ヨルシカ 『だから僕は音楽を辞めた』 感想
この記事はヨルシカの1stフルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』の1曲ごとの感想を書いたものです。やっと書く気分になりました。
なお、本記事では初回限定盤の「手紙」や「写真」などから示唆される、本作が内包する「"僕"とエルマの物語」に関する考察は一切行わないのでご留意ください。
本アルバムの初回限定盤は、"ハコ" に入っています。
ハコ。
このように、開けるとまず"手紙"が現れます
CDは ハコの底に入っています
というわけで、初回限定盤を買った人は、CDを聞き始める前に否応なく「手紙」の束と対峙しなければいけない仕掛けになっています。
が、わたしの住む僻地にはAmazonから届くのが遅いため、先にApple Musicで聞きました。
これはわたしが初めてこのアルバムを聞いたときのメモ、初聴録です。(さすがに恥ずかしいので少しボカしました)
配信で聞いたから、歌詞カードも見ていないし、"手紙"も読んでいない、可能な限りまっさらな状態で聞いたときの純粋に曲に対する感想です。
以下では、この初聴録の抜粋と、そのあと何度も聞いた上での今の感想を1曲ごと書いていきます。
※ 初聴録の感想はこのように灰色の引用形で書くことにします。
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1曲目 「8/31」
いつもの(ピアノ中心の)インスト。かなり好き。ドラムのビートがすごくいい。
デーーーン で終わる。暗喩か?
「暗喩か?」ってなんだよ(早々に過去の自分にツッコんでいくスタイル)
まぁでも確かに、以前のnoteでも書いたように、ナブナさんのアルバムがピアノインストから始まるのはお決まりのことであり、もはや安心感すら感じます。
ヨルシカ名義だけでも、『夏草が邪魔をする』の「夏陰、ピアノを弾く」、『負け犬にアンコールはいらない』の「前世」の系譜に連なる曲でしょう。
これら2曲と違うのは、まずピアノ以外にもドラムのビートが加わっている点、そして(初聴録には書いてありませんが)曲の冒頭部に雑踏らしき環境音が入っている点です。
環境音が入っているということは、否応なく"現実"を想起させます。これまでのアルバムがどこか現実離れした叙情的なおとぎ話のような印象だったのに対して、本アルバムは一貫して『だから僕は音楽を辞めた』の「僕」が生きる切迫した現実を追体験するよう我々に働きかけてきます。その"ねらい"が、1曲目の最初の瞬間から盛り込まれているように思えます。
2曲目「藍二乗」
『夏草』の「カトレア」、『負け犬』の表題曲のような、切り込み隊長的立ち位置か。サビ、特にサビ終わりとCメロが大好き
この曲は本アルバムのなかでも最初にMV付きで公開されたので、もちろん上の初聴録も"本当の"初聴録ではありません。
やっぱり大好きですね。投稿された当初も、いい曲だなぁと思いながらリピートしていましたが、時が経てば立つほど、こうしてアルバム中の1曲として聞けば聞くほど、ますますその想いが増しています。
あと最近思うんですが、序盤の
白紙の人生に 拍手の音(ね)が一つ鳴っている
という歌詞、素晴らしくないですか?「白紙」と「拍手」というごく単純な韻踏みのフレーズですが、この組み合わせが想起させるイメージの豊かなこと。
白紙──つまり何もない、<ゼロ>の空間に、ぽつんと、インクが一滴落ちるように、目では見えない拍手の音──<イチ>が滲み出る情景。
しかも、ふつう「拍手」と聞いて私たちが思い浮かべるのは「拍手喝采」「スタンディングオベーション」のような、たくさんの人が鳴らしている光景でしょう。また、複数回手を打ち鳴らすのが一般的です。参拝での「一拍」とは違う。
それを「一つ」と区切って提示する行為、1人が何度も鳴らしているのか、それとも本当に一拍だけなのかという想像の余地を残しながらも、これはどこか逆説的な響きを帯びて、前述のように、いとも鮮やかな光景となって私の中に現れるのです。
「灯籠の咲く星の海に心臓を投げたのだ」や「夢を見たい僕らを汚せ さらば」など、ナブナさんの紡ぎ出した名フレーズにまたひとつ代表作が加わったと言っていいんじゃないでしょうか。
3曲目 「八月、某、月明かり」
七月、影法師、藍色、ロッカー
Aメロ好き。
詞がルラ。自己言及、自己批判、自業自得
ストックホルム:ナブナの過去
大サビ:大団円か?
