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良い歌詞だと思う楽曲を紹介する

Xでいろいろな人に「本当に歌詞が素晴らしいと思う楽曲を教えてください」と聞くと、皆さんいろんな名曲を紹介してくれた。同時に、いろいろな視点があるんだなあと思った。
今回は私が「この曲の歌詞は本当に凄いな」という曲を紹介しながら、この曲が良い歌詞な理由って何だろう、ということを私が大好きで仕方がない3曲の日本語曲を通じて考えてみたい。
なお私はこう思う、というもので、楽曲の歌詞の解釈を狭めるものではなくあくまで私見、一つの説として見ていただければと思う。

中島みゆき「二隻の舟」

個人的に中島みゆきの最高傑作と言える楽曲だと思っている。この楽曲が2024年現在はサブスクで聞けないのが残念。YouTubeなどを見るとカバーもあるが、絶対に本家を聞いてほしい。
ただ、多分この曲はファン以外知らないと思うので、一旦YouTubeでカバーでもいいから聞いてみてほしい。そうでないと、以下は多分理解できない。

曲の全体像を紹介したい。

この曲は愛と離別をテーマにした曲だ。
暗い世界ながらも、主人公と深い絆で結ばれた相棒と二人で生きていくさまを、2つの舟が暗い海を航海していくさまで喩えている。しかし、相棒はいなくなってしまい、主人公は絶望の淵へ。最後に「わたしたちは 二隻の舟 ひとつずつの そしてひとつの」と繰り返し曲は終わる。

この曲が凄いのは、ざっくり言うと、テーマの選び方、そしてストーリー展開、そして表現力の3点である。

テーマの壮大さ

まず「二隻の舟」というタイトルについて。
「にそうのふね」と読ませるが、本来、「隻」という文字に「そう」という読み仮名はない。よって、「二隻」を「にそう」と読ませるのは、中島みゆきの造語ということになる。「隻」というのは、2つあるうちの1つを表す言葉である。「隻眼」などが良い例である。
つまり、2つあるうちの1つしかないということが既にタイトルで暗示されているのである。

この曲のテーマは「愛と離別」という、人間の根底に関するテーマである。
主人公「わたし」と相棒たる「おまえ」の関係は曖昧である。
夫婦かもしれないし、親子かもしれないし、親友かもしれない。このあたりのことは歌詞からはよくわからない。逆に言うと誰でも当てはまるところがある。推しメンでも良い。
ただ、この曲の「愛」というものの描き方も非常に悲観的である。隣にいるとか、ぬくもりを感じるとか、そういうことではない。

おまえとわたしは たとえば二隻の舟
暗い海を渡ってゆくひとつひとつの舟
互いの姿は波に隔てられても
同じ歌を歌いながらゆく二隻の舟

こんな風に、かなり距離がある。暗い海の中、互いの姿も見えないし波に隔てられているというけれど、それでも同じ歌を歌いながら同じ方向を目指しているという絆が語られている。

暗い海というのは人生に対する悲観的な比喩表現と解釈できる。この暗い人生における唯一の希望が「おまえ」であった。この表現は、夫婦にしては距離がありすぎるように思える。しかし、人生における唯一の希望たる存在である。夫婦や親子、親友くらいの特別な関係であることは間違いない。

つまり、どれだけの絆があっても、根本的に人間は孤独なのだ、という世界観を中島みゆきは表現していると思われる。

敢えなくわたしが波に砕ける日には
どこかでおまえの舟がかすかにきしむだろう
それだけのことでわたしは海をゆけるよ
たとえ舫い綱は切れて嵐に飲まれても

そしてこのネガティブな人生観はここでも現れている。
自分が「波に砕ける」というのは、死ぬとか、その世界から消えてしまうようなことの比喩表現と解釈できるが、もし自分が死ぬようなことがあったら、「おまえの舟がかすかにきしむ」(相棒たるあなたが少しでも自分がいなくなったことを悲しんでくれる)ということだけで「わたしは海をゆける」(=生きていける)と表現する。

自分にとっての相棒は、相手にとってもおそらく相棒と考えるのが自然。もし自分が消えてしまったら、相手は大きなショックを受けるはずである。だが、「かすかにきしむだろう」という極めて控えめな表現。まるでオタクが「俺が死んだら推しメンって泣いてくれるかな」って言うくらいの。

この「自分が死んだら」の想像をして、相手がほんの少しでも自分のことを思い出して悲しんでくれればいいな、くらいのことを考えていた主人公だが、思いもよらないことが起きる。

