過去、現在、未来が交差する瞬間
虹コンの武道館から1日後、きやさんのnoteが公開された。「ありえたかもしれない未来」も「いまここにある現在」も否定せずに生きることという記事だ。
タイトルどおり読めば、彼の推しだった奥村野乃花との付き合い方が少し違っていたら、彼女はもう少しアイドルができたのではないか、自分は正しかったのだろうかという「ありえたかもしれない未来」の話がありながらも、それでも武道館というステージにたどり着いた虹コンを讃え、「いまここにある現在」を否定せず生きていくんだ、という話であると理解した。
しかしそこに付随して、当時の雰囲気や今だから言えることなど、また6年前の自分自身についても気が付かされることがあった。これは、当時の虹コンの現場に通っていた人ならば同意してくれると思う。
これに触発されて自分も何かを書いてみたいと思った。
僕は、きやさんのnoteが公開された直後に、大きく3つのことをツイートした。
・長田美成が脱退したことは自分にとっても大きかった。
・当時僕は、アイドルのことを今ほどは信じていなかった。つまり、なんだかんだ言ってお客さんは数字でしかない、と思っていた。
・武道館に行く途中に1人だけ僕に気が付いて声をかけてくれた人がいた。それは、奥村野乃花だった。
これらは時間的には集中的にツイートしたものだが、1つ1つは別につながっているものではない。しかし、改めてこう並べてみると、点が線になっているようにも思える。
はじめに述べておくと、僕は、2015年の7月に奥村野乃花に出会って推すことを決意し、結局2016年の秋頃には推し変をしてしまった人間だ。
虹コンとの出会い
僕が虹コンに出会ったのは2015年3月だった。僕は当時池袋のピアノ教室に通っていた。その前後だったのか、何曜日だったのかは覚えていないが、ANNA☆Sと虹コンの共同のイベントがアニメイト池袋で開催された。その時に、初めて虹コンというグループがあるということを知り、トライアングルドリーマーを聴いた。その時は、AKBの夏曲みたいにコールが盛んな曲だなというくらいの印象くらいで、取り立てて印象に残るものはなかった。強いて言えば、グループの中には中学生メンバーがいて、勤務時間の観点から時間のリミットを告げるアナウンスを聴いて「中学生を推すとかロリコンの人も大変だなあ」と思ったものだった。
僕はその後、2015年4月から6月は私立恵比寿中学の春ツアーにかなりの頻度で通った。ツアーの遠征費用やチケット代で7桁あった貯金を5桁にまで減らしながらも、その傍らで転職活動をし、結果大手のコンサルティングファームから内定をもらった。
そして2015年6月の中旬、僕は勤めていた会社を辞めることにし、有給消化期間に入った。
その有給消化期間に出会ったのが虹コンだった。地下アイドルといえば曲にお金をかけられずイマイチなトラックで客にコールをさせて盛り上げるといったイメージがあったが、虹コンのトラックはよくできていた。最初から地上クラスの楽曲があり、作曲陣もチームしゃちほこのキラーチューンを手掛けている浅野氏だったりと、僕のニーズと虹コンのポジションは上手く合致していた。
また当時、月曜日はアニメイト、金曜日はソフマップ劇場といったルーチンがあり、お金をかけずとも虹コンを気軽に見ることができた。
1か月半の有給消化期間のうちに僕は虹コンに通うようになった。
奥村野乃花を推すことにしたのは、きやさんとは違ってある程度熟考したうえでの結論だった。今では溢れるほどいるが、当時はアイドルオタクのアイドルというのは珍しかった。ガチ恋口上という長い口上をオタクと一緒に口ずさむのを見て、この子は普通の子じゃないと感じた。そして推すことにした。
彼女が一番人気だと気が付いたのはいつだったのかはわからない。一番人気だと認識して推したのか、後から気が付いたのかは全く覚えがない。
それからも僕は着実に現場に通った。そして気が付けば相当な人数と仲良くなっていて、おまいつ軍団の一部と化していた。これが、2015年の10月頃だ。
