【祝 完結】末次由紀『ちはやふる』を1巻から読み返した【全50巻】
・はじめに
2022年12月に刊行された第50巻をもって、末次由紀(敬称略)による漫画『ちはやふる』は幕を閉じました。
これまでのnoteで何度か書いている通り、わたしはアニメの中で『ちはやふる』がいちばん好きであり、原作の漫画はそれ以上に好きです(原作厨なので)。
漫画のなかでも、久保帯人『BLEACH』に次いで想い入れが深い『ちはやふる』が、『BLEACH』と同じく連載15年間で完結したというのは感じ入ってしまいます。
どれくらい『ちはやふる』に想い入れが深いかというと、中学生のときに(刊行されていた10巻前後までを)読んで「競技かるた」に興味を持ち、高校受験前だというのに同級生を集めて(お遊びの)かるた会を結成し、毎朝&休み時間に、空き教室を借りて試合練習をし、高校では入学と同時に「かるた部」作りに奔走し、(地方の保守的な公立高校のため)部活としては認められずも、運命的な縁もあってなんとか「同好会」設立を果たし、2年間、部活と両立しながら活動して公式大会にも出場・入賞をした──くらいには、マジのガチで「自分の人生に多大な影響を及ぼした」作品です。
(『ちはやふる』含め、漫画やアニメで主人公たちが新しく部活を作ろうとするテンプレがありますが、あれを実際に(1人の状態から/1年生の身分で)やろうとするとマジで死ぬほどキツいし心を病むからオススメできません。今でも若干トラウマになっています。)
高校卒業後、大学時代も少しは地域のかるた会に所属しましたが、現在は競技者としては全くやっておらず、1月の名人クイーン戦をYouTubeで観覧するていどの一介の競技かるたファン、という身分です。(ちなみに級はC級にも上がれずにD級(無段位)なので、ほんとうに競技者としては才能がありませんでした。ものすごく過酷なスポーツなので、自分のようなそもそもスポーツや勝ち負けにこだわる競争ごとが苦手な人間には根本的に向いていない……)
閑話休題。1巻から読み通しての感想メモをいつも通り丸ごとコピペして以下に載せます。なお、noteのタイトル的には1巻から50巻までの感想がじっくり読めるのかと誤解させてしまったかもしれませんが、全然そんなことはなく、一気読み中になんとなくメモを取る気になったところの感想だけしかありません。最初の20巻とか、いちばん肝心な最後の10巻の感想はありません。これは、決してつまらなかったからではなく、むしろ逆にほんとうに「一気読み」をしていたためにメモを残している余裕などなかったためです。
また、台詞の引用や巻数の言及など、細かいところはうろ覚えでテキトーに書いているので、あまり信用し過ぎないで下さい。
~~コピペはじめ~~
2023/1/22
完結記念で、実家に置いてあった全50巻を送ってもらい、1巻から最終巻まで通して読む。
これだけ自分の人生に深く影響を与えてきた大事な作品の最終巻なので、その初読は、1巻から49巻までを通しで読んだ直後でなければならないと思う。
2/5
・2年目の挑戦者決定戦〜名人クイーン戦開始直前まで(21-23巻)
挑戦者決定戦で原田先生が勝って、新がいきなり千早に告白し、そのとき太一は千早が借りていた周防名人のマフラーを返しに外の公園へ行き「(自分は千早の)彼氏です」と嘘の宣言をするくだり、全部完璧すぎて震撼する。原田先生という人生かけてかるたをやっている年長者の活躍を描いておいて、新が千早に「一生一緒にいよう」というプロポーズの含意の「一緒にかるたしよっさ」を伝え、そして太一の彼氏宣言を、ちょうど家族で公園にいた猪熊さん(二児の母)に「今のカッコよかったわよ」と背中を叩かれる流れ。
「かるた」の人生経験/年長者の活躍という挑戦者決定戦でのテーマを、スムーズに恋愛における人生スケールの覚悟(結婚,家族)へと繋げる構成。
22巻で東大かるた会の練習に飛び入り参加した千早と太一。千早はひょんなことから周防名人に気に入られて対戦することになる。現名人であり、物語的には最終的に新に倒されなければならない(男の)ラスボスを、こうして少女主人公と早めに闘わせておく。その千早にとってのラスボスである詩暢ちゃんは逆に新と小学生時代からの因縁のライバルで、高校選手権決勝でも対戦している。つまり、千早-詩暢のクイーン軸と、新-周防の名人軸をクロスさせて因縁・交流をつくっている。
