n-bunaとOrangestarは何が違うのか
・はじめに
このnoteは、ボカロPとしても活躍する2人の音楽アーティスト、n-buna(ナブナ)とOrangestar(オレンジスター)の作家性の違いについて論じるものである。したがって、この2人の曲をまったく聞いたことがないひとは想定読者に入っていないことを、はじめにことわっておく。
n-bunaは2017年から、suis(スイ)をボーカルに起用して結成した2人組のコンセプトバンド「ヨルシカ」のコンポーザー兼ギタリストとしても活躍しており、n-bunaという名前を聞いたことはないがヨルシカは知っている、というひとのほうが今では多いかもしれない。(現役大学生の弟はそうだった。)
また、ふたりの作家性を論じるといっても、作品の作曲・音楽理論的な側面に注目することはせず※、主に歌詞やインタビューで語った内容に基づいて論を進める。これはひとえにわたしの音楽知識の欠如と怠慢のためであり、音に言及することのないアーティスト論は片手落ちどころか両手落ちである、という誹りは十分に受ける覚悟である。
※このふたりの音楽性の違いについては、Flatによるウェブ連載に詳しい。一部を引用しておく。
なお、わたしはこれまでに、Orangestarやn-bunaの作品の、歌詞だけではなく音やリズムや構成などにも注目したnoteをいくつか書いてきた。そんなもので埋め合わせになるとは到底思っていないが、もし興味のある方は読んでみてほしい。
・n-bunaとOrangestarという「ペア」
n-bunaとOrangestarは、大まかに2013年〜2016年頃のボカロシーンを代表するボカロPであり、2人は並び称されることが多い。このふたりがペアとして扱われやすい理由は、流行時期が重なっていること以外にもいくつか挙げられる。
まず、ふたりはともに夏を舞台やテーマにした曲やアルバムをリリースすることが多く、「カゲロウデイズ」「サマータイムレコード」のじんと共に、夏のボカロPの代表的存在である。Orangestarは夏の1日の変遷を表現した1stアルバム『未完成エイトビーツ』を発表した後も、「快晴」「Henceforth」そして最新曲「Surges」まで夏曲を頻繁に発表している。n-bunaも叙情的な日本の夏の世界を創り上げた1stメジャーアルバム『花と水飴、最終電車』のほか、ヨルシカ結成後も1stミニアルバム『夏草が邪魔をする』を皮切りにして、夏が舞台となる物語を織り込んだ作品を作り続けている。
このように夏のイメージが強いn-bunaとOrangestarは、(おもしろいことに)2017年の雪ミク公式テーマソングとして「スターナイトスノウ」を合作している。また、2016年にはアーケードリズムゲーム「CHUNITHM」へ同じタイミングで曲を書き下ろしている。(n-buna「その群青が愛しかったようだった」, Orangestar「心象蜃気楼」)
さらには、Orangestarの2ndアルバム発表時の音楽ナタリーによるインタビューでは、終盤になぜかn-bunaが飛び入り参加して、2人の交流などについて語っていたこともある。
雪ミクもCHUNITHMも音楽ナタリーも、すべて企業による企画の一環であることを考えると、当人たちの思惑をはるかに超えて、いかに「この2人をペアとして扱いたい」というリスナー・外部の需要が大きいかが窺える。
わたしは2017年に、評論同人誌『「ボーカロイド音楽」のいま:2016年のボーカロイド音楽シーンを振り返る』へと「Orangestarとn-buna ー若手2大ボカロPはなぜ若年層に人気なのかー」という文章を寄稿した。あれから約5年の月日が経ち、両者は良い意味で「若手ボカロP」とは言えなくなって久しい──片や2年間のアメリカ滞在から帰国して電撃結婚をし、片やコンセプトバンド「ヨルシカ」を結成して邦楽シーンの最前線で活躍しているのだ。両者ともに、YouTubeの普及によってボカロ文化に興味のなかった若年層のマジョリティへとさらに支持を広げていると言えるだろう。
以上のように、n-bunaとOrangestarがペアとして並べられるだけの理由は十分にある。どちらも「夏」や「青春」や「エモい」といった単語によってその作家性のなんらかが掴めるだろうという価値観が浸透する土壌はじゅうぶんに揃っている。
しかしながら、他でもないこの2人の影響でボカロ音楽シーンにのめり込んだ1人のリスナーとして、そして、この2人を積極的に並び評し、その共通点や関連性を見つめてきた1人のファンとして、わたしはあえて「n-bunaとOrangestarは全然違う。むしろ正反対の存在である」と主張したい。
夏や青春を体現するボカロPとして「似ている」n-bunaとOrangestarの相違点をここで掘り下げてみることは、それぞれの作品をより豊かに味わうためにも意義のある行いであると信じている。
・2人は陽と陰?