虹コンのおまいつ(常連のこと)はユニークで優秀な人材の集まりだった。学歴も年収も高い人間ばかりだった。そうでない場合であっても、何か一芸に秀でている人がたくさんいた。何を何とどう比較して、というのは言いようもないが、未だにこの時代の虹コンのおまいつを超える軍団はあまりないのではないかと思う。
この時代は本当に幸せだった。多分、僕が虹コンを推していて最も幸せだったのがこの時期だったと思う。自分がオタクの中で一定の居場所があり、推しとも充実した会話ができているようなそんな時代だった。
僕は以前こんなツイートをして、僕にとっての虹コンのすべてが詰まっていると書いた。今読み返しても、そのとおりだと思う。
そのままずっと幸せが続けばよかったが、そうした時代は長くは続かなかった。仕事の問題だ。プロジェクト替えにより深夜3時まで働いたりすることが増えた。平日はほとんどイベントに顔を出すことができなかった。上司からも追い詰められ、精神的にも肉体的にも限界だった。
結果的には僕はこのプロジェクトをなんとか乗り越え、仕事でも一定の評価を得た。そしてエイリアンガールのリリイベ頃(2016年3月頃)にはある程度復帰できるようになるが、そのころには2015年11月ほどの熱量はなかった。そして、前のような居場所もなかった。
居場所がなかったというと大げさな言い方かもしれないが、おまいつの中では、次は誰が辞めるといった情報等、色々な情報を裏で得て共有しているようだったが、僕は、その中にはいつしか入れず、後からその情報を知るという状態になっていった。
それでも、僕を大切にしてくれる人、仲良くしてくれる人はたくさんいた。現場に行くことがつまらなかったというわけではない。2015年の年末付近に比べれば多少不満はあったが、概ね通うのは楽しかったし、虹コンは自分にとって依然大きな存在だった。
『奇跡100%』という曲がある。この曲を初めて聴いたのは、記憶にある限りカルチャーズ劇場の公演だった。僕は立ち席で、的場推しの古参の友人が前にいて、「感動して泣いた」と言っていた。あの時ははっきり言えなかったが、僕もそうだった。やはり虹コンの楽曲は素晴らしいと思った。それが、2016年の3月の話だ。
そうしたグループへの信頼が、あるメンバーの脱退によって、崩れていった。
長田美成の脱退
僕はパフォーマンスというものがわからない人間だ。歌唱力ならある程度判断できる自信があるが、総合的なパフォーマンス力というようなものは未だによくわからない。ただ、昔、長田美成のパフォーマンスが良いと思うようなことが2,3回あった。それ以来、長田美成は推しメンではないが、機会があればもっと仲良くなりたいというメンバーになっていった。たまにチェキなどに遊びに行くと、とても愛想良く対応してくれた記憶がある。
彼女が契約解除になったのは、そんな最中だった。正確には2016年5月22日だ。その前から彼女はたびたびイベントを休んでおり、いわゆる"兆候"があった。だから近いうちに辞めるであろうことは誰にでも容易に予想できた。だが、まさか急に解雇という結末になるとは思ってもいなかった。
しかも、理由もはっきりと記載されなかった。
僕は、こんなことが許されていいはずがない、と思った。正直、運営に対して相当な不信感を持ったし、このグループを応援するかどうかは本気で考え直した方がいいと思った。その発表の2日後に開催された大和生誕は、最寄り駅まで行ったが、どうしても入る気になれず、中村推しの友人と喫茶店にいた。こういう対応をする運営に1円も落としたくないと思ったし、中にはいっても楽しめないだろうと思った。
彼が会場に入らなかったのが何故だったのかは今は思い出せない。元々、推しの中村以外にはそれほど興味がなかったのかもしれない。
ただ、結果的に、彼と「これはないよね」という話をすることができた。僕は明確にグループに対するモチベーションを壊滅的に失った。思うに、この時点で僕の虹コンのオタクとしての心は、終わった。