また、もちろん太一の存在がここに絡んできて、より一層『ちはやふる』を奥深い物語にしている。千早と新の両想い関係から疎外されている、主人公の異性幼馴染キャラであり、瑞沢高校かるた部の部活青春スポ根モノの軸においては、かるた部部長としてリーダー/主役の座を与えられながらも、一方で高校かるたの世界から外の、一般のかるたの世界(名人クイーン戦をその中心/頂点とする)および、恋愛漫画の文脈においては、主人公に選ばれないことが決まっている「負け(ヒロイン)」役であり、また序盤の小学生編での立ち回りなど「ヒール」でもある。その太一の"ヒール"性は、2年目名人クイーン戦後(あるいは千早に告白してフラれた後)に瑞沢高校かるた部を辞めた太一が、通っている予備校の講師※であった現名人・周防久志というラスボスに急接近して、実質的な「弟子」になる、という衝撃的な展開によって色濃くなる。千早に明確にフラれたことで、恋愛軸としては敗者となった太一が、かるた軸における最強の名人・周防久志に弟子入りすることで、ヒールとして復活あるいは延命あるいは覚醒し、千早たち瑞沢かるた部および藤岡東高校でかるた部を作った綿谷新ら「団体戦」=〈光〉陣営(第一部の部活青春モノの残滓)に対して距離を取り、トリッキーな立ち回りをする。(周防名人&若宮クイーンの特集TV番組のアシスタントとして大阪に行くなど。)
ちなみに、ここで団体戦を〈光〉陣営としたのは、言うまでもなく、個人戦での最強格・周防久志と若宮詩暢の2人は師を持たず団体戦など絶対にしない孤独な存在だからだ。第二部(目指せ名人クイーン戦編)では、彼ら孤独な2人をいかにして「救う」か、というのが本質的なストーリーの原動力であり指針となる。
・『ちはやふる』を二部構成として読み解く
『ちはやふる』全50巻を、大きく第一部(前編)・第二部(後編)に分けるとしたら、おそらく2年目の高校選手権までが第一部で、その後の吉野会大会からが第二部だと思う。(小学生編はプロローグとして今は棚上げしている)
『ちはやふる』第一部は「部活スポ根」モノであり、2年目で瑞沢高校かるた部が団体戦で全国優勝することで、そのストーリーはいったん大団円を迎える。その後の吉野会大会で、原田先生が千早たちに言う「団体戦は個人戦、そして……個人戦は団体戦だ」という台詞は、まさに高校選手権・団体戦に象徴される第一部から、名人クイーン戦(個人戦)に象徴される第二部への橋渡しとして、吉野会大会編が位置付けられていると解釈できる。
(そもそも、2年目の高校選手権全国大会において、一日目の団体戦、2日目の個人戦という2日間のスケジュール※を目一杯つかって、競技かるたにおける「個人戦/団体戦」とは何か、というテーマが扱われている。それは明示的には、高校選手権初出場となる新が電話越しに千早へ言った「個人戦で勝つことしか興味ない」という台詞から始まり、個人戦決勝で新に負けた詩暢が発した「うちはクイーンやから」という台詞で一応の決着をみる。団体戦から疎外された新と詩暢の2人それぞれの競技かるた(界)への向き合い方の意識変革というストーリーラインが2年目高校選手権全国大会には走っている。)
また、瑞沢高校の全国優勝の他に、というかそれ以上に、第一部から第二部へと切り替わる明確なイベントがある。それは、真島太一のB級からA級への昇格である。2年目の高校選手権 個人戦において遂に優勝をもぎ取ったことで太一はようやく名人戦参加資格のある「A級」選手となり、競技かるた連盟の基準において公式に、千早をめぐる恋敵である綿谷新と"対等"になった。2年目の高校選手権編を締めくくるのは、団体戦決勝で瑞沢高校と死闘を繰り広げた富士崎高校の顧問・桜沢翠先生の「気付いているかしら──今年の高校選手権で、ただの一度も負けていないのは、福井の綿谷新と、瑞沢の真島太一の2人だけよ」という台詞であることがそれを何より象徴している。
では、『ちはやふる』第一部が主に高校の部活の団体戦がフィーチャーされる「青春スポ根」モノであるとして、対する第二部は何かというと、高校生に限らず、老若男女、「大人」と対等に戦わなければいけない個人戦の世界である。すなわち、高校3年間での「部活」としての競技かるたではなく、一生をかけてやっていく「人生」としての競技かるたが扱われる。(『ちはやふる』は競技かるた漫画としての側面と少女恋愛漫画としての側面が表裏一体であり、当然ここでも、一過性の「青春」としての恋愛から、一生付き合っていくひとを選び選ばれていく「人生」としての恋愛(それは結婚相手・伴侶探しに限りなく近い)へと移行していることを意味する。)
「人生」全部をかけた競技かるたの世界の中心が、1月の名人位・クイーン位決定戦である。この名人クイーン戦は、作中で非常に印象的なかたちでこう表現される──「不尽の高嶺」と。それは文字通り一握りの選ばれた者しか土を踏むことすら許されない荒野であり、そこを本気で目指そうとする千早は、かるた部を引退して受験勉強に専念し始めたかなちゃんや机くんたちの姿を見て孤独感を覚える。しかし、その孤独感は、まさに彼女が目指しているクイーン・若宮詩暢が幼少期からずっと深く経験してきた孤独である。彼女はその孤独のなかで生きてきて、孤独のなかで「かるた」と出会い強くなった。若宮詩暢を孤独から救い出すためには、挑戦者となる千早自身がまず彼女と対等の孤独のなかに身を置かなければならない。その"天才"の歩ませられる過酷な道のりが、第二部の後半(高校3年生編)では描かれる。