Orangestarとn-bunaの両方を好んで聴くひとに「2人の違いは?」と尋ねたとしたら、まずいちばん返ってきそうな回答は、両者を「陽と陰」に振り分ける意見であるだろう。なるほど、Orangestarの楽曲には明るさやポジティブさを、n-bunaの楽曲には逆に暗さやネガティブさを見出して対比することはさほど難しくない。
Orangestarの楽曲やMVには「イヤホンと蝉時雨」「快晴」「Henceforth」「霽れを待つ」など、雨上がり(あるいは梅雨明け)の晴れ上がった青空を強く想起させるものは多い。
歌詞を紐解いてみても、"何も後悔なんてないさ 前を向け 止まらないさ きっと光の待つ方へ" と歌い上げる「DAYBREAK FRONTLINE」や、"足を踏み出したその先の空を 駆け上がる僕らの日常が 願った未来を越える未来まで 止まらぬ僕たちの最高を目指して征く" と歌う「Surges」など、未来へと前向きな気持ちを抱かせる言葉がたくさんある。
一方でn-bunaの詞を思い返してみると、"最低だ 死んでしまうなら今日だと思った" (白ゆき)や "自分がただの染みに見えるほど 嫌いなものが増えたので" (夜明けと蛍)、"どうせ死ぬくせに辛いなんておかしいじゃないか" (メリュー)など、憂鬱や死、別れを想起させる単語がほとんどの曲に散りばめられている。
ヨルシカでも、「だから僕は音楽を辞めた」で "本当も愛も救いも優しさも人生もどうでもいいんだ" と歌うように、人生への絶望や自暴自棄的な感情を盛り込んだ詞は多い。
だが、わたしはこの2人を「ポジティブとネガティブ」とか「光と闇」「陽と陰」といった安直な図式に押し込めて理解することは、両方の作家性の本質を決定的に取りこぼしていると考える。
ではわたしがOrangestarとn-bunaを対比するとしたら如何なる軸においてなのか。このnoteでは、「ひとり / ふたり」、あるいは「わからなさ / わかりやすさ」という2つの軸を提案したい。どちらの軸でも、前者(〈ひとり〉,〈わからなさ〉)がOrangestarを、後者(〈ふたり〉,〈わかりやすさ〉)がn-bunaを表している。
もちろん、このわたしの提案だって、二元論である以上は「安直な図式」である側面は捨て切れないだろう。しかし──そもそも読者にはまだ何のことやらさっぱりだろうから──ひとまずは上図の視点を説明していく。
・歌詞のなかの「君」、「僕」
Orangestarは〈ひとり〉を、n-bunaは〈ふたり〉を象徴として理解できる説明の糸口として、それぞれの作品の歌詞に注目してみよう。
n-bunaもOrangestarも、歌詞に「君」や「僕」などの人称代名詞を頻繁に用いている印象は強い。それぞれの歌詞で、実際にどんな人称代名詞が使われているのかを曲ごとに調べ、スプレッドシートにまとめた。
動画サイトに投稿されている曲を中心に調査対象とし、全ての曲を網羅しているわけではないことに留意してほしい。n-bunaは46曲(内訳:n-buna名義のボカロ曲が24曲、ヨルシカ名義が計22曲)、Orangestarは43曲について集計した。
一部分のスクショを載せるが、詳しくはスプレッドシート↑を参照してほしい。
すると、歌詞に「君」と「僕」の両方を含む曲の割合は、Orangestarが約47%なのに対して、n-bunaは約74%であった。むろん、こうした定量的な分析はあくまで一面でしかないが、n-bunaのほうが「君と僕」という〈ふたり〉の関係を志向する傾向にあることを裏付ける証拠の1つくらいにはなるだろう。
以下、まずはn-bunaの作家性について詳しく見ていき、そのあとでOrangestarについて論じる。
・〈ふたり〉を志向するn-bunaの捻れた〈わかりやすさ〉
先ほどn-bunaの歌詞の特徴として挙げた「別れを想起させる単語がほとんどの曲に散りばめられている」点も、n-bunaの〈ふたり〉志向を裏付けている。「君」と「僕」が別れる/別れたことを暗示する歌詞──これは特に初期のn-bunaのボカロ曲に顕著な傾向だ。実際、n-buna本人も「一人きりロックショー」の投稿者コメントで次のように述べている。
