タカセ家は名家か?(『高瀬荘太郎』の紹介)
※高瀬さんの「高」はハシゴ高ですが、PCで化けるので異体字の「高」を使用しています。
今日(2024/4/29)、日本短歌雑誌連盟春季定期大会でフジワラさんが「高瀬一誌の短歌」という題で講演されるというので行ってまいりました。
内容は置いといて。
タカセさんの紹介で名家の出身みたいなことをおっしゃっていたのです。そこについて、ちょっと解説(本人には会場でお伝えしています)。
タカセさんの父・高瀬荘太郎さんはだいたい経歴としては学長・大臣みたいなところが紹介される訳です。
そういった方なので、立派な饅頭本があります。
『高瀬荘太郎』(高瀬荘太郎先生記念事業会/1970)※ログインすると読めます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12190213
ご参考
高瀬荘太郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%80%AC%E8%8D%98%E5%A4%AA%E9%83%8E
高瀬家は系図はなく、過去帳によると本家は江戸時代には富士宮市にいたようです。寛延年間に分かれた分家が直接の祖先です。地主階級で裕福だったと思われますが、姓はありません。
壮太郎さんが生まれた時、150年経ってない分家ってそんなに古い感覚じゃないと思うんです。今だったら、明治期に分かれたくらいの感覚です。本家も220年くらいなんで、古いといえば古いけれど江戸時代はあまり移動がなく、明治になって20数年ってタイミングだと特筆するほどではないような。
地租改正後は農業はやってなくて、本家はいろんな事業をして成功したり、失敗したりして、地元の名家ではあるが家計は苦しい、みたいなところだったようです。
荘太郎自身は、英語教師とのよい出会いがあり、学問に目覚めて東京へ。早稲田実業→東京高等商業学校(一橋大学)と進みます。大学時代に渋沢栄一事務所の書生となります。私が経済学に暗いこともあって「ふーーん」で終わってしまうところが多いのですが、渋沢栄一の書生時代の証言部分はなかなか興味深く。
壮太郎は見どころのある若者として子爵・渋沢栄一から援助されたひとりということです。事務所に書生のための部屋があり、そこで暮らしていたようです。そのころの渋沢事務所は「ベネチアン・ゴシックの様式」「長野の作品としては珍しく華麗である」(同書p.123)という建物だったそうです。その建物が築25年くらいのときに入居。そのときの書生は壮太郎いれて3人。2人は酒を飲んだり、それなりに遊んでいたようですが、壮太郎は近隣の親類と行き来がある程度で、まじめだったと証言があります。渋沢栄一は別に家があり、日常的な交流らしいものはなかったそう。留学の送別会は栄一主催で開催されたとのこと。ここの箇所はおもしろいので、みなさんも読んでみてください。
荘太郎は帰国し、すぐに結婚。そして一橋の教授になった次の年にタカセさんが生まれています。この時点でそれなりに裕福だったのであろうと想像します。
いろんなところで要職についた荘太郎で、郷土愛も深かったようですが、「一橋出身の経済学者・教育者」というのが基本的な立ち位置ではないかと思います。
高瀬家は名家かというと、地主階級ですから名家なんでしょう。しかし、壮太郎はその分家筋です。タカセさんが金持ちの坊ちゃんかというとそうなのかもしれないけれど、その「金持ち」は名家とあまり関係なく、荘太郎の一代の立身出世によるものという留保は必要なのではないかと思います。
地方出身で書生となって出世ーという意味では、茂吉に近いのかと思います。浅間大社の門前町と山形の村部という出身の土地の差は歴然としています。そして茂吉よりだいぶ文化資本には恵まれていたと思われるので、「名家」であることがベースにあっての立身出世であるところは違うとは思いますが。
余談1:
この饅頭本、当然のことながら自費出版なんです。出版と銅像作成で寄付金が700万円ですって。印刷は凸版印刷。一体何部作製したのか。経済界に関わっていたのが大きいとはいえ、歌集の自費出版とは規模が違います……。
余談2:
そしてこの饅頭本、タカセさんも編集に入っています。「おや?」と思うのが名義が「一誌」なんです。年譜の長男誕生のところも「一誌」。親の饅頭本にペンネームしか出さないってなかなか見ないような。
追記:
https://twitter.com/hanaklage/status/1784945350626910433