※「青春をかける」とか「人生をかける」とかいうフレーズを聞いて『ちはやふる』読者が思い起こすのは、序盤で原田先生が真島太一にかけた「青春全部かけたって強くなれない? かけてから言いなさい」という言葉だろう。あるいは原田先生は、2年目(22巻)の挑戦者決定戦で自身の死闘によって、太一に「原田先生は、青春どころか──」と思わせることで、かつて教え子にかけた言葉を受けた超ロングスパンの格好良すぎるリフレイン/伏線回収をおこなっている。
つまり、第一部は「青春ぜんぶかけてからいいなさい」編であり、第二部は「人生ぜんぶかけてみなさい」編である、という言い方もできる。本当に、名人位・クイーン位が "不尽の高嶺" であるということが否応なく伝わってくる。
あるいは、3年目の高校選手権東京都予選での、鳳明高校かるた部顧問の坪口さんが生徒たちにいった「──青春は、何度でも来る!」という台詞も、『ちはやふる』第一部「青春」と第二部「人生」という構図そのものを揺るがす批評的な名言として理解できるかもしれない。
・3年目の高校選手権について
~第二部「人生」が始まってしまったあとで、第一部「青春」の残滓を描く~
千早たちが3年生になっての3回目の高校選手権編が好きだ。
「青春スポ根マンガ」としての『ちはやふる』のクライマックスは、2年目高校選手権 全国大会 団体戦 決勝・富士崎高校との試合だろう。漫画でもアニメでも、いちばん手に汗握ったのは、富士崎高校の主将と太一の運命線で「ゆらのとを」が読まれた瞬間だった。本当に大好きなシーン・試合だ。
いっぽう、3年目の高校選手権で、瑞沢高校はパッとしない。東京都予選から、参加校/人数増加のため激変したルールに振り回されてあわや予選落ち、全国大会出場ならず、の危険があり、最終的に全国出場決定するのも、勝ち点が並んだ他の高校との主将→副将→中堅……と移行していく、紙面上での成績比べによってであり、スポ根としての爽快感・熱さがほとんど無い。自分たちでも勝ったのか負けたのかよくわからないうちに、ルールと運に救われて全国出場のおこぼれを貰った、という感じだ。
そもそも、瑞沢高校かるた部の3年目に入ってくる新入生の一年が曲者である。田丸翠。2年目の女子新入部員・花野菫も初登場時はものすごくヘイトを貯めやすいキャラクターだったが、田丸翠はその上をゆく性格の悪さである。初心者だった花野菫と異なり、かるたの実力はそこそこあるのが余計にたちが悪い。自分勝手で生意気な新入生の田丸翠を先輩たちは扱いきれず、部の雰囲気は悪くなる。部長を務めていた真島太一が突然退部したところから、瑞沢かるた部の3年目は散々な雰囲気である。
このように、3年目の瑞沢かるた部および高校選手権編は、前年に比べて明らかに盛り下がっている。これは普通、長編漫画としては明確な欠点であるはずだが、『ちはやふる』においてはそうではない。昨年の栄光がチラついて全然上手くいかない、下手に成熟した人間の悲哀をこの上なく鮮やかに描いているからだ。「盛り上がらない」こと自体を長編ストーリーの1つの必要な段階として配置して見事に描いているのである。
これは、『ちはやふる』を「青春」の第一部と「人生」の第二部に分けた図式に当てはめてもよく理解できる。高校かるた部の団体戦がメインの第一部は、2年目の高校選手権で頂点を経験してしまい、すでに終わっているのだ。3年目の高校選手権は、青春期が過ぎ去ったあとで、それを認められずに無様にあがく、中途半端な「大人」のつらさを描いているとも読める。
そんななかで千早が昨年からずっと言い続けてきた、「瑞沢かるた部をいつか北央みたいな強豪校へ」という強欲で馬鹿げた〈夢〉は、まさに青春の象徴たる高校の「部活」──それはふつう誰しもたった3年間しか経験できない──を、青春が終わったあとでも続いていく居場所として構築するための生存戦略でもあるのだ。千早がかるた部顧問になるために高校教師を志望するのも、彼女が青春時代に出会った競技かるたと一生付き合っていくための切実な方法論なのである。
・3年目の高校選手権 東京都予選編(~29巻)
2/8水 深夜
ちはやふる29巻まで読んだ。
高校選手権東京都予選の2次予選、vs北央学園戦は、途中から机くん視点になり、2年前に机くんがかるた部へ勧誘されたときに太一にかけられた言葉を反芻するかたちで試合が進み、最終的に、今は退部して別の場所で別の人(周防名人)とかるたをやっている太一の独白「仲間にするなら、畳の上で努力し続けられる奴がいい─」に至る流れが本当に良く出来ている。(瑞沢メンバーが会場を後にするときに畳の部屋に一礼する〆まで完璧)
瑞沢高校が全国出場を決めるのは勝ち数同点での記録上の瀬戸際で、流石にご都合主義感が強いとはいえ、この、机くんと太一のポリフォニー演出がうますぎて許してしまう。