その後、彼は「長田のいないライブはつまらない」と言うようになり、気が付けば現場を去っていった。仲の良い人たちも気が付けば少しずつ、去っていった。
長田美成は、委員長という肩書があるのみでセンターと明示されているわけではないが、虹コンの実質的なセンターで、パフォーマンスの軸だった。多くの人がそれを認めていた。彼女の脱退を受けて、結果的に新曲のセンターは奥村野乃花になった。きやさんのnoteにも奥村野乃花がセンターになったことへのいわゆる違和感があったとあるが、「この曲のセンターは本当は長田だったんだろうな」と思った人は多かっただろう。本人に伝えるかどうかは別として、この空気は当時確かにあったし、おそらく奥村本人にもグループにも伝わっていただろうと思う。
ただ、補足したいが、僕は奥村がセンターとして不適格だったなどとは全く思っていない。前にも言ったように僕はパフォーマンスの良し悪しはよくわからない。しかし客観的に言って奥村の人気はダントツで1番だったし、ルックスも良かったから、彼女がセンターになることは当然の流れだし、そうあるべきだと思った。事実文句を言う人はほとんどいなかったと思う。
そして夏が終わって、重松佑佳も地元福岡のライブを最後に卒業していった。彼女は数多くの"強い"ファンを抱えていたため、虹コンのファンコミュニティはそれから大きく変わっていった。
アイドルとオタクの関係
その後、僕は2016年夏に加入した新メンバーに推し変をした。正確な時期は定かではないが、おそらく2016年の秋頃だったと思う。
以前はその理由を、行ける現場が少ないから出る現場の少ない子を推せば成り立つと思ったとか、誰が強いとかいう文化に疲れて新メンバー側の文化でのびのびしたかったとか、新メンバーと文学の話ができて魅力的だったと説明していた。
他人が絡んでくる書きにくい話や細かい話もあるが、概ねこのように説明していた。推し変の理由としてはありきたりで、どこにでもいるアイドルオタクの言い分だと思う。
ただ、改めて思うのは、僕はやはり長田が脱退したときに、既に心が終わっていて、何か生まれ変わるきっかけが欲しかったのだと思う。
もう現場を去ってしまいたいという気持ちはあった。しかし、僕はそこに知り合いを多く残していたので、友達と楽しみたいという気持ちもあった。結果、そこで、いっそ虹コンのオタクとしてもう一度生まれ変われば、この現場を去らなくても済むと思った。
この時の自分の心理は正直わかるようでわからない。この話からは推し変されるアイドルの視点が完全に抜けている。ではなぜ、アイドルの視点が全くないのか。
それは、僕がアイドルにとってファンは数字くらいのものだと思っていたからだった。
結局アイドルは仕事だし、本音のところどう思ってるかなんてわからない。サービスする人とされる人というお金で繋がった関係であることは間違いのない事実だ。アイドルの追っかけをすることを、アイドルオタクは「人生」だとか冗談を言うけれど、僕たちにとっては結局娯楽や趣味なんだから、自分が楽しいと思うようにやるのが一番良いと思う。趣味で病むなんていうのは本末転倒だし、それならいっそその金を握りしめて焼肉に行けば良い。5千円もあれば、そこそこのランチが食べられる。
というのが自分の以前の考えだった。
だからその時も、『あんまり本人に言うのはマナーとして角が立つけれど、何も言わず推し変しておけば別に良いのではないか。僕はトップ層に比べればそれほどお金を使うファンではないし、奥村のファンの数は突き抜けている。それほど影響はないだろう。』と思っていた。
事実、何かこれといった事件があったわけではなかった。
それから僕は新メンを軸に虹コンに通った。そして並行的にアークジュエルに通ったのだが、結局は気が付けばアークジュエルをメインに通うようになった。この話は長くなるので別の機会にする。
