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濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』感想



「春樹原作である」と知らないまま観たかった。




完璧な映画だった。脚本以外は。
演出は本当に優れており、事前に聞いていた通り3時間という長さを一切感じさせず、マジで体感一瞬(2時間くらい)だった。
あとたまにしか流れない劇伴がめっちゃ良い。しかも、本作における劇伴の良さはそれ単体の魅力に留まらず……(後述)


・春樹っぽい

あらゆるエピソード、あらゆる台詞、あらゆる展開に春樹っぽさを感じて苦笑いし続けた3時間だった。

なんだか本作のある人物が「男/主人公に都合がいい」と批判されているらしいが(鑑賞直後に書いているのでまだ誰の何も読んでいない)、本作に登場するすべての女性は男──主人公に都合がいい表象だった。
本作の筋書きを要約してしまえば「恵まれているけど最愛の女性を喪ったハイソ男性が、自分の娘くらいの年齢の含蓄のあるローソ女性に出会って励まされる話」であって、まぁはいはいいつものやつね、という感じだ。LWさんの批判する「窓辺系小説」そのまんまの内容。(そのまんまではないかも)

主人公を待っているあいだ文庫本を読んでいるのも、喫煙者なのも、ちょうど主人公のバックグラウンドと綺麗に符号して埋め合わせられるようなエピソードを持っているのも、広島から北海道まで寝ないで連れて行ってくれるのも、何から何まで「あ〜〜はいはい了解了解」と言いたくなるくらい都合の良い造形で、最初から最後まで顧客を不快にさせない本当に優秀なドライバーだった。

いちばん印象に残っている登場人物は彼女ではなくて、演劇祭スタッフのおばさんだ。全体的にねっとり間伸びした、(演出家が)本気なんだかふざけているのかわからない喋り方が怖すぎて喋るたびに震え上がっていたが、特に迫真の「ふつかだけまてます」にはもう面白すぎて飛び上がってしまった。

※ちなみにそのあと主人公が北海道に連れて行ってくれと発言した瞬間に「あっ……」とその後の展開を察してしまい、ほんとうにその通りの内容が残り数十分流れたので終盤は一周回って逆に興奮していた。吹っ切れてワーニャ役を鬼気迫る形相で演じているところとか「でしょうね」って感じだった。

「被害者の物語よりも加害者の物語を読みたい」と言ったときに知人のRさんが「じゃあまさに『ドライブマイカー』じゃん!」と言っていたが、これは違うだろう。じぶんの加害者性に苦悩する仕草によって慰めてもらう、「加害者のふりをした被害者」モノであってわたしがいちばん嫌いなやつだ。無論、人間をこのように二項に分けるナイーヴさは本作の高踏的なトーンには相応しくないことは承知の上で、それでもこう言いたい。


本作のいちばんの名シーンは、何と言っても「村上春樹が『ONE PIECE』を描いていた世界線でのアラバスタ編ラストシーン」ともいうべきあそこだろう。そうか……この世界線では、あの見開きは海賊船じゃなくて深夜高速のオープンカーで演じられるわけね……という納得感がすごい。マジで爆笑してしまった。最高。ビビはいつまでも麦わらの一味だぜ……


わたしが春樹っぽさを感じる点が、実際には原作に存在せず映画オリジナルの要素であることは多いにあり得るだろう。しかしそれはどうでもいい。ここでいう「春樹っぽさ」とは、実際に村上春樹作品における特徴や傾向に合致している必要は一切なくて、わたしが「春樹じゃん笑」と感じてしまうこと自体に本質がある。春樹が春樹たる所以は、たとえ〈真実〉から乖離した形でも〈それっぽさ〉が明確に万人のもとへと立ち上がって来、それから逃れざる点にある。

そして、ここまで述べてきたことと矛盾するように思われるかもしれないが、本作を観て、やっぱり村上春樹は一流の作家だなぁと思った。語られるエピソードの全てがセンスに満ち溢れていて降参してしまう。決定的にキモいし批判されて然るべきなんだけど、そうであるが故に他の追随を許さないほどの高度な文学性を持っている。

政治性と文学性を雑に対置するつもりはないし、「いくら社会的に問題があっても文学として優れていれば良い」などと言うつもりはない。ただ、彼の作品は「問題があっても」ではなく「問題があるので」素晴らしい。だからこれだけしょーもない話をずっと書き続けても世間での地位は揺るがないのだろう。知らんけど(方言の盗用!)

