#私の履歴書 My Profile Story ③
自己紹介を兼ねて私のプロフィールストーリーをまとめました。
※とてつもなく長くなったので4つに分けます。
①HSPとしての多感な幼少期
②優等生?中高大学時代とはじめての挫折
③仕事と人生の転機となった暗黒期←ココ
④結婚&出産!記憶ない怒濤の5年間
👉やる気なし就活と社会人デビュー
遊びとバイトと旅三昧の大学生活もあっという間に就活シーズン。
本音を言うと、私、就職したくなかったんです(爆)
かと言って何か特別やりたいこともない状態で、真剣に就活している仲間を横目で見ながらのんびり構えていた私。
実は1年生の頃から、大学の勉強と並行して司法書士の資格の勉強をしていて在学中に受かったらいいなと思っていました。(法学部でした)
司法試験も考えましたが、法科大学院へ進むとなるとコスパが悪く、また弁護士は自分の資質には向いていないと判断しました。
在学中に受からなければ諦めて別の道に進むと決め図書館の自習室に通う日々が続きました。
勉強すること自体は好きだったので、毎日まとまって机に向かうのは楽しかった。
大学4年生の7月のラストチャンスでは、自己採点でギリギリ不合格。微妙なラインでした。結果は秋まで待たなければならない状況です。
とりあえず、就活しとこうかな?と活動を始めたものの始めるのが遅すぎました。大手総合職はほぼ終わっていた8月(当たり前)
まさかの家事手伝いか?!と背水の陣で今の会社に拾ってもらえて、一般職で内定をいただいたのでした。
資格試験も案の定落ちていたし、とんとん拍子で決まってホッとしたのを覚えています。
内定した会社は地元では有名なホワイト大企業。業績好調でアットホームな会社です。
ピンチな時に運良くいい方向に行くのは、持って生まれた才能以上に、「私はラッキーガール!最終的にはなんとかなる!」という自己効力感が大きい。
運も実力のうちとは真をついてる。
なんとかなるさ精神は、恵まれた環境、いい人に囲まれて育ったこと、過去からの小さなできる!の蓄積。
私は基本的に性善説に立っているので、夫にはよく「素直すぎて他人に騙されやすい」と心配されるんですが…「騙されたら騙されたでしょうがないじゃん」という考えです。
👉激務で必死な新社会人生活
さらっと就活も終了。社会人デビューを果たします。
一般職として入社した私。同期はざっと200人くらいいて、大企業ってすごいな~!と他人事のように思っていました。
なんせ「一般職=お茶くみor電話とる」という一昔前のイメージしかなかったんです。
たいした仕事もさせてもらえず、結婚までの腰掛程度でしょ?と思っていました(失礼)
が!私の配属された部署は、新規事業を扱うボスと課長2人、あとは新入社員女子2人という小さな部署。
入社してすぐに、山のような仕事が待っていました。
右も左もわからない新入社員にやらせるような仕事じゃないよね!!と何度突っ込んだことか…
特にボスはとても厳しく彼の元で耐えられる部下はなかなかいないと有名でした。
しかし、その激務のおかげで私のビジネスインナーマッスルはとことん鍛わりました。
仕事をはじめて3年間はとことん厳しい環境でがむしゃらに頑張る。
それが、後のビジネス人生を大きく左右します。
厳しく育ててもらったおかげで、今の自分があると思います。
自分で考えて、行動に移し、問題を解決する。ひたすらその繰り返し。
仕事の厳しさを知ったと同時に、仕事をして得る達成感や喜びを知った新入社員時代でした。
人事部長からの後日談で、入社テストの結果がダントツ良かった私。意図して配属を激難のところにしてくれたそうです。
どうもありがとうございます^^と満面の笑みで返しときました(笑)
👉大事件勃発~衝撃的な事件その①大失恋~
一方、恋愛については、まだ大学生だった彼氏と順調にお付き合い継続。
「環境が変わると、うまくいかないよ」とよく言いますが、抜かりない私は、彼の家族や友人たちとも交流を深め虎視眈々と結婚に向けての外堀を固めていったのでした。
もうその頃には、私は彼と結婚するんだということをまったく疑いもなく信じ切っていたのでした。
社会人2年目。相変わらず仕事は激務ながらもメンバーも増え、充実した日々でした。
24歳の誕生日は、彼氏とセブ島のラグジュアリースイートなリゾートで過ごし幸せいっぱいだった私。
それは前触れもなく、突然やってきたのでした。
秋も深まる11月。
彼は突然こう言ったのでした。
「人生リセットしたい。一人になりたいから別れてほしい。」
彼のアパートに置いてあった私の大量の荷物をすべて持って。
突然のことに呆然とする私。
?????
この人は何を言っているの?