奥村はその後2018年1月に卒業を迎えた。奥村の卒業の日は、ライブが2部構成で1部がフェス形式、2部が卒業ライブということだった。皆が通しでライブに行く中、1部の時間から最寄り駅に来ているのにライブを見ず、肩凝りをほぐしにマッサージに行った。その後、日高屋に行って、ビールを飲みながら競馬新聞を眺めていた。
1部の後が特典会だった。奥村の最後のチェキ列は当然、大行列になっていた。僕にはもうそこに並ぶ気力はなかった。何を話したらいいかもわからない。それに、今更推し変してごめん、と言っても、合わせる顔がないと思った。
そして2部の卒業ライブを見た。
結果、奥村とはそれっきりになった。
最後に話したのはいつだったかも思い出せない。
彼女は最後にTwitterで「退職ののた」とツイートしてアカウントを消した。僕はただリプライで絵文字を送っただけだった。
Twitterのアカウントが消え、ホームページからも消え、彼女は元アイドルの一般人になった。
それからどのくらい時が経った頃かは覚えていない。
彼女がプロデューサーとして表の世界に戻ってくる前か、後かについても記憶はあまりない。
少なくとも卒業してしばらくした頃だったと思う。人づてに奥村が早稲田大学を目指していたらしいこと、客席の見えるカメラで僕が来ていることを確認すると楽屋で喜んでいたこと、僕がファンクラブの推しメン登録を変えたことがすぐに伝わっていて、それなりにショックを受けていたようだったことを聞いた。
その時は、「僕は積まなかったからだと思う。何百枚って枚数を積んでいる人に比べたら、ライトだったし、適度な距離感があったからじゃないかと思う。つまり、嫌われるほど仲良くなかった。」と答えた。そこまで言われても、別に自分なんてと思っていた。
すべてを素直に受け取ることはできなかった。あの時私信をもらっていたのは誰か、レスをもらっていたのは誰か。それは、僕ではない誰かだった。そう思っていた。
しかし、最近、少しずつ考えが変わってきた。おかしな話だが、僕がこういうアイドルからの好意をまともに受け取れるようになったのは最近で、しかも地上アイドルの影響からである。
僕は長年、アイドルからレスをもらった、とはっきりと理解することがほとんどできなかった。仮にそれが自分へのレスだとしても、多分他の誰かだとずっと思っていた。しかも今思えば、極端なほどそう思っていたのだ。はっきりと自分だと確信できない限りは、他の誰かだと思い続けてアイドルオタクを続けてきた。
別にここで今の現場の幸福自慢をしたいわけではないが、イコラブやノイミーの現場は本当にレスが来るし、メンバーは皆レスをするのが上手い。showroomなどでも、「○○!この前近くにいてくれたよね、あの曲の時めちゃくちゃ目が合ったね!」などと何千の人が見ている配信で言ってのける。観客は1000人以上いるにも関わらず、どの曲で目が合った等まで把握しているのは驚きだった。しかもそれがライブから数日後の話である。
実際僕もライブで2列目になり、かなりの時間ずっと推しを目で追いかけ、最後の挨拶の時だけ気を抜いて漫然と前を見ていたということがあった。後日お話し会で「すごく前にいてくれてずっと見てくれたからたくさん目が合ったけど、最後だけよそ見してたね」と笑顔で言われたことがある。
こういう体験を積み重ねるうちに、本当にあのレスは僕だったんだなと自信を持てるようになった。
他にも、同様の『神対応』をされた人の話を聞いたり、ブログで「私たちはあなたが思っているよりあなたのことが大切なんです。わかってほしい」と何度も言われると、本当にそうなのかもしれない、と思うようになった。アイドルからの優しさというものを、経済的なつながりから生まれたサービスだけではないものがあるということを信じられるようになった。
そんな風に思えるようになった今振り返ると、きっと僕は多くのサインを見逃していたのだろうと思う。多くのレスを回収できず、勝手に自分は他のファンほど愛されていない、自分は代えが効く存在だと思っていた。僕は相手からの好意を受け取るための、気持ちのコップに蓋をしていたのだと思う。