また、最終戦開始時にヒョロくんから千早が言われた「お前は自分より強い奴しか見てないんだもんな。寂しいよ」という言葉を、千早とヒョロくん自身が大会を通して問い直す過程も重要なラインとして組み込まれている。大会閉幕後にヒョロくんが「お前はずっと、強くて孤独なやつのそばに行こうとしてやってたんだもんな、優しいよ。間違ってない」と、訂正できるのも素晴らしいし、「強くて孤独な天才をひとりにさせない」というテーマはまさに綿谷新、若宮詩暢、周防名人という重要キャラ(後ろ2人はラスボス)に関わる、『ちはやふる』の根幹の話である。(また、この前の、”「できない子」にいちばん優しかったのは木梨くんだった” という持田先生の台詞を踏まえると、千早とヒョロは対照的な存在であり、どちらもものすごく優しい人であることがわかる。)
そして、その若宮詩暢が突然お金を貯めてクイーン戦用のオリジナル袴を購入するために、アルバイトに燃える話が、東京都予選と並行して描かれる。
知り合いのコネで入ったパン屋をクビになり、子供らしく泣き喚く詩暢に対して、おばあちゃんは「世界で初めてのかるたのプロになりなさい」と啓示を告げる。
まず、この前の「日本一ってことは、世界一ってことやろ」は、第一話で千早の ”情熱” の発端となった新の言葉のリフレインであり、ある意味で、ここが詩暢にとっての(新しい)かるた人生の始まりでもある。
そして、プロが存在しないマイナー競技である競技かるたという文化そのものが「幼年期」から、やっと独り立ちして一人前の文化になり始めるという、ひとつの競技文化の「青春」ー「人生」を描こうとしているとも取れる。
この意味でも、「かるたが主役」なのだ。
東京都予選で、取ってつけたように、会場にいたサッカー部の学生たちにかるた蔑視の言動をさせて、それをかるた上げに使うという形骸的な演出があり、これは『ちはやふる』の数少ない、容認しがたい点だなあと思っていた。しかし、その少し後に、この詩暢ちゃんの「かるたのプロ」への道という要素が持ち込まれることを踏まえると、別の見方もできる。
マイナーでプロ制度のない競技かるたの未熟さを引き立たせるために、世間でもっとも知名度がありプロ制度も当然充実しているスポーツの代表格をサラッと登場させておいたのかもしれない。
(かるたとサッカーといえば、真島太一である……)
周防名人は最強だけど、「プロ」になる意志も資格も能力もない。世界で初めてのかるたのプロを目指さなければならないのは、確かにあくまで詩暢ちゃんしかいない。
周防さんが練習中に太一にボソッといった「天才」についての考えは興味深い。「火がつくまでの早さで決まる。火の強さや、燃え続けられる時間を保証はしない」という後半。「天才は、火がつくまでは早いけど燃え尽きるのも早い」と言ってはいないところがポイントだと思った。詩暢ちゃんは長く燃え続けられる天才で、周防さんは違う。いろんな天才、才能、運命がある。
太一が辞めてからの千早は、本当によく泣く。泣いて泣いて、泣きながら前を向く。その表情のうつくしさに、千早が好きだなあと思う。
太一が辞めて絶不調の千早に、本気で何度も試合をしてあげる原田先生がマジで優しくて、いい師匠で泣ける。千早が惚れるのも無理はない。
太一がかるた部を辞めたと聞いて、「まつげくん千早ちゃんにフラれたか?」とすぐ原田先生や弘史さんにバレるのも最高。
学生だけじゃない、「大人」もいる物語である厚みが良く出ているから。メインの恋愛ストーリーとしてはとんでもなく大真面目なおおごとでも、その周りの身近に、それを敢えて些細なことのように扱ってくれる大人たちがいる空間のありがたさよ。
「文字はこんなにいらない。一文字でいい」……漫画そのものへの鋭い批評
2/10金 深夜
・東西代表者決定戦〜挑戦者決定戦 決着 / 名人クイーン戦への準備編の始まり(36-40巻)
13期クイーンを務めた渡会さん、『ちはやふる』世界における競技かるたプレイヤー女性の歴代最高のキャラクターが百貨店勤務の接客業というのが、『ちはやふる』(及び末次由紀先生)の世界観・人物観・社会観・女性観を如実に表していると思う。周防永世名人が東大卒の人気塾講師というのもそう。
「盛り上がらない」とか何とか上↑で言ってた3年目の高校選手権編もクソ面白くて常時ボロ泣きしながら読んでしまったんだけど、『ちはやふる』の長いストーリーのなかで、唯一、ちょっとダレると感じるのは3年目の東西代表者決定戦(東日本予選)かなぁ。準決勝で太一が須藤さんと、千早が山城理音とあたって、「絶体絶命」に──という展開があるのだけれど、流石に茶番というか、どうせ勝つんやろと思ってしまう。特に理音は、キャラとしてはめっちゃ好きだけど、理音が千早に勝って挑戦者としてクイーン戦に出るとは到底思えない(ワクワクしない)し、千早と同系統の"感じ"の天才タイプなので試合内容が単調になりがち、というのも、過去に何度も戦っているのを描いてきているから食傷気味でもある。