大団円か?ってなんだよ(数分ぶり2度め)
にしてもこの曲は、音としては"Aメロが好き"に尽きます。
「何もいらない」→ハイテンションなイントロ…から一転して音数が少なくなりAメロが静かに始まる展開。それが後半(というかBメロ?)の
八月某、月明かり、自転車で飛んで
以降、再び加速する感じが最高。ここの疾走感半端ないですよね。飛んでぇ〜〜
「詞がルラ」というのはナブナさんお得意の自暴自棄になっている若者の吐露的な歌詞のことですね。どちらかといえば「セロ弾き群青」のほうが近い気もします。どちらにしろ、前述の通り本アルバムはこうした傾向の詞がどの過去作品よりも顕れているのはコンセプトからも明らかでしょう。
で、大サビ。ただでさえサビの終わりの
人生、二十七で死ねるならロックンロールは僕を救った
の高揚感が凄いのに、更に最後には
今も、愛も、過去も、夢も、思い出も、鼻歌も、薄い目も、夜露も、…(略)
のように感情が爆発します。suisさんの歌い方といい、リズム隊の盛り上げ方といい、まさに大団円としかいいようがない。
「あれ、アルバム終わりかな?」「まだ3曲目だぞ…」
4曲目 「詩書きとコーヒー」
「最低」を前曲からつなげる。Aメロのうしろの楽器すき。Bメロの入りすき
間奏以降「冬眠」…静かめのロック
Bメロの「冷めた 目で愛を」の部分がやはり、メロディも歌い方も好きです。
歌詞は下手したら前曲以上に自棄的。「幸せの価値は六万円、家賃が引かれて四千円」なんて、セロ弾き群青の「給料袋の代わりに貰えたのは落第の判子だけ」並かそれ以上に世知辛く現実の淀みが溢れています。
「わかんないよ」を繰り返すサビも、「最低だ」を繰り返す前曲からのトーンを引き継いでいる感じがしますね。
一気に盛り下がる間奏の雰囲気は前アルバムの終盤曲「冬眠」を連想します。下げきることで自然に冷めたBメロに繋げられています。
5曲目 「7/13」
Lo-Fi Hip Hop?Chill Hop?
波音、海外のビーチ?のどか
2つ目のインスト曲。これまでになかったタイプの、素直にお洒落な曲になっています。ここ数年で流行り始めたローファイ・ヒップホップ系やチルホップ系なのか…それらよりはもう少しビートが単調で、伝統的なヒップホップ寄りな気もします。(詳しい人教えて)
このような"異色の"インストが入っているのは、やはり異国情緒を演出するためでしょう。流水の環境音も、日本っぽさはあまり感じられません。
6曲目 「踊ろうぜ」
ギターリフが面白い。Aメロ入りすき
面白いというか、シンプルながら印象的なイントロのギターリフだと思います。
Aメロの入りは
嗚呼、透明よりも澄み切った
の「あ〜〜ぁあ〜〜〜」がドラムと共にいい具合に期待感を膨らませてくれます。ここのsuisさんの幼めというか、悪ガキ感のある歌い方いいですよね。
それからBメロの詞自体は短く、それまで少し引っ張って溜める感じは『月を歩いている』の「歌う睡蓮」も連想します。この曲は詞先(詞にあとから音楽を付ける)だったはずなので、「詩書きとコーヒー」もそうかもしれません。
また、大サビの転調してからの
あぁもう、踊ろうぜほら
は何度聞いても痺れます。タイトルでもあり、毎サビのラストで使っていた「踊ろうぜ」というフレーズをここに来て微妙にリズムをズラして入れるのが、ベタかも知れませんが好きです。
7曲目 「六月は雨上がりの街を歩く」
しずかめ。詞に「パレード」。間奏、蛍
ここまで比較的激しめのロックが続いたところで、一旦"落とす"ような立ち位置の曲。「ナブナはおとなしめの曲こそヤバい」と皆知ってるのでこちらは息がつけないんですけど。