「君」と「僕」が「さよなら」をして別れる創作物は(売れ線J-POPの失恋ソングなどを含み)とてもありふれているが、n-bunaの楽曲上で展開されるそれは、用いられる言葉のリリカルさや暗鬱な雰囲気から、特にオタク・サブカルチャー文脈における「きみとぼく」の問題系──いわゆる〈セカイ系〉の作品群にかなり近いところに位置づけられるのではないか。より正確に言えば、n-bunaの作品じたいはセカイ系ではないものの、n-bunaの楽曲に惹かれるときの心情と、オタク的・セカイ系的な作品群に惹かれるときの心情はある程度似通っていると思われる。それを裏付けするように、セカイ系の代表的作品とされるアニメ映画『ほしのこえ』の新海誠監督は、ヨルシカ結成から僅か1年後の時点(2018年7月)ですでに「言って。」をTwitterで絶賛している。
また、そうした反応の甲斐あってか、2020年3月には楽曲「春泥棒」が、新海誠が監督を手掛けるアニメCM「大成建設 ミャンマー編」に使われ、正式なタイアップを果たした。
ヨルシカの表現する物語に類似した作家は新海誠だけではない。わたしは、ヨルシカ1stミニアルバム『夏草が邪魔をする』が発表された直後(2017年7月)に投稿した感想noteの末尾で、n-bunaの作家性に近い存在として小説家の三秋縋の名前を挙げたことがある。
そのため、2年後の19年10月に情報サイト「好書好日」にてヨルシカと三秋縋の対談記事が発表されたときには、とても腑に落ちた思いがした。
三秋縋もまた「僕と君」の退廃的な恋愛関係を追求し続けている作家であり、この対談はn-bunaと三秋縋の両者が「同類」だと共感し合うトーンで進んでいった。冒頭を引用する。
2人とも、自分を世間一般の「普通」の価値観からは離れた「捻くれている」人間だと朗々と語っているが、このように自分自身を世間に対してナイーヴに対置する仕草はきわめてサブカル的・オタク的なものだろう。
以上のように、n-bunaの楽曲は基本的に、三秋縋的な(あるいは新海誠的な)「きみとぼく」のリリカルかつ歪んだ関係を描いていると言えるだろう。n-bunaが〈ふたり〉を志向している、という言い回しはこうしたサブカル/オタク的な文脈を背景にしている。
ただし、ここで留意すべきなのは、いくら本人が「こじらせ」ているのだと異端性をアピールしたところで──いや、異端性をアピールすればするほどに──ヨルシカはいまや邦楽シーンを代表するようになり「世の中」=マジョリティの文化へと完全に組み込まれている、という事実が我々の前に立ち現れてくる点だ。
ヨルシカのように一見サブカル的なものが大衆性を帯びている事態を考えるうえで、n-bunaがヨルシカにおいて実践している芸術論を検討しないわけにはいかない。その芸術論の分析は、現代ビジネスに掲載された飯田一史の記事に詳しい。
この記事で飯田は、ヨルシカの芸術観を以下のようにまとめている。(ただ、これだけいきなり読んでも理解は難しいと思う。興味があれば全文を読むことを薦める)
わたしは先ほど、新海誠や三秋縋といったサブカル的・オタク的な文脈との連関でn-bunaの作家性を論じたが、ここで飯田は、n-buna/ヨルシカが若者層に人気な理由を、ニーチェやマルクスや宮台真司にまで射程を広げて考察している。こうしたアカデミックな著作家のある種無節操な引用には、それこそn-buna自身の教養主義的なポーズの「模倣」だと言ってしまいたくもなるが、ここで重要なのは、「(n-bunaの)主張は要約すればシンプルかつピュア」である、という部分だ。これはわたしの考えるn-bunaの〈わかりやすさ〉とほとんど同じ意味だ(と思う)。
「きみとぼく」という〈ふたり〉の関係を主題にした物語にしろ、オスカー・ワイルドの「人生が芸術を模倣する」という芸術至上主義をピュアに信奉する態度にしろ、n-bunaの作家性はどこまでも古典的かつ典型的で〈わかりやすい〉のである。
だが、彼の側からは、あるいは彼の作品そのものからは「これはわかりやすいです」というメッセージを発していない(発してはいけない)のが肝だ。あくまで表面上は「わかりやすさ」を衒学的な引用=模倣によって覆い隠すか、逆に『盗作』のように「こんなもの下らない」と露悪的に自己否定をする身振りによって撹乱し、外部からの誹りを先回りして封じる戦略をとる必要がある。そうして、徹底的に〈わかりやすい〉ために大衆性を獲得しているn-bunaの作品と活動は〈わかりやすい〉ものとしては受容されない。上の飯田の論考では、こうした自己矛盾したポーズそれ自体が古典的かつ典型的で「いつの時代もさほど変わらない。ヨルシカはその令和版である」のだと述べているが、筆者も全面的に賛同する。