ただ、今回読み返して思ったのは、太一を明確に「敵(ヒール)」として位置付けるとともに、それに対応するかたちで須藤さんをいわば東日本予選の名人戦(男子)側の「主人公(ヒーロー)」として描いていたんだな、ということ。千早と練習相手になって、実は誰よりも(太一よりも新よりも)お似合いの男女カップルなんじゃ……?という疑いを北央の皆さんにもわれわれ読者にも与え、そして須藤さんの周防名人への愛ゆえの「倒したい」という想い、また、「かるた協会の会長になりたい」という(千早にも劣らぬ)大それた純粋な夢の告白もあり、まさに主人公、正義の味方として描かれていた。もともとは瑞沢高校の、千早の「敵」として立ちはだかった須藤暁人というキャラクターがここにきてこう化けるとは……。それで、最終的には太一の「負けたほうがかるたを辞める」という撹乱の賭けに「勝ったほうはかるたを一生やる」とかぶせて、元来のドS・性格の悪い強敵キャラとしての威厳を見せつけるところが最高。
準決勝のあと、決勝の太一vs原田先生と、千早vs田丸翠はすごく良かった。原田先生が出てきて、太一や千早の「師」として動いているだけでもう絶対に泣いてしまうので……。田丸さんが準決勝った後の「生まれ直したみたいだ」→「そしてまた、何度でも死ぬんだ」も最高。こういうところが末次由紀の凄いところ。
挑戦者決定戦編は、名人戦側の太一vs新は、男子同士の深い関係性が性癖なのでどうあがいても好きなので、問題はクイーン戦の千早vs結川さんのほう。vs理音が正直盛り上がりに欠けたのと同様に、ぽっと出の新キャラがここでクイーン戦に勝ち進んで詩暢ちゃんと対戦しても『ちはやふる』としてはどうにもならないことは皆わかりきっている。作者もそれ(千早が挑戦者になるところまでは既定路線)はわかっているからこそ、クイーン戦予選よりも名人戦予選のほうを重点的にドラマチックに描いたのだろう。ただ、理音戦よりは結川戦のほうが面白かったかな。調子が良すぎて聴こえ過ぎて逆に不利になる、というのは今更やる展開かよと思うけど(実際、だからこそ原田先生があんなに怒っていたのだろうし)、結川さんの「かるたプレイヤーオタク」という設定が良い。歴代の憧れのクイーン達を「神様」だと思って崇拝しているからこそ、千早にとってのラスボスの若宮詩暢でさえ、過去の永世クイーンたちに比べたら格下であると思える、という思考は、『ちはやふる』最終盤に向けての物語の深化に大きく貢献している。すなわち、このことが、千早が挑戦者になって詩暢ちゃんに差し出された手をとったときの "荒野" の見開き、「私はこれまで詩暢ちゃんに勝つためにやってきた。けど違うんだ。1人きりで荒野に立つ詩暢ちゃんを私が救うんだ」という台詞、クイーン戦初の五番勝負の提案──などに繋がる。そして、「世界で初めてのかるたのプロ」になるための若宮詩暢の挑戦を、挑戦者になれなかった結川さんが強力にサポートする立場になる、というのも、彼女のキャラクター設定に見事に合致していて素晴らしい。
・周防さんいいキャラ過ぎる。太一と周防さん、須藤さんと周防さん、新と周防さん、千早と周防さん、詩暢ちゃんと周防さん……誰とくっつけても魅力的な立ち回りが出来るし、加えて真島母と周防さんのスイーツ店での会話のシーンがめちゃくちゃ好き。太一のお母さんが「失礼ですね。私が頑張りを見てほしい人は"2人"です」とちゃんと言い切るのも良いし、それが太一の「頑張りを見てほしい人」へも鮮やかに繋がるのがめっちゃ末次節でいい。
・『ちはやふる』のジェンダー・保守思想について
北央1年の美馬くんの古き悪き「BL好き」なキャラクター設定は流石にもう時代に許されないと思う。4期がアニメ化するときに原作そのままだったら燃えるだろうな〜〜。
『ちはやふる』、めちゃくちゃ保守的な作品だからな〜〜 まぁ小倉百人一首・短歌(和歌)を題材にした話が保守的じゃなかったら何なんって話だけど。末次由紀のパーソナリティが濃く現れている。クイーン戦も名人戦と対等に五番勝負にする、という点は(ある種の)フェミニズム的だが、そもそも競技かるたが男女二元論に強く縛られていることは動かし難く、クィアでは到底ない。挑戦者決定戦の2試合目直前に、「女子」が息苦しい「男子」(太一と新)を励ますために大きく窓を全開にして雪まじりの空気の入れ替えをするくだりなど、とてもドラマチックかつ美しい良い場面だと思う一方で、「女子は元気だな〜」というモブおじさんの台詞など、根底にある、古典的な女性差別に思いを馳せてしまう。(成人した女性を「女子」「お嬢さん」などとあえて幼い呼び方をして、しかもそれがさも女性に「配慮してやっている」という思考によって成される暴力性/差別性。)
また、ジェンダーだけではなく、個人的にもっとも反発したくなるのは、やはり家族主義・生殖規範である。我が子が挑戦者決定戦で死闘を繰り広げるのを見守る千早母と太一母に、大江母が歌を引いてかけた言葉「あの子たちがいずれ親にならないと、私たち親の気持ちはわからないでしょうね……」など、「親」になって「子」を産み育てることが「大人」として当然踏むべき成長段階であると前提されている思想が恐ろしい。実際に子育て経験のある女性漫画家のパーソナリティが出ている。大江母といえば、「妊娠がわかった瞬間に世界のまわりのものが光って見えた」という、妊娠礼賛・「母親」礼賛系の描写で持ち出されることが多いキャラクターであるが、それも彼女の、呉服屋の敏腕経営者という「家業」に照らし合わせれば必然といえよう。