この曲はギターとピアノが共に曲の中でいい役割を担っている、その絶妙な絡み合いが素晴らしいと思います。
また断続的なギターが印象的な間奏は、「夜明けと蛍」もそうですが、椎名もたさんの「アストロノーツ」にも見られるような王道のフレーズながら、それまでの積み重ねでいい具合に最後への橋渡しになっていると思います。
8曲目 「五月は花緑青の窓辺から」
前曲からシームレス
落ち着いた前曲の終わりから違和感なく、それでいて一気にテンションが上がる繋ぎになっています。
本アルバムのなかでも特にハイテンポで盛り上がる曲ではないでしょうか。曲の多くを占めるサビなんて「思い出せ!」って感嘆符ついてるし。
食い気味に始まるこのサビの強さは言うまでもありませんが、2番のサビではオケによるアクセントが微妙に異なり、段階的に盛り上がるように変わっているのが好きです。
9曲目 「夜紛い」
リフすき。スルメ。間奏ギター「ヨヒラ」
初聴時にすでにスルメ曲と書いていますが、それから数週間たった今、このアルバム曲のなかでも特にお気に入りの曲となっています。
やはりヨヒラみがあるんですよね、あるんですが、それをさらに洗練してグレードアップしたような超名曲。
イントロもBメロも大好きだし、最初から最後までよくまとまった曲だと思いますが、特に素晴らしいのがやはりサビ。ナブナさんはフレーズ的にもメロディ的にも"強い"サビを書くのが得意です。しかしながらこの「夜紛い」のサビはそれほど"強くない"んです。一気に爆発するような盛り上がりではなく、じわじわと曲全体を通して染みてくるような、これまでにあまり無かったタイプの、完成度の高い一曲だと思います。
人生ごとマシンガン、消し飛ばしてもっと
ここのサビ前のギターが最高なんですが、歌詞も好き。「人生ごとマシンガン(で)消し飛ばして」ということだと思いますが、この助詞の「で」を抜いて間を作ることで、"うた"としても"詞"としても遥かに深みが出ている気がします。
そして安定の大サビ。
君が後生抱えて生きていくような思い出になりたい 見るだけで痛いような
というまくし立てるフレーズを入れることで、「ヨヒラ」では転調を使うことでしか実現し得なかったラストの爆発を完璧に成り立たせています。
君に一つでいい 風穴を開けたい
か、かっけぇ〜〜〜〜。美しいとか文学的とかじゃなくて、ただひたすらにかっけぇ…こうしたシンプルに格好良い"締め"が出来るのも、曲全体で作った雰囲気あってこそでしょう。風穴ばっちり開けられました…(あとこの後のアウトロが"沁みる"んだよなぁ…)
10曲目 「5/6」
雨。hiphop, ASMRのカットアップ→「雲と幽霊」
3つ目のインスト。こちらも「7/13」のようなヒップホップですがピアノが入っていて、更に雨音が瞬間的にASMRっぽくより印象的に使われています。2分半とインストとしては長めで、ストーリー性のある良曲だと思います。
11曲目 「パレード」
「ラプンツェル」「靴の花火」
ストリングス→『月歩』
投稿曲2つ目。この曲が投稿されたとき、わたしはちょうど旅先で、たしか出雲のネカフェでこの曲を初めて聞いたように記憶しています。旅とナブナ(ヨルシカ)の曲はなにかと縁があるんですよね。1年前の「準透明少年」「ヨヒラ」は香川で、「ただ君に晴れ」は沖縄の久米島で初めて聞きました。
で、そんな環境だったこともあり初聴時には「良さげだな〜」くらいの印象であまり聴き込めていませんでしたが、アルバムを通して何度も聞いていると、紛うことなき大名曲であるという感がますます強まるばかりです。
ナブナ曲としては、「夜明けと蛍」「ラプンツェル」「靴の花火」…と連綿と続くロックバラードの系譜の、間違いなく正統的な後継曲でしょう。