意味不明でした。
他に好きな人ができたとか、私に至らない点があってどうしようもないとかだったらまだ納得できるのに。
「私なしの人生を送ってみたい」と。
全く予期してない状態からの別れ。
崖の下に突き落とされた感覚。
私は彼が好きだったし、将来の話も具体的にしていました。
その後は「もう決めたことだから」と話し合いもしてもらえず、一方的に音信不通。
その時は、混乱していてよく覚えていませんが、冷静になるとこうも言っていました。
「俺がいなくても生きていけるよ」
確かに、私は依存もしないし、自立した女だった。
彼にすがったり、しつこく引き下がったりもしない。
残ったのは、一緒に過ごした7年間(!!)という長い年月の思い出だけ。
結局、今でも真相はわからないまま・・・
私の高校生から社会人までの青春時代を共にした彼氏はあっけなく去っていったのでした。
そこからは地獄のような日々が待っていました。
彼のいない日常に慣れるのにとても時間がかかりました。
7年間は長すぎた。
失恋の傷は忘れるのに付き合った期間の3倍かかるといいます。
となると21年?!
絶望感いっぱいでかろうじて職場へ向かい、涙を堪えながら黙々と仕事をする。
まさか!の別れに、周りの人たちは、家族含めとても心配していました。
眠れなくなり、食べれなくなり、1人になると思い出し号泣。
自分自身が死んでしまったような感覚。初めての失恋がこんなにつらく悲しいとは…
👉大事件勃発~衝撃的な事件その②一家離散~
大失恋で傷心の私に、もう一つ大事件が起こります。
それもある日突然やってきました。
両親の離婚
私たち家族はとても仲良しでした。
自慢のパパとママ、大好きな弟。このメンバーの一員であることを誇りに思っていました。
母から打ち明けられた時、またまた呆然。
父と母は、私たち子供のために、仲の良い家族を演じ続けていたのでした。
まさかこんなことが起こるなんて!!
もう何もかもが信じられなくなりました。
しかし、これは両親の問題であり、悲しいけれど認めるしかありません。
当時、弟は京都の大学に通うため下宿していたので、よくわからないまま両親が離婚してしまい、つらい思いをしたと思います。
姉である私は取り乱してしまい、弟の支えにはなれませんでした。
今でも、もっと寄り添ってあげればよかったなと後悔しています。
最終的に父は家を出ていき、私は母と二人で暮らし始めました。
が、家族がバラバラになって居場所がなくなった私は段々と精神的に追い詰められていきました。
特に辛かったのは仲良しの父と会えなくなってしまったこと。
父ととても仲が良く、二人で朝5時から一緒に仕事&勉強したものです@父の事務所(当時から朝型な私、父譲りです)
離婚の手続きに関しては、私が社会人で経済的に自立していたこと、大人であり、両親の気持ちも理解できたことで割と冷静だったと記憶しています。お互い弁護士をたてていたので、弁護士事務所にも娘である私が通ったりしました。
幼少期の両親の離婚がトラウマになる子供は多いですが、大人になっても十分ダメージは大きく、結婚に対するイメージが格段に悪くなったことは言うまでもありません。
失恋と両親の離婚。
この二つの事件は、私の人生史上最悪の出来事として、今なお胸をえぐってきます。
👉心身が壊れた~摂食障害・心療内科受診~
いつまでも、いつまでも暗いトンネルの中で彷徨っていた私。
家族はバラバラになり、長年付き合った彼氏に捨てられ、自暴自棄になっていました。
なんで私ばかりこんな目に合うのだろう?
なんで?
私何か悪いことした?
切り替えなきゃ、頑張らなきゃと思うのにそう思えば思うほど、何も手につかなくなっていきました。
友人の誘いも断って塞ぎ込むようになり、眠れない。
寝ても悪夢にうなされる。
突然号泣。
過食と拒食を繰り返す。
幸せそうな友人を羨んでしまう。
そんな日々を過ごし、身も心もボロボロ。
自分を全く大切にできなくなっていました。
笑顔が消え、将来に絶望し、死が頭をよぎる。
ネットで、「自殺」「復讐」「死にたい」などと検索ばかりしていました・・・
私、このままじゃやばい。
壊れる!
今思えばうつ状態ですね。
そんな時、心配した知人が心療内科をすすめてくれたのでした。
心療内科では、先生がじっくり話を聞いてくれて、適切な薬を処方してもらい、少しずつ少しずつ回復することができました。
心療内科や精神科に抵抗があった私ですが、藁にも縋る思いで通院して本当に良かったと思います。
そうして、時間と適切な治療が私を癒していったのでした。
心療内科に通い始めてしばらく経ち、少しずつ回復していった私。
友人たちの励ましのおかげで、前向きに次の恋に向かって行動を起こすこともできました。
両親とは、しばらくぎくしゃくしていましたが長い時間をかけて納得して向き合えるようになっていきました。
私にとっては辛い事件でしたが、どんなことが起こっても、ただでは起きない。
そこから学ぶことはたくさんありました。
それまで順風満帆だった私の人生から一転、もう失うものは何もないという状況を経験して、人として一回りも二回りも成長できたと思います。
ゆっくり自分と向き合い傷を癒していきました。
支えてくれる人がいることに心から感謝し、人の痛みもわかるようにもなりました。
最後に当時出会って、救われた本を紹介させてください。
柴田トヨさんの「くじけないで」です。
ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで
陽射しやそよ風は
えこひいきしない
夢は
平等に見られるのよ
私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった
あなたもくじけずに
今でもこの詩集は私の宝物として、ときどき手にとっています。どんなことがあっても絶対にくじけない。そう私は決めたのでした。
つづく