ていうか、妊娠出産子育てを経験した/している「母親」を礼賛する思想と、BL(男性の同性愛)を戯画的に差別的に描く側面をともに持ち合わせていることは完全に筋が通ってるな。「生殖」に繋がらない恋愛関係を異質なものとして周縁化・排除することで、生殖規範を守ろうとしているってことだよなぁ。いっぽうで、「母親」礼賛は女性のエンパワメントと重なるところが多いため、女性同士の深い絆・シスターフッド的なものは肯定的に描かれる。千早-詩暢ちゃん、千早-かなちゃん、桜沢先生-猪熊さん、逢坂恵-夕部さんetc.. いやもちろん、挑戦者決定戦とかで男(男子)同士の強い結び付きも魅力的に描かれてはいるんだけど。ただ、恋愛/性愛の色を帯びたものが言及されるかされないか、という点で男女差はやはりあると思う。レズビアンのキャラクターは『ちはやふる』にいるだろうか? おそらく末次由紀の思想的に、「女性」の強さ/美しさは本質的に「母になる/であること」と切り離せないので、逆に今後の作品で明確なレズビアンの人物を登場させてくれたら素晴らしいと思う。
また、〈母親〉肯定の思想が強いのと対照的に、父親はどう描かれているだろうか。千早の「パパ」、新の父さん、猪熊さんの夫……彼らは皆、パートナーの女性よりも影が薄く、また父権的な抑圧者としての印象はきわめて薄い。「去勢」された〈父〉──とか言ってみたくなるところだ。既婚者の男性キャラでもっとも重要な人物は確実に原田先生だろうが、原田先生の子供がまったく描かれない(子供がいるのかさえ分からない)ことは象徴的だ。そもそも妻さえ、原田先生の名人戦当日にようやく登場したくらいだ。
千早や太一のかるたの「先生」「師匠」であり、作品にとっての〈父親〉的な存在である原田先生に子供がいるのかどうかすら分からないのは、もちろん、実際の子供を描いてしまうと、千早たちが原田先生との精神的な親子関係から疎外されてしまうから、というのが大きいだろう。
ただ、別の見方をすると、既婚者の女性は常に「子供」との関係において描かれなければならないのに対して、既婚者の男性は「子供」の存在を抹消するか、もしくは自分自身が影の薄い「夫」になるかの二択である……というのは、『ちはやふる』のジェンダー的特徴をよくあらわしている。
「夫」に「子供」の影が薄いということは、要するに男性の生殖機能、ペニス/ファルス、勃起/射精といった要素が作品からオミットされているということだ。『ちはやふる』に出てくる既婚の男のキャラクターはみな、性欲が感じられない。原田先生が小児科医であることはまさに、といった感だ。(小児科の先生の「性欲」の存在を少しでも仄めかすことは危ういので。)
──結婚していない大人の男のキャラならば、福井の新がバイトしていた書店の店長は「スケベ」なキャラクターとして設計されていた。また、成人はまだしていない(18〜19歳)だろうが、富士崎高校の前主将・エロムも性欲の権化として造形されている。ただ、彼ら性欲を前面に押し出したキャラクターは総じてモテない。いや、エロム先輩は部の後輩女子から普通に恋愛的に人気があったらしいけど、大学生になってもモテてないと巻末おまけコーナーで書かれていた。
性欲のある男キャラは「恋愛」のフィールドに立つ資格がない、という価値観はとても少女漫画的かもしれない。少年漫画では正反対だろう。それとも、女性作家/男性作家の違い? 少年(ジャンプ)漫画でも『ハイキュー!!』の主人公:日向翔陽とか、『鬼滅の刃』の主人公:竈門炭治郎とかは、あまり性欲が露骨に描かれない、ピュアな好青年/少年の造形だ。これは「女性」の理想の男子像ということ? (作家の性別で雑な作品論をぶつ行為は唾棄すべきだ、ほんとうに。。。)
~~コピペおわり~~
なんかジェンダー/保守思想の読解で尻切れトンボ的にメモが終わっているので収まりが悪いですね…… 終盤10巻の感想がまったく抜け落ちているし。
というわけで、書き下ろし(?)でちょっと書きます。
・最終巻/最終話の結末について
なんやかんやでいちばん話が盛り上がるのは結局これについてでしょう。『ちはやふる』は競技かるたというスポーツを題材にした青春スポ根マンガである当時に、やっぱり本質的には三角関係のヘテロ恋愛を扱った王道の少女マンガなのですから。
……はい、最終話を読んで、驚かなかったといえば嘘になります。でも、「嬉しい」とか逆に「(解釈違いで)悲しい」とか「困惑」というよりも、もっとニュートラルな「そうか~マジか~」といった感情でした/です。ちょうど太一が、さいしょ千早の言葉を理解するのに少し時間がかかって、「え、今さら?」とまず口走ったように。