n-buna/ヨルシカの捻れた〈わかりやすさ〉をめぐるパフォーマンスを端的に示す良い例がある。「春ひさぎ」公式MVの概要欄に書かれている以下の文章である。
曲のタイトルの「意味」を、そして「メタファー」をすべて開陳してしまっている。それを自ずから説明した時点でもはや隠語でもメタファーでもないというのに。「わかりやすい作品」であると「君たち」へと露悪的に念押しして訴える。ここでも「きみとぼく」の問題系が変奏されている。ロマンチックな恋愛劇としての〈ふたり〉ではなく、創作者と消費者という、商業主義・資本主義社会における〈ふたり〉だ。
わたしがn-bunaの作家性の本質を〈ふたり〉というタームで表そうとする理由もここにある。憧れの人にしろ消費者にしろ社会にしろ、彼は常に外部にある他者を相手取っている。それが──後述するが──Orangestarとの決定的な違いである。
このようにn-bunaは「僕は「僕」という存在が介在するのではない形で作品を見てほしいし、作品だけを見たうえで評価を受けたい」という旨を数々のインタビューで語っているが、まさにそうしてインタビューで自身のスタンスや意向を滔々と語る行為自体が、彼の作品のなかに「n-buna」という存在をますます強く介在させていく。まったく「自分を滅却」していないのだが、しかし「自分を滅却」しているのだと公言し続けることには戦略上の必然性がある。
「僕が曲を作るのは、完全に自分のためです。」「あくまで自分のために、自分の人生を書いた曲しか書けない。」と語らなければならないn-bunaにとって、「自分」とは何らかの他者との〈ふたり〉の関係を前提にしたものなのだ。
・〈ひとり〉を志向するOrangestarの〈わからなさ〉
では、n-bunaと対比したときにOrangestarはどのような存在に見えてくるのか。それは〈ひとり〉を志向している点と、それゆえの圧倒的な〈わからなさ〉である。n-bunaの〈わかりやすさ〉の対義語としては〈わかりにくさ〉をあてるところだろうが、正直に申し上げると、わたしはOrangestarのことが何もわかっていない。だから「わかりにくい」のではなく「わからない」としか言いようがない。
Orangestarは、わたしがボカロ音楽シーンにはまりこんだきっかけにして、もっとも好きなボカロPであるが、聴けば聴くほどに、考えれば考えるほどにわからなくなっていく。最近は、Orangestarは自分のなかでほとんど得体のしれない意味不明な存在として、手を届かせようにも届かない1つの特異点のようになっている。
(もちろん、自分の理解を超越した存在として自分の好きなものを位置づけることで、その神性を担保して安心したり溜飲を下げたりする、という心理がここで自身に働いていることは否定できない。このnoteでは、今の自分ができる限りのOrangestar理解に努めたつもりである。)
n-bunaよりは少ないとはいえ、Orangestarの歌詞でも「君」と「僕」といった二者関係を示す単語はよく使われている。
「Henceforth」の “あぁ 君はもういないから 私は一人歩いている” という歌詞などは、n-bunaの〈ふたり〉の離別を描いた歌詞とほとんど同型だとみなすこともできよう。また2年間の活動休止前にお別れの曲として発表した「快晴」冒頭の “梅雨が明けるまであとどれくらい? / まだ紫陽花の光る朝 君の愚痴 / 夏の足音はすぐそこまで / ねぇ迎えに行こって僕を急かす” における「君」や、「DAYBREAK FRONTLINE」の “眠れないんだ 風もなく茹だりそうな夜に 君の声が耳元で揺らいだ” における「君」などは、外在している他者という印象が強い。
一方で、Orangestarの歌詞にみられる特徴的な表現のひとつに、主語と目的語が一致した文(ex. AはAを〜した)がある。例を挙げると、 “あぁ 僕は何故 僕をどこまで連れてくの” (Alice in 冷凍庫)や “「なんてざま期待も無いな」って君は君を掻き消した”, “今日の世界はいかがです? きっと言われずとも君は 君を知っているだろうともさ” (時ノ雨、最終戦争)などである。