ということを、別の人の作品をみて思ったのでした。


・映画における車

いつまでも別人の話をしているのも馬鹿げているので映画の話に戻ると、演出がマジで素晴らしかった。

本作ではタイトル通りドライブシーンが多いが、「映画における車内の撮り方」ってめちゃくちゃ掘り下げ甲斐のあるテーマだなぁと思った。

セブン』終盤の護送車内でのシーン、前の席と後ろの席との〈壁〉──そのあと崩れる前振りとしての壁──を演出するためのカメラワークを見たときが、たしか最初に「映画の車内シーンって奥深い!」と感じた瞬間だ。最近見たのだと『メメント』も車の中でのシーンは多かったし、オールタイムベストの『人生はローリングストーン』にも多い(というかジェームズ・ポンソルト作品には多い)。っていうかそうじゃん、もっとも最近みた傑作ロードムービー『そして人生は続く』を忘れちゃあいけない。

映画批評の本を一冊も読んだことがないけれど、きっと「映画における車」だけでもすでに何十冊もの本が書かれているのだろう。

考えてみれば、車のなかって超閉鎖空間にして人の配置/向きがほぼ固定されている非常に指向性の強い場でもある。(それが単にくそ狭いだけの一畳間とは決定的に異なる。)しかも、バックミラーや窓など、実写映画における大敵──〈鏡〉──があちこちに潜んでおり、座席という(撮影時の)物理的な障害物もある。制約まみれのミクロな形式だからこそ途方もない奥深さが宿る、という性質にはどことなく俳句/短歌っぽさも感じるが、とにかく本作も車内のシーンはとても興味深かった。


・動いているものの固定、動きの忘却

しかも、”車内”シーン といっても画面に映るのは車の中だけではない。車窓に流れ去っていく風景もまた重要な要素だろう。そして、特に本作では「車窓で流れ去る風景/動かない車内の人物」という対比はきわめてクリティカルに作用していると思う。

以前『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』のnoteを書いたときに、

映像作品、特にアニメにおける「乗り物」は、単にキャラを移動させたりするだけでなく、このように背景を動かす装置としても意義深いのかもしれないと気付かされた。「動くもの=人物/動かないもの=背景」という図式を立てるなら、乗り物とは「背景を人間化する装置」に他ならない。

と書いた。アニメを特筆したのは、アニメーションでは実際に人物作画と背景美術が別の工程で異なるレイヤーとして作られたものが重ねられているからであるが、最近では実写作品でもクロマキー合成とか素人は知らないもっとすごいCG技術がいっぱい使われているだろうし、実写でも人物と風景が別レイヤーに分かたれていることは珍しくないだろう。(本作のドライブシーンがどうなのかは知らないし、正直なところ実際の撮影方法にはあんまり興味がない。これは作家の自伝に興味がないのと地続きだと思う)

閑話休題。

映像作品における車は、動くもの(人間)を固定させ、動かないもの(風景)に運動性を与える、いわば倒錯的な作用があるわけだが、『ドライブ・マイ・カー』ではその倒錯性がどう効いてくるのか。そのカギはもちろん、あのドライバーの運転技術を主人公が称えたときの「車に乗っているのを忘れるくらいだった」というフレーズにある。車に乗っているのを忘れるくらい────つまり、動いているものを止まっているものと認識するようになったということ。車内の人物を映すために車に固定され、車とともに高速で移動するカメラと、逆に高速で流れ去る風景。隣の席に座り、じっとこちらをひたすらに(動かずに)まなざして語る青年。監視カメラ。「わたしがやりました」。愛する者の喪失という非日常はいつの間にか日常になる。これら、本作のあらゆる要素が「乗っているのを忘れる」その〈固定〉のマジックの上にある。乗っているのを忘れるくらいスムーズに走る車とともにあるのだ。この映画は、プロットや台詞、台詞のうちで語られるエピソードを映像的/撮影手法的な演出の次元でことごとく昇華していた。それが「演出は完璧」と思ったゆえんだ。