新派か太一派か、という図式でいえば、言うまでもなく、断然わたしは太一派です。『あの夏で待ってる』ではイチカ派ではなく柑菜派、『凪のあすから』では美海派ではなくまなか派、『WHITE ALBUM2』ではかずさ派ではなく雪菜派、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』ではゼロツー派ではなくイチゴ派であるわたしにとって、これは本当に「言うまでもない」ことです。決して新が嫌いなわけではありません(『ちはやふる』で嫌いなキャラがいるはずもありません)。ただ、真島太一のような不憫幼馴染器用貧乏枠のキャラ(しばしば「負けヒロイン」と名指されることもありますが、これはシスヘテロ男性オタク中心主義的で性差別的な概念なのでわたしは与したくありません)がどうしようもなく好きなだけです。というか、こうしたわたしの性癖を幼い頃にかたちづくった元凶の作品こそ『ちはやふる』である可能性が非常に高いです。
なんの話でしたっけ? ・・・そうそう、そんな「推し」の太一が最後の最後で大逆転勝利を収める──という結末に、「嬉しい」でも「悲しい」でもなく、ただ「そうか~」という反応をした、という話でした。その理由は何よりもまず、千早がどちらとくっつくのか、という恋愛関係の結末よりも、そもそも『ちはやふる』という自分にとってあまりにも大きな存在の作品が終わってしまう、という事実こそがいちばん重大であり、それを受け止めることに感情のリソースを割いていたためです。三角関係の決着よりも、『ちはやふる』という作品じたいが終了してしまうことがとてつもなく哀しく、感慨深く、感動的であるのです。・・・それはそうでしょう?? だから、やっぱり最終話を読んだあとにまず出てきた感想は「末次先生、15年間お疲れさまでした。ありがとうございました」しかあり得ないのです。ラストの内容に納得がいくかどうか、というのは、それに比べれば些細なこと、二の次です。これはラストの展開の擁護ではありません。長らくこの作品を追ってきたいち読者の率直な反応の報告です。
以上のことをしっかり強調したうえで、ようやく内容への言及ができます。まず、「太一派」であるわたしは、べつに千早と太一が結ばれてほしいとは特に思っていなかった、というのが正直なところです。「結ばれてほしくない」のでもなく、そもそも千早と太一が結ばれるとは思っておらず、太一は三角関係においてフラれて(「敗北して」)しまうポジションのキャラクターとして、ものすごく魅力的で大好きでした(今も好きです)。
じゃあ、「太一はフラれてこそ太一! 恋が実ってしまうなんて解釈違い!」と憤るかといえば、そうでもありません。マジか~おめでとう太一~~とは人並みには思いますが、太一が千早と付き合えようが付き合えまいが、太一のことは今までもこれからも大好きだし、『ちはやふる』も大好きだしな……と、やはりどこか他人事のような反応になってしまいます。↑での長いメモ中でも、太一を恋愛において「敗者」のキャラクターとして位置付けて考えていましたし、最後の最後で大逆転を起こそうが起こしまいが、そういうこれまでの太一の理解が間違っていたとも思いません。
後だしになりますが、最終巻を読む前から、正直、わたしのなかで、最終的に千早が新と太一のどちらを選ぶのか(あるいは2人とも選ばないのか)、という恋愛三角関係のひとまずの「結末」はどうでもよくなっていたのかもしれません。それは、何度も繰り返すように、『ちはやふる』が終わってしまうこと自体のほうがわたしにとってずっと重大な問題であったというのもそうだし、15年も読み続けてきて、今さら最後に千早がどっちとくっつくかで一喜一憂するようなファンでいたくない、『ちはやふる』に対して自分はそういう向き合い方をする読者ではいたくない、という(奇妙な?)感覚があったようにも思います。(一喜一憂している読者をどうこう言うわけではなく、あくまで個人的な次元の話です。) むろん、この感覚は、「最終話で受け入れがたい展開になったときにショックを受けるのが怖い」という感情の裏返しであり、それを見越したうえでの予防線・自己防衛戦略といえます。具体的に、どんな展開ならショックを受けると想像していたのかは今となっては定かではありませんが、とりあえず予定調和的に新と千早が結ばれても受け入れて祝福する準備はもちろんしていました。だからこそ、太一エンドになって逆に「えっ、そっち!?」とびっくりして喜びも出来なかったのかもしれません。
いま「太一エンド」という表現をしましたが、確かに、わたしの最終的な感覚としては、分岐式の恋愛ノベルゲームみたいだ、と思っています。先ほども名前を出した、成人向け恋愛ノベルゲームの傑作『WHITE ALBUM2』を2年前にプレイして、『ちはやふる』との類似性を指摘しまくりました。