似た表現として、 “『僕は僕だ』って 意地張ったって 風になってしまうよ僕の歌”(空奏列車)のように、自己を巡るトートロジー(A=A)に対する懐疑や逡巡をあらわすフレーズも多用する。2ndアルバムの最後を締めくくる「八十八鍵の宇宙」は、まさにOrangestarの自己規定をめぐる主題を総決算するかのように “いつの間にか 僕が僕じゃないみたい / あの頃の僕らは なんかもっと 楽しそうに思えていた / それは違う 僕は今も僕だよ 余計なことばっかさ 気にしてただけ” と歌う。
このように、アイデンティティへの葛藤や自己の客観視、自己同一性への懐疑といった非常に内省的なモチーフが散りばめられているために、Orangestarの詞に出てくる「君」は、言葉通りの他者(二人称)ではなく、「僕」(一人称)の屈折した言い換えのように思えてならない。
「牆壁」には “目の前の僕は単純に 溢れそうな想いを歌っている” と、自己を客観的に見つめる象徴的な詞があるが、ここでの「僕」と、 “君は自称何だったっけ? わかんない?そんなはずはないよ”(シンクロナイザー)という詞における「君」などは、ほとんど同じものを指しているのではないかという気がする。
このように、Orangestar作品は内省的であると思う。2ndアルバムのタイトルが『SEASIDE SOLILOQUIES(=海辺の独白)』であるのも象徴的だ。彼の紡ぐ詞はすべて自分が自分に語り聴かせるもの──まさに独白なのかもしれない。Orangestarが〈ひとり〉を志向している、というのはこの意味である。
彼の詞の世界はどこまでも「自分とは何か」という哲学的・実存的な主題によって駆動しており、これは他者を配置して物語(=商品)へとパッケージングしたり、芸術観を戦略的に主張したりするn-buna作品の姿勢とは対照的である。
言わば、n-bunaの詞にはある程度明確なストーリー性やメッセージ性が存在するために聴き手にとって〈わかりやすい〉のだが、Orangestarの詞は作者のなかで自己完結しているために聴き手に向けたものではなく、その意味するところがいまいち〈わからない〉のだ。
その意味で、真に「自分のために曲を作っている」のはOrangestarではないかと筆者は思う。だからこそ、n-bunaのように色んなインタビューで「自分のために曲をつくっています」とアピールする必要がないのだ。
留意してほしいのは、筆者はここで「自分のために曲を作っているほうが偉い/優れている」とか、逆に「聴き手のことを考えて曲を作っているほうが偉い/優れている」などと言いたいわけではない。ここでしているのは2人の(似ていると言われる)アーティストの作家性の違いを明らかにすることであって、優劣の価値判断ではない。
筆者が感じている、Orangestarの〈わからなさ〉の具体例をいくつか述べておく。
「内省的」とは言ったものの、一方で世間的なイメージ通りの「爽やかで前向きな曲」もやはりOrangestarは書いている。最新曲「Surges」は非常にわかりやすく前向きな詞だが、これはカロリーメイトCMへのタイアップ提供曲であるために納得はしやすい。
では、書き下ろし曲であれば本質的な〈わからなさ〉を封印して淡々と仕事をこなすかと思いきや、2021年1月にソーシャルゲーム『プロジェクトセカイ』の女子高生4人組ロックバンドLeo/needへと書き下ろした「霽れを待つ」を聴いてみるとその仮定が崩れ去る。
この曲は学生バンドらしい爽やかなロックサウンドを基調としているが、サビ終わりに「っていつか君がいなくなったら あぁ 私だけ生きて行くの?」という、まるでバッドエンドのような歌詞をもってきて、あろうことか「私だけ生きて行くの?」を4回も繰り返して曲が終わる。(正確には「私だけ生きて行くの?Oh Oh〜」とコーラスが入るが、余計にわからない。)
これをLeo/needのイベントシナリオ内容と突き合わせて解釈するプレイヤーも数多くいるが、それはどう頑張っても無理があると思う。ふつうタイアップ曲で書く歌詞ではない。いずれにしろこれを許可する『プロジェクトセカイ』制作側の懐の深さを感じるが、それと同時にOrangestarの得体のしれなさを思い知らされる1曲である。
「霽れを待つ」の少し前、2021年の元旦に突然投稿した「Nadir」は、さらによくわからない1曲である。
そもそも新年一発目に「天底」を意味する曲を上げる時点で得体がしれず、更には(作者当人の履歴といたずらに結びつけて作品を解するのは下品だが)結婚を発表した2週間後にこんな曲を投稿するのもよくわからない。それはともかく、DTM感を隠そうともしない編曲といい、言ったことをすぐに括弧に入れて客観視・自己否定を繰り返しながら進む歌詞といい、淡々としたビートが盛り上がり過ぎずにループしていく構成といい、Orangestarの真骨頂が詰まった曲だと思っている。
