚ぐらいは買ってますね。まあまあって感じです。ちなみに、日向坂のお話し会で僕と話した内容をラジオで話してたりしたこともあったんですよ」
「ああ、こういう話をファンとしたんだ、みたいなのをラジオで話したっていうことですね」
「そうなんです」
「っていうか、ラジオ好きそうですよね。お笑い芸人の深夜ラジオとか」
「ラジオ大好きですね。ちなみに日向坂のラジオは20回以上メール読まれてます」
「マジすか、すごいですね」
「でも、僕はそのラジオネームではTwitterはしないんです。なんか・・・ね。丹生ちゃんの前ではその名前で名乗りますけど」
「そうなんですね」
お分かりだろうか。
なんてこの人は楽しそうな顔をするんだろう、と友人を見てオタクを始めた彼は、いつしか、その時の友人と同じ役割を担っていた。
そして、彼が強く憧れていた”師匠”は、たこ虹の接触を大喜利のように楽しんでいた。そして常に面白い投稿を、テレビの大喜利番組宛てに送っていた。
彼は今、日向坂46という日本最高クラスのアイドルグループのメール職人になっている。彼はいつしか、その師匠に近づいているのだ。
知らず知らずのうちに彼は今、自分がずっと憧れていた役割を担っているのではないか。
「僕が女の人を好きになれない話をしたの、本当に珍しくて。ゼミの先輩1人だけです。今までしたことあるの」
「じゃあ僕で2人目ってことですか」
「そうですね」
「隠しているわけではないんだろうけれど。なかなか機会もないだろうし、っていうことなんですよね、きっと」
「そうなんです。飲み会で彼女いないの?って聞かれていちいちこんな話できませんから。飲み会ってそういう空気もでもないですし」
そういえば、ずっと彼の右手には紙袋があった。
「その紙袋、何が入ってるんですか?」
「これは、原田珠々華への差し入れですね。体調が最近悪いっていうから、ハチミツをたくさん買ってきました」
「優しいな~渡すと喜ぶでしょうね」
「あと、お店のイベントで一位になりたいって言ってるんです、協力してあげたいなと」
いつか憧れていた存在に確実に近づいている彼。いつか、自分にない「負けん気」を持っていると憧れた原田珠々華のような存在に近づくことはできるのだろうか。今まで足踏みしながらも、着実に前に進んできた彼のことだ。いつか、必ずたどり着けるのだろう。
話しすぎて、予約の時間を少しオーバーしていた。そろそろ解散し、コンカフェに向かうことになった。
「今日は、ありがとうございました!」
そうして私たちは別れた。
彼はコンカフェへ行き、私は駅の方向へ向かった。
1人、帰り道でこんなことを考えていた。
ハジマリのオトがする
彼は、会話の中でことあるごとに「僕は何も考えていなかった」「自分がなかった」「自分に向き合ってこなかった」と話した。確かに、彼は進路で迷って留年したりという経験をしている。
だが、私は彼と話して感じたのは、彼が無計画であることや、物事から逃げてしまうというようなことではなく、むしろ真逆だった。あまりにも真剣に向き合いすぎているのではないか、ということだった。
彼は自分が生きているこの世界をより良くしたい、逆に悪くしたくはない、という意識が極めて強いのではないか、そのように感じた。
彼はあらゆるときに、人を優先しすぎるのではないかと思う。空気があり、相手がある。自分が我慢して済むなら自分が我慢する、それが、良くも悪くも「自分と向き合う」前に、他人と向き合って、他人を大事にしてしまったことなのではなかったか。
高校の時の彼女の話は、記事にして公開しても良いんですか?と、聞いたが、むしろそれで良いのだ、と彼は話していた。
ゼミの先輩1人だけに話したが、カウンセラーにも今まで話したことはなかった、と。隠すつもりはなかったと彼は話すが、しかし、この話をすることで場の空気を壊してしまうことをとても、それも必要以上に恐れていたように見えた。それに、カウンセラーにも話したことがないというのは、少し不自然というか、やはり、話したくないと思っていたのではないだろうか。
もしそうだとすれば、彼が今日ここで告白したことの意味を重く受け止めたい。このnoteが彼の人生にとって有意義になることを私は心から願う。
新宿と同じように、秋葉原駅前の広場ではシンガーソングライターらしき若い女性が何かを歌っていた。そして、その様子を数名の男性のファンが撮影していた。
誰かの歌が響いて、都会の喧騒の一部になって、消えてゆく。でも、この名前も知らないシンガーソングライターも、誰かの愛の対象、つまり誰かにとって大切な誰かなのだろう。
いつか、誰かを再び愛するために。
その第一歩が、この日であり、このnoteであると信じたい。
東京は成長する。アイドルも成長する。そしてアイドルオタクもまた、成長する。
私は秋葉原駅の改札をくぐった。
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