「練馬区向山町一五九五 歌集『雨』と「短歌人」発行所の変遷」(「短歌人」2023年11月号掲載)補足
「練馬区向山町一五九五 歌集『雨』と「短歌人」発行所の変遷」という文章を書きました。「短歌人」2023年11月号の特集「〈東京〉はどのように詠まれてきたか?」のなかの一文です。基本的には『雨』(小宮良太郎)と「短歌人」バックナンバーをつらつらと眺めての益体もない文章です。機会と興味のある方は御覧ください。
この文章はさらに役立たない「へー」を書いたものです。
瀏と史が長野に疎開したことは知られています。歌集『雨』を読むと、上池上の家が即消えたのではなく、戦後は小宮さん一家が住んだことがわかります。
そういえば、「短歌人」に1947年2月(だったと思う)に小宮さんが長野まで行って、瀏と打ち合わせしたみたいなことが書かれていました。編集体制についてだったはずですが、一宮在住では不便だったのでしょう。家についてもやりとりがあったことと推察されます。
当時の結社の(一部の)人間関係の近さがわかる話です。それを読んで「へー」となったことが、この文章を書いたきっかけです。
書きましたとおり、創刊時は木下立安が発行人でした。編集人も兼ねています。じゃあ、齋藤瀏は何なのかというと「主宰」です。戦争が激化して、伊藤豊太さんの住所に発行所が移ります。「編集、発行兼印刷人」と書かれています。伊藤さんは印刷会社の人ではないので、「印刷人」というのはおかしな気がするのですが、そのように書かれていました。
戦後、瀏は長野。小宮さんは千葉県(九十九里浜→(戦後になって?)一宮ですが、時期はちゃんと調べ切れてません)。当時はゲラをGHQの検閲に出していて、郵便でも受付できるのですが「短歌人」は直接届けていたようです。たぶんこちらのほうが早いし、受取のときにも便がよかったのでしょう(推測です)。印刷所も都内ですし、伊藤さんを中心とした在京の数人でまわしています。
伊藤豊太さんは竹柏会を経ずに「短歌人」創刊に参加した方々のうちのおひとりです。どういうご縁だったのかわかりませんが、そうした方もいらしたようです。
https://twitter.com/hanaklage/status/1342483350351560704
こんな経歴もあり。入会前にすでに歌集もありました。
「心の花」の主宰の信綱と発行人の千亦の家、また瀏と立安の家が近かったことをミニ知識時に書きました。
書き終わってから気が付いたことがありました。
タカセさんの成増の家から光が丘の団地のシルエットが見えました。地図を見ると距離にして1kmくらい。花火の日には、あれこれ食べたりしゃべったりしながら何人かで集まってベランダから見たものでした。
小宮さん家から見るとタカセさん家は北北西にあります。つまり、タカセ家から見ると小宮家は南南東。そのあいだに光が丘公園があります。私は小宮さんを読み始めたのはタカセさんの死後で、お話を聞かずじまいだった。タカセさんがそこまで考えて光が丘の方角を見ていたとは思わないし、だからなんだという話ではあるけれど、私がかつて見ていたあの花火のそのさきに向山町があったのでした。
タイトル画像は短歌の人たちと行った2004年の板橋花火大会の「ナイアガラの滝」。今年、火事騒ぎがあったやつですね……。
https://twitter.com/hanaklage/status/781024838798417920