いや、映像面だけではない。音響の演出もまた、本作では絶対に欠かせない優れたものであった。

音響演出の白眉はやはり雪原があらわれたときの無音のシーケンスだろう。あの無音が引き立つのは、それまでずっと「うるさかった」からに他ならない。なにでうるさかった?──もちろん車の走行音だ。でもそんなことなど忘れていた。ずっと乗っていたのだから。運転音が通奏低音として音響を支配していた事実をその欠落によって知らせ、それによって運転者の技術と過去にまた立ち返らせる。

本作ではわずかしかない劇伴がとても良かったと上述したが、劇伴の少なさもまた「乗っているのを忘れる」走行音の定常性ゆえのものであり、走行音(環境音)・劇伴・無音という3種類の音響のコントロールが主題へと奉仕するさまは誠に鮮やかだった。



・後日譚の展開

本作の最後のくだりは結構よかった。といっても、主に評価するのはマスク描写の部分であって、国とか赤い車とか犬とかいった、いろいろと議論を呼びそうな諸要素に関しては「やってんな~~」と思ったくらいだ。それらの真相についての♰考察♰は他の人にまかせる。

マスク描写の何が好きって、それによって作中の年代を表現している点だ。それまで固定電話とかガラケーを使って通話していた登場人物たちがいきなりスマホを使いだしたら、およそ2010年代に突入したんだとすぐに視聴者は察せられるように、スーパーでの買い物中にみんなマスクをし、レジには透明な板が貼られていたら2020年以降の時系列であることがわかる。ここで重要なのは、2020年より後のいつなのか具体的にはわからないという点だ。2021年かもしれないし、2030年かもしれない。個人的には今の状態が一過性でなくこれからの人類のデフォルトになってほしいとこっそり願っているので2040年くらいだともっと嬉しいが、とにかく、2020年以前に書かれた小説を原作としている本作に、このような描写を入れてくれたことはとても好ましかった。ついにここまで表象/記号として認められたか……と感慨深い。



・そのほか 演劇と映画と手話

演劇を扱う作品だったが、演劇と映画の差異を強調するような演出が多かった。ふつう一方向から平面的にしか見れない舞台上での演技を、バストアップのカットや横から、後ろからのカットも多用して縦横無尽に撮る。特に、舞台の奥側から観客席をバックに撮る構図は何度もあったが、この構図の特権性がもっとも際立っていたのは木漏れ日が落ちる公園での立ち稽古のシーンだ。ここでソーニャともう1人(名前忘れた)の女優ふたりがゾーンに入って最高級の演技をするくだりの最後で、ソーニャはもう1人を後ろから抱きしめる。それを正面から撮り、2人のうしろにはじっと見守るほかのメンバー(とドライバー)が見える構図だ。ここでソーニャ役のひとは手話で語り掛けるわけだが、この角度では主人公たちには彼女の「台詞」は隠れてしまって見えないはずだ。それなのに熱演をしているのは確かにわかる、というあの場じたいの異様な雰囲気の演出にも一役買っているわけだが、観客は見えないはずの彼女の手話がわれわれには見えてしまったことが、演劇と映画の視点の自由さの違いを浮き彫りにしている。そして、全立体角(4π)へと球面的に回折しながら伝わっていく音声(聴覚メディア)と、あいだに遮蔽物があったら伝えることが能わない直線的な伝達性を持つ手話(視覚メディア)との差異も同時に示している。