意表を突くストーリー展開

おまえの悲鳴が胸にきこえてくるよ
越えて行けと叫ぶ声が ゆくてを照らすよ

なんと、先に波に砕けたのは相棒たる「おまえ」側だった。
あまりにも悲しすぎるストーリー展開。

風は強く波は高く 闇は深く星も見えない
風は強く波は高く 暗い海は果てるともなく
風の中で波の中で たかが愛は木の葉のように

原曲を聞くとわかるとおり、このあたりに非常に楽曲は盛り上がる。圧倒的絶望感。ニコイチで生きてきたのに。自分が先に死んだらちょっとだけ思い出してくれればいい、それだけで生きていけるって思ってたのに、実際は逆で、相棒が先にいってしまったことの絶望感。

そして最後に

わたしたちは二隻の舟 ひとつずつの そしてひとつの

と4回繰り返して曲は終わる。片方が欠けてしまったとしても私たちはニコイチだ、と。1つでもニコイチなんだ、と。その意味が、「二隻」という造語に込められている。
相方が亡くなったが、あえて芸名を「カンニング竹山」のままにした芸人さんを思い出す。

他にもこの曲には素晴らしいポイントがいくらでもあるのだが、ざっくり解説なのでこのあたりにしておこう。

改めてまとめると、この曲の歌詞の素晴らしいところは、
①愛と別離という壮大なテーマを、
②歌詞の中で意表をつくストーリーを展開し、
③二隻の舟、という造語や、生きていくことを舟で航海することに喩えた比喩表現などに見られる卓越した表現力を持って描き切ったところにある点
と私は考える。

美空ひばり「愛燦燦」

昭和を代表する、というか日本歌謡史を代表する歌姫、美空ひばり後期の代表曲。作詞・作曲は小椋佳。
この歌詞の凄い点はその様式美と内容の深さとオリジナリティにある。

様式美

3番からなる歌詞だが、1番、2番、3番がすべて形式的に同一にできている。
少し実際に見てみよう。

1番:雨 潸々と この身に落ちて
2番:風 散々と この身に荒れて
3番:愛 燦燦と この身に降って

説明は不要というほどの統一感。
すべての歌詞を貼るのと著作権的に問題があるのでそれは行わないが、実際に調べてみてほしい。
歌詞全部がこうした統一感により構成されているのだ。
しかも、全く言葉遊び的な違和感がない。

内容の深さ

これだけの形式的な制約を設けながら、恐るべきはこの曲の歌詞は音楽を超えて国語の教科書に載ってもいいのではないかというの完成度と内容を伴っている。

1番は雨に突然降られる不幸を嘆きながらも、
2番は風に吹かれて思い通りにいかないことを嘆きながらも、
3番は愛を受ける喜びを歌う。

この曲の歌詞については語るべきことがあまりにも少ない。
なぜなら、あまりにも完璧すぎるしわかりやすいからだ。
シンプルで比喩表現もわかりやすい、と一見思える。

日本語が上手すぎる

すごくわかりやすい歌詞である。
だが、よく考えると、「愛燦燦」という日本語はない。
また、「過去達は優しく睫毛に憩う」という日本語も、普通ではない。
このあたりは、私が書くよりもご本人のインタビューを読んでもらったほうが早い。

本来、『愛燦燦』という日本語はありません。『愛』はあって、『燦燦』という言葉もあるのに、それをつなぐと、まったく別世界の新しいイメージを作り上げることができる。「過去達は優しく睫毛に憩う」という歌詞もそう。それぞれの言葉を知っていても、そんなの普通組み合わせない。
 大抵は「まぶたに浮かぶ」を使ってしまう。でも、「過去達は優しく睫毛に憩う」の方が強く伝わるんですよね。今までの言葉にはないほどの強さで。最初は「えっ?」と感じても、「ああ、納得」となる。

NEWSポストセブン ―小椋佳「真似ただけの言葉で表現した詞に創造性はない」

さすが東京大学法学部卒のエリート銀行員である。
個人的に、小椋佳は日本の作詞家のなかで間違いなくトップクラスだと思っている。

まとめると、この曲は、
①完璧な様式美の中に歌詞を埋め込みながら、
②深い内容を歌詞の中に入れ込み、
③それを違和感のないオリジナルな日本語で実現している点

が素晴らしいと思っている。

なお余談だが、彼の代表作品に「シクラメンのかほり」という曲がある。
本来、シクラメンには香りはなかった。彼はもちろんそれをわかって作詞をしている。
だが、結果的に曲がヒットしたあまり、後に香りがするシクラメンが品種改良の末、生まれたらしい。