過去にIFはない。だが、アイドルとファンに、数字以上の結びつきがあると信じられている今の状態で過去をやり直すなら、僕は推し変まではしなかったかもしれない。
最後の卒業前のチェキくらいは並んだかもしれないし、お別れの言葉とねぎらいの言葉や、感謝の言葉をかけたかもしれないし、最後のツイートには、長文のリプライを送ったかもしれない。
だが、僕も過去を否定しない。当時、自分なりに苦しんで出した結論の責任は自分が負わなければならないし、同時にその結論を肯定し続けることも、自分自身の責任でしなければならない。だから、過去を自分からは否定することはしない。
虹コン武道館に思うこと
2022年4月16日、虹コンの武道館ライブの1日目、僕は九段下の地下鉄の出口から地上に出て坂を上っていた。昔通っていたファンも久しぶりに武道館に集っていた。懐かしい顔に会えるかもしれないと考え、僕は周りを見回しながら一人で坂を上った。しかし、特に誰も見つけることはできず、僕は二階の、最安値の席に向かうべく一人歩いた。その途中で喉の渇きを感じたため、水を買いに売店へ向かうことにした。
女性二人が向こうから歩いてきた。僕は特に何も思わなかった。その一人が向かい側から「くらそめ先生!」と僕を呼んだ。
マスクをつけた顔をまじまじと見なくても直感的にわかった。奥村野乃花だった。
お互いに歩き続けたため、ほんの少ししか話すことはなかった。
僕は驚きと過去の”ルール”、つまり無銭接触しているような感覚が無意識に出て、立ち止まって挨拶をするよりも、一通り言葉にならない驚きの声を上げたうえで、「そこの売店水売ってました?」と言ってしまった。まったくもって4年ぶりに交わす言葉ではないと我ながら思う。
その後結局、武道館の2階席に入るまで、誰にも会うことはなかった。
開演前に偶然会えたただ一人がかつての推しメンだったこと、今ではあまり人から呼ばれることのない「くらそめ先生」という呼び方をされたことは、僕を開演までの短い時間、静かな喜びに浸らせた。
「運命って絶対あるとおもうんだ~」とは虹コンの初期の楽曲「やるっきゃない!2015」の奥村のパートである。
オタクをしているときは彼女と何の運命も偶然も感じたことはなかった。
このとき初めて、運命でなくても、不思議な縁くらいはあるのかもしれないと思った。
やがてOvertureが流れ、2022年4月の虹コンの14人のライブが始まった。
アイドルグループは多くの過去を引きずりながら存在する。例えば、今現在のメンバーが10人だとしても、特に古参のファンは辞めた5人がいたのなら、その5人のことを思い出しながらライブを見てしまう側面があることは否定できない。
しかし、今目の前にいるメンバーこそがただ1つの現実である。
虹コンはこの過去の幻影に長く苦しめられてきたと思う。2018年の夏曲の「ずっとサマーで恋してる」では、このようなフレーズがあった。
これは、普遍的なラブソングとしてたまたま状況が合致していたというより、「昔の虹コンのほうが良かった」ということに対するメッセージだったろうと思う。事実、具体例を挙げることができないが、メンバーは過去の虹コンと今の虹コンを比べるファンたちにうんざりしながらも、同時に今が最高と満足させられない自分たちの力不足を嘆くツイートをしていたこともあったと思う。
特に、虹コン初期メンバーで脱退済の長田、奥村、木下、重松は人気やパフォーマンスでグループを牽引していた。だからこそ、裏では、場合によっては表でも「虹コンはオワコン」と言われていた。
しかし結局、虹コンは本当に2DAYSの武道館ライブをやってのけた。確かに満員ではなかったがそれなりの人数は埋まっていた。パフォーマンスの質も武道館アイドルという肩書にふさわしいものだった。