また、彼女の手話は本番の舞台では(他の演者の台詞と同様に)各言語に翻訳されて上のスクリーン上にテキスト表示されるわけだが、この字幕吹き替えスクリーンが舞台よりはるか上にあるのがおもしろかった。あんなに上にあっては、どう考えても彼女の手話とスクリーン上の字幕を同時に見て読むことはできない。常にどちらかを諦めねばならない残酷な形式を採っている。正直言って、あのような作品は実際に公演する舞台としては明らかに失敗している(現実にもああいうのがあるのかもしれないが……。)しかし、舞台の観客ではなく映画の観客であるわれわれは、バストアップされた彼女の演技の手話(生の言葉)と同時に画面下に表示される本物の字幕によって、両方を同時に視界に収めることができ、手話を見ながら台詞の意味を理解することができるのだ。演劇としては失敗でも映画としては成功で、演劇として成立しないからこそ、映画で成立していることの面白さ、すなわち映画内で手話を用いた多言語演劇を扱うことの面白さが生まれているのである。


それから、舞台ラストシーンもまたソーニャが主人公演じるワーニャを後ろから抱きしめる体勢だった※が、そこの手話がおもしろかった。

(※これに対して、彼女の生家の残骸の前でふたりが抱き合うときは正面から向き合う形のみだったという対比を掘り下げることはできるだろうか。)

手話は基本的に自分の観点で〈自分のもの〉をジェスチャーすると思う。例えば「耳」を手話で表すときは自分の耳を指すように(本当にそうかは不明)。このラストシーンでソーニャは、ワーニャに語りかけながらも、手話であるかぎり〈自分のもの〉を自分の手で表しているわけだが、しかし、たしか「泣く」の意だったか、〈涙〉の手話だけは主人公の目の下へと指をやって頬を伝い落ちる涙を表現する。この涙は自分(ソーニャ)のものではなくワーニャのもの、〈相手のもの〉である。いわば〈本物〉の涙なのだ。はじめて〈相手のもの〉を自らの手で表現する行為をクライマックスに持ってくる構成にはしびれた。口語話者が相手の泣くのを話すとき、決して相手自身の本物の涙を表現することはできない。「涙」といくら口で言ったところで、それは簡単に相手に届いてしまうがゆえに、本当に相手の涙に届くことはできない。本物に手を届かせることができるのは、じっさいに相手へと手を伸ばすことで語りかける者だけである。

ちなみに、わたしが発見した限りでは、〈涙〉のあとにももう1種類、手話で相手のものを、つまり本物を表した言葉がある。それは〈笑み〉だ。主人公の頬を──ドライバーの彼女が土砂崩れで負った消えない傷とはちょうど反対の角度で──なぞる。ゆいいつ本物を表現したのが〈涙〉と〈笑み〉という対になる言葉であるところまで完璧だ。




・まとめ

以上、演出はめちゃくちゃ良かったけど、脚本は春樹っぽさが露骨だとどうしても感じとってしまい、流石だと(肯定的に)思うと同時に、やっぱり徹底的に独りよがりで気持ち悪いなぁとも感じて残念に思った作品だった。「春樹原作だと知らない状態で観たかった」とは言っても、想像するにそれでも「春樹じゃん笑」と思っていたような気がする。ナンセンスな想像だけど。

「演出はいいけど脚本はダメ」ってまるで『竜とそばかすの姫』にいろんな人が言っていたようなことを本作でいう羽目になるとは・・・・・・ (ちなみにわたしは竜そばを「脚本がダメなのはデフォとして演出までダメだからどうしようもない」作品だと書いた。)

本作は竜そばと違って演出はめちゃくちゃに素晴らしいので良かったです。脚本と監督を担当した濱口竜介さんは、次の作品には春樹原作ではなく奥寺佐渡子あたりを脚本に起用してはどうでしょうか。

あ、「音楽や構図など全体的な演出は完璧なんだけど大枠のストーリーだけが残念だった」作品として、みながら『君の名前で僕を呼んで』を連想していたんだった。あれも本作と同じく、ハイソサエティな貴族的男性性の傲慢さが、センスの良い演出の裏から滲み出ていてうーん……という感じだった。画の美しさと音楽の良さは本当に素晴らしいんだけどね……。そうした卓抜した諸要素は特権階級の人間の生を表現するうえで必須なのだから、両作ともに正しい佇まいであるとは言えるのかもしれない。



最後に。

先日『女のいない男たち』単行本をくれた知人のJさん、ありがとうございます! 帰宅したらすぐに原作を読めることのなんと有難いことか……




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