これまでとは違うのはやはりストリングスが印象的に用いられていること。ナブナさんが弦楽器を頻繁に使い始めたのは『月を歩いている』からですが、「ラプンツェル」ではピアノが彩りを添えており、弦は入っていませんでした。
ストリングスが目立ちますが、冒頭や2番後の間奏でストリングスが無いときには、それと同じメロディをギターが代わりに奏でています。このギターが地味にいい仕事をしていると思います。だからこそストリングスが引き立つというか。
それから、その2番でサビを作らない構成。「わかるんだ」から広がる圧倒的な抒情にただただ打ちひしがれるのみです。
12曲目 「エルマ」
この曲には初聴時のメモがありません、聞き入っていたのでしょうか。
優しくもポップで、エンディング感を抱かせるのは「花と水飴、最終電車」や「かぐや」のようです。まだ1曲歌モノが残っているんですが。
冒頭
嘘つきなんて わかって 触れて エルマ まだ まだ痛いよ
のリズム感がとても好きです。
13曲目 「4/10」
足音。ピアノインスト。「落下」「落陽」「飛行」「敬具」
インスト4曲目。1つのアルバムに4曲も入るのはナブナ史上最多ですね。ナブナさんのインストは、アルバム全体の雰囲気や物語をうまくまとめるために入るイメージがあるので、本アルバムはそれだけ1枚を通しての流れを意識しているのでしょう。ピアノインストがはじめと終わりにあるのはいつものことなので、「8/31」と対になっているということですね。日付の時系列は逆になっています。
14曲目 「だから僕は音楽を辞めた」
これすき 全部
アルバム表題曲を投稿するのはナブナ史上初。数年前から書き上がっていて、このアルバムを作るきっかけとなった本曲は紛うことなき現時点での最高傑作だと思います。Orangestarの「DAYBREAK FRONTLINE」を初めて聞いたときのような、明らかに"本気で勝負を仕掛けてきている"という、その意気が思い切り伝わってくる曲です。
上にあるように全部好きです。歌が始まる前の3拍のドラムから詞の密度が高めのAメロからBメロ入りのドラムからBメロ後半のギターからなんと言ってもサビの入り!…こうしてみると、曲の中でのフレーズ間の"つなぎ"が全て良いんですよね。それぞれが良フレーズなのは当然として、それらが違和感なく──それらの魅力を更に深めるように繋がっているのが名曲たる所以だと思います。
こんな曲書いたらそりゃあ表題曲にしてアルバムの一つや二つ作りたくなるよなぁ…と合点がいく、とんでもねぇ完成度の曲。
□ □ □ □ □ □ □ □
アルバムの感想は以上です。疲れた…。
最初に書いたように、この記事ではyoutube上のコメント等で盛んに行われているような、"ストーリー"に関する考察はしません。というか、わたしはしません。
わたしが最初に『だから僕は音楽を辞めた』というアルバムが出ると知ったとき、そしてこのアルバムを聞いているあいだ、ずっと太宰治が頭にチラついていました。
わたしは太宰の良い読者ではありません。そもそも苦手です。それは彼の作品には極めて強く"実作者"(=太宰自身)の存在が現れており、その存在を避けては作品の批評が難しいという性質があるからです。
典型的な例が『人間失格』です。この小説を読む我々は、多くの場合、作品内で語られる一人の男の遍歴が太宰自身の生涯に"似ている"ことを知っています。そのため、あたかも本作の主人公と作者自身が"同一人物"であるかのように思ってしまいがちです。
自伝的な小説、それから私小説を読むにあたって、本を読み慣れていない人が犯す最も初歩的な過ちがこの「主人公と作者の同一視」です。