小沢健二「天使たちのシーン」

この曲は13分半ある。プログレ?と思うかもしれないが、決して複雑な曲ではない。基本的には同じメロディの繰り返しである。小沢健二は本当に伝えたいことがあるとき、長い曲を作り出す傾向がある気がしている。活動休止前の「ある光」も8分以上ある曲だ。

この曲の歌詞が優れているのは、季節ごとの美しい心象風景が散りばめられながらも、時間、繰り返し、生命に対する哲学的な内容を比喩表現で表現していく点である。
正直、この曲に関しても、ただただ美しい、としか言いようがないので解説のしようがない。

美しい心象風景

美しい心象風景が季節感を伴って書かれる。下記に具体的表現を抜粋するが、これらは全て出てきた順である。この曲が時系列的に夏から冬になり、再び春になろうとしているのがわかるだろう。
そしてこれらに共通しているのは「圧倒的・自然的なものに対する人間のささやかないとなみ」である。最初の例では、「雨」で消えてしまうのに、海岸に「足跡」をつける人間であり、次の例では「雲」の中に「風船」を飛ばす人間であったり、宇宙や地球、自然という巨大なフィールドに対する生命の営みが綴られている。

このあたりは夏。

海岸を歩く人たちが砂に 遠く長く足跡をつけてゆく
過ぎて行く夏を洗い流す雨が 降るまでの短すぎる瞬間

真珠色の雲が散らばってる空に 誰か放した風船が飛んでゆくよ
駅に立つ僕や人混みの中の何人か 見上げては行方を気にしている

大きな音で降り出した夕立ちの中で 子供たちが約束を交わしてる

このあたりは秋。

金色の穂をつけた枯れゆく草が 風の中で吹き飛ばされるのを待ってる
真夜中のラジオから流れるスティーリー・ダン 遠い町の物語話してる

枯れ落ちた木の間に空がひらけ 遠く近く星が幾つでも見えるよ
宛てもない手紙書き続けてる彼女を 守るように僕はこっそり祈る

このあたりは冬。

毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる僕は
生命の熱をまっすぐ放つように 雪を払いはね上がる枝を見る

このあたりは春だろうか。

太陽が次第に近づいて来てる 横向いて喋りまくる僕たちとか
甲高い声で笑いはじめる彼女の ネッカチーフの鮮やかな朱い色

それぞれ、宇宙や地球といった圧倒的な存在に対し、人間や植物といった生命がささやかな営みを続けている、といった意味がお分かりだと思う。
そして、これらの言葉はただただ美しい。

さらに言えるのは、季節が冬に近づき、厳しくなるにつれて人がどんどん内側に入るようになり、物語を話したり、手紙を書いたり、言葉を紡いだりすることを行っているという点である。

哲学的な比喩表現

筆者は、これらの時間の流れ、地球の自転と公転(季節の推移)を「サークル」と呼んでいるようにも思える。

愛すべき 生まれて 育ってくサークル
君や僕をつないでる穏やかな 止まらない法則

「サークル」という表現。完全に独特の世界観である。

そして印象的なラスト。

神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
にぎやかな場所でかかり続ける音楽に 僕はずっと耳を傾けている

生きることをあきらめるとは、急にやたらと暗い世界観である。

ちなみに他にも小沢健二の楽曲を聞いていれば、この歌詞は「ある光」の語り部分にも出てくるテーマと明確に関連性があることがわかるだろう。

強烈な音楽がかかり 生の意味を知るような時
誘惑は香水のように 摩天楼の雪を融かす力のように強く
僕の心は震え 熱情がはねっかえる
神様はいると思った 僕のアーバン・ブルーズへの貢献

ある光

太字箇所は同じことを言っているのは間違いないのではないか。
生きることを諦めないように、にぎやかな場所でかかり続ける音楽に耳を傾けた結果、「ある光」で到達した力強さ、アーバン・ブルーズへの貢献に達したものと解釈できる。

これ以外にもいろいろあるが、本稿の目的からずれてしまうのでこの辺にしておく。

まとめると、この曲の優れた点は、
①季節感を持ちながらも美しい心象風景を一定の統一感に基づいて描写しており、
②その描写が哲学的内容を含んでいると解釈できる

ということではないだろうか。

おわりに

ということで、私が大好きな3曲を一旦挙げてみた。
どの曲もタイプは違うが、いずれも素晴らしい曲であるのでみなさんにも是非聞いてみてほしい。

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