過去の幻影を引きずって見に来たオタクたちも、昔を懐かしみながらも、新メンバーに惹かれたり、自分は虹コンというグループが好きだったんだなと感じられる充実した内容だったと感想を漏らしていたように思う。的場華鈴を中心とした14人は、虹コンがオワコンではなかったことを結果で証明した。
あの日2階席にいた元オタクたちは、14人の虹コンに現在だけでなく過去を見た。しかしそれは悪いことではない。グループは過去を切り離して存在できない。ライブは過去も未来も現在もすべてを包括して存在している。アイドルのパフォーマンスは過去の延長線にしか存在できず、過去を切り離すのは不可能だと思う。
4月17日の武道館ライブを最後に、的場、根本という結成メンバーが去り、結成メンバーとしては中村朱里1人だけが残った。
これからも虹コンは過去の話をされ続けるだろう。でも、それはそれでいいのだと思う。そうしたオタクのIFの願望も燃料にして、虹コンはずっと輝いてほしい。
赦される過去
2日目の公演が終わった後、奥村のTwitterで、彼女と元メンバー2人が武道館の前で写真を撮っている画像が投稿された。2人の顔は絵文字で隠れていたが、古いファンであればその絵文字が長田美成を表す”うさぎ”と木下ひよりを表す”ひよこ”であろうことはすぐに理解できた。特に契約解除となった長田美成の存在については一種タブーになっていたため、匂わせだけであっても、その存在をディアステージ側の奥村がほのめかしたことは画期的な出来事だった。武道館に行けたという大成功がもたらした”恩赦”のようなものだと思う。
久しぶりに集まった古参のオタクたちも同じく、過去についてお互いを赦した。あの時は推し被りであんなことをしてしまったけれど今考えたら申し訳なかった、など、数年前の話を今改めて掘り起こし、一方は詫び、一方は赦した。
こうして僕も今、6年以上前の出来事を掘り返している。本当にいろいろなことがあったグループだし、ここに書ききれないこと、あえて書かなったこともある。多分ここまで読んでくれた人ならわかってくれると思う。一時期虹コンを仲間とともに応援できたことは楽しかったけど、本当にあれで良かったのかと思うようなことも多々あったのも事実だった。
でも、今こんな風に過去を赦して虹コンを肯定できるのは、ここまで虹コンが大きくなって成功できたからだと思う。
今一度思う。14人のメンバーの皆さん、本当に、ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。貴方達が元メンバーの、私たちの過去を書き換えてくれました。いろいろあったけど、全てを肯定できるようになりました。
過去、現在、未来の虹コンのみんなへ
あの時ソフマップやアニメイトで特に何の意味もなく前にいる男の胸を揉みしだいていた僕たちは、今でも結構仲良く会ったりしています。全員が一同に会することはあまりないですが、いろいろグループがあって、それぞれ仲良し同士でたまに集まったりしているようです。坂道グループを見たり、ボードゲームをしたり、YouTubeをしたり、リルネードに行ったり、結婚して子育てをしている人、それぞれいろんな人がいるようです。僕はイコラブとノイミーにはまっています。遠征にくっつけて、旅行をしたりします。
僕たちはかつての5千円をチェキ券でなく焼肉に変え、昔話や仕事の話をしながら肉を焼き、酒を飲んだり、米を食べたりします。
あの時僕はチェキ撮って病むくらいなら5千円で焼肉に行けばいいのにと言っていました。その僕は今、肉を食べています。
皆で焼肉を食べます。ここにいるのは虹コンのオタクだけです。
武道館が、オタクを再びつないでくれました。久しぶりの仲間と会えて、美味しい肉が食べられて嬉しいです。
これからも僕たちは虹コンを応援すると思います。なぜなら僕たちは虹コンのオタクなので。元虹コンのオタクではなく、ただただ、虹コンのオタクなので。
あなたと、武道館のステージで、あるいは、武道館へ行く道でまた会える日を楽しみにしています。
虹コンのオタクになって良かったです。そして、あなたに出会えてよかったです。
また逢う日まで。