いくら本当に作者の人生に起きた"事実"を描いているとしても、そこには必ず虚構があります。作者にそうした意図がなかったとしても、それでも必ず現実との乖離は存在します。当たり前です、現実は紙の上にはありません。
フィクションの持つ、こうした原理的な虚構性を見逃してしまうと、もう"良い"読みはできません。"良い"というか、"自由な"読みはできません。
太宰の作品は、このようなフィクションの「私」とノンフィクションの「私」が極めて複雑に絡み合い、うかつに手を出せない、非常に難しい類の文学であるという印象があります。メタフィクションよりもタチが悪い。
(こうした小説内の「私」に潜む複雑さと深みについては、例えば安藤宏 『「私」をつくる─近代小説の試み』を参考図書に挙げておきます。)
『だから僕は音楽を辞めた』に戻ります。本作も、太宰の『人間失格』のように、下手をすると「アルバム内の"僕" = ナブナ」という等式に陥ってしまう危険性があります。もちろん、ナブナさんは音楽を辞めていませんし、"僕"とは明らかに別の位相の存在であるのですが、それでも曲中に出てくる地名や"僕"が旅するストックホルムが実際に本人に縁のある土地であることから、半ば意識的にそのような同一視の危険性を称揚しているようにも思えます。
また、"僕"の「手紙」に目を通してみても、『人生が芸術を模倣する』というオスカー・ワイルドの言が引用されており、ナブナさん自身もワイルドの徒であることをインタビューで明言しています。これらを鑑みるに、やはりここには「太宰的」複雑さ──面倒くささ、と言い換えてもいいのですが──が横たわっているように思えてなりません。
また今夏には、続編となる2ndアルバム『エルマ』が出ることがもう発表されています。1曲1曲が『だから僕は音楽を辞めた』と対になるらしく、これは "僕"とエルマの書簡でのやり取りになぞらえられるのだと思いますが、更にややこしいことになりそうですね。そういうややこしさの渦へ飛び込んでいくのが好きな人たちにとっては──泳ぎこなすにしろ溺れるにしろ──「大好物」なのでしょう。そもそもナブナさん自身が大好きだからやっているのだし。
もちろん、こうした、初回限定盤において推奨されているような──"僕"とエルマの物語を追体験して、書かれていないことやMVのアレコレを考察して──という享受の仕方を否定するつもりは毛頭ありません。
しかしながら、少なくともわたしは、こうした面倒ごとには関わらずにナブナさんやヨルシカの音楽と付き合っていきたい、という思いがあります。そうした考察や解釈をせずとも、わたしは十分に彼らの音楽を味わっていけるという自信があるからです。
一時期は、ナブナの描く世界観とその正統的な享受法にうまく乗っかることの出来ない自分をもどかしく感じたこともありました。
ですが、『だから僕は音楽を辞めた』を聞いて、1曲1曲を聞き続けて、やっぱりヨルシカは、ナブナさんはいい曲を書くな、と思いました。
いい曲です、どの曲も。そう思います。ヨルシカの曲を聞いて「最高…」と思うたびに、まだわたしはあなたを追い続けていいのだと、許されたような気持ちになります。以前のような作者と作品の境界も分からないほどの熱狂的な執心はないのかもしれないけど、それでも「すき」はたしかにここにある、わたしのなかにある。音楽を辞めても人生が続くように、陶酔が終わっても人生は続く。その続きにあなたがいてくれて本当にうれしい。
わたしはこれからもあなたの作品を楽しみにしています。
やっと、やっとそう言える自信が持てました。ありがとう、ヨルシカ。
それでは。
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