Orangestarの楽曲には「Surges」や「DAYBREAK FRONTLINE」などわかりやすい曲と、「Nadir」「霽れを待つ」などよくわからない曲がある、という風に書いてきた。しかし──これはまだ根拠のない印象論だが──それらの両極はまったく別々のものではなく、根底では連続的に繋がっていて、ひとつの「Orangestarらしさ」の別のあらわれなのではないかと考えている。ここを掘り下げるためには、Orangestarが教徒であることを公言しているモルモン教の信仰内容と比較して検討する必要もあるかもしれないし、歌詞だけでなく音楽性についても詳しく見ていくことも必須だろう。いずれにせよ、Orangestarを〈わからない〉ままにしていたくはない。
・おわりに
以上、とてもざっくりとした文章展開ではあったが、今のわたしが考えるn-bunaとOrangestarの作家性の違いとして、〈ひとり〉と〈ふたり〉、あるいは〈わからなさ〉と〈わかりやすさ〉という軸を設定して語ってきた。繰り返しになるが、このnoteでわたしがやろうとしたことは、両者の優劣をつけることではない。似た括りとして受容されている2名のアーティストの違いを明らかにすることで、それぞれの作品をより味わい深く鑑賞できるようになることが目的である。わたし自身、この目的が本稿で完全に達成されたとはまったく思っていない。今後とも、この2名のアーティストの活動を楽しんで追いかけながら、考え続けようと思う。
この文章を読んでくれたあなたも「自分だったらn-bunaとOrangestarの違いをどう表すか」に思いを馳せてもらえたら嬉しい。
────あるいは、しかし──わたしは以下のようにも思うわけである。
「そもそもn-bunaとOrangestarが似ているなんて思ったことないです」
と言われたらどうしよう?
冒頭で述べた通り、現在は「n-buna」より「ヨルシカ」の知名度のほうが高い。この事実はすなわち、n-bunaのボカロP文脈が周知されておらず、必然的に、n-bunaとOrangestarを近いアーティストとして聴いたことのないリスナーが増えていることを意味する。
当然ながら、ここでわたしの口から漏れる言葉は「ナブナさんがボカロPだったと知らないなんてヨルシカリスナー失格だ!」とか「n-bunaとOrangestarが "似ている" と思ったことがないなんてけしからん!」とか、あまつさえ「ふたりのうちどちらか片方だけしか聴かないなんてダメだ!」などの妄言ではない。
n-bunaとOrangestarを "ペア" として聴いたことがない── "近い" という発想さえないひとが、羨ましい。
彼/女らは、わたしが上で長々と言を弄したことを初めから飛び越えて、n-buna/ヨルシカの奏でる音楽を聴き、Orangestarが鳴らすメロディに浸っているのだろう。それは自由な、そして純粋な音楽の愉しみ方だろう。
けっして、これまで書いてきた文章が、「n-bunaとOrangestarの作家性の違い」を考える営みが、無意味だとは思わない。「純粋な」音楽の聴き方などという粗雑な観念をこしらえて最上の価値を付与することの馬鹿らしさを見逃しているわけでもない。
むしろ、n-bunaとOrangestarの違いについて真剣に考えて文章に著すことは、わたしにとってきわめて意義深い行為であると確信している。この確信は「n-bunaとOrangestarが似ていると思ったことがないひと」の存在に思いを馳せることでもたらされた。
このnoteを書くことで、わたしはようやく、「そもそもn-bunaとOrangestarを並び立てることのない世界」へと、あなたが見ている世界へと足を踏み入れたのだ。
この世界においてはもはや「n-bunaとOrangestarは何が違うのか」という問いは意味を成さない。「何が違うのか」ではない。両者は──「両者」という語を充てることすら的外れなほどに──あまりにも、自明に、異なったひとりひとりのアーティストとして存在しているのだ。
そのような風景が見える場所、この地平に立ってようやくわたしは、本当の意味で、n-bunaを、Orangestarを、聴くことができるだろう。