現在のわたしは(『ちはやふる』を読み始めた中学生のわたしと違って)『WHITE ALBUM 2』をプレイしたという経験を経ているがために、男女反転しただけでほぼ同じ構図の三角関係モノである『ちはやふる』に関しても、「新エンド」と「太一エンド」の2ルートが潜在的に存在し、どちらがTrueエンドということはなく、並列している、という認識(妄想)が頭の中で出来上がっています。だから、いざ『ちはやふる』最終巻を読んだところで、「太一エンドやった~~!」とかではなくて、「なるほど。この世界線ではたまたま太一エンドになったわけね。そっちのパターンか」という受け止め方をしているのです。正直、新エンドでも、太一エンドでも、どっちでも『ちはやふる』は終わらせられるような構造になっていると思います。最終的に千早がどちらを選ぶか、というのは、ノベルゲームで我々プレイヤーがどちらのルートを選ぶか、くらいの些細な問題であったのだなぁ……と今は思っています。『WHITE ALBUM 2』が、かずさエンドと雪菜エンドを並列させて、どちらがTrueエンド(”正史”)なのか決めなかったのが、日和っているとか「逃げ」だとは滅多に言われないように、『ちはやふる』も、恋愛三角関係モノとしての決着が並列でも、作品の出来を落とすことには繋がらないと考えています。・・・いや、『ちはやふる』はノベルゲームではないので、ちゃんと1つの正史を選び取って描き切って終わったので、こういうことを言うのは変なのですが・・・。逆にこういうこと(並列エンド説)を思ってしまうのは、最終回の結末の「強度」が不十分だったからではないか?と言われたら、まぁ強くは言い返せないのですが、わたしにとって『ちはやふる』はあまりにも大きな作品なので(ようは"信者"なので)、「『ちはやふる』は必ずしも三角関係恋愛モノとしての強度が最後まで求められる作品ではない」的なあからさまに苦しい擁護をどうしても生成せざるを得ないのですよね・・・。
なんかネガティブな感じになっちゃいましたが、本当に、わたし自身はこの結末を「ホワルバ2の雪菜エンドやなぁ。末次由紀先生も雪菜派だったんか~」というフラットな(?)感触で受け止めており、著しく喜ぶとか悲しむとか疑問に思うとか感動するとかは今のところありませんし、それで満足しています。
ただ、太一エンドはいいとして、そのあとのフラれてしまった新の描写があっさり過ぎるのは流石に新がかわいそう・・・と思いました。最終話でページ数の制約がギチギチだとはいえ、あれじゃあ新エンドを信じてずっと追ってきたひとはショックだろうなぁと気の毒には思います。どうなんだろう、新はあれでいて結構ドライというか大人なところがあるから、自分がフラれた場合のこともずっと考えて(「イメージ」して)きたのかな……だからあんなにあっさりと受け入れてしまえるのかな…… ここらへんは新ガチ勢の読者の考察(それはほとんど怨念めいたものになるでしょう)に任せます。
(遠距離)恋愛と、「攻めがるた」を重ねた比喩表現として、作中で千早は「わたしは攻めがるただから 手に入れたいものほど手放すの 必ず取ると勝負に出るの」という思想を宣言します。これは、当初は福井という遠くにいる新への想いを暗に示したものとして解釈してきましたが、最終的な結末を考えると、むしろ、50巻のほぼ真ん中(26巻)でふって、自分の元を離れた太一に千早が惹かれるようになることを暗示していたようにも取れます。というか、太一はこの千早の性質を理解したうえで、あえて(あるいは無意識に)かるた部を辞めて千早から遠ざかって周防さんに弟子入りし、大学も東京ではなく京都にした節はあるのかもしれません。(いや、太一は「千早への想いが次第に薄れていくと思う」と発言しており、実際、こうした行動は千早の気を惹くためでは決してなく、単純に千早から脱却して自分の人生を歩み始めようとしていたがためだと思われますが、それがかえって千早の気をひいてしまった、という何とも言えないオチ。要するに綾瀬千早は、「思い通りにならない」ひじょ~~に面倒くさい人間ということですね。まぁそこが魅力的なんですが。)
・そのほか
・45巻
九頭竜さんが好きすぎる。千歳姉ちゃんと太一のやり取りが良すぎる。
大長編マンガのラストを締めくくる五番勝負のクイーン/名人戦を単行本10巻近くかけて描くのは普通に考えて途方もなく困難な、それこそ「不尽の高嶺」の荒野を歩むような挑戦だろう。そこで、読手や大盤係、観戦者、審判といった、試合をしている4人を取り巻く人物たちの物語を多分に導入して進めていく手法を選択し、それにまんまと泣かされている。そしてこの巻の最後で、そういう「周りの人に支えられてここまで来た」さまを千早のかるたそのもので直接に回収する展開、神
・49巻
「お願い だれも 息をしないで」という、連載開始第1話の最初のモノローグが遂に回収された。競技かるたに出会った小6の頃の千早だけでなく、『ちはやふる』を読み始めて競技かるたを始めた中3の頃の自分までをも「迎えに来」てもらえた気がした。ありがとう・・・。(ちなみに、アニメの第1話ではこの漫画冒頭のクイーン戦シーンがカットされている(高校入学時のかるた部チラシ掲示シーンから始まっている)ので、遠い未来にアニメでここをやる場合はそのままだと感動が薄れてしまうとは思う。)
・50巻
千歳と千早の姉妹関係、なんやかんやで激エモなんだよな・・・。「自分のがんばりを認めてもらいたいたったひとり」をここで被せてくる。お姉ちゃんがモデルとして活躍するのが自分の夢だった小学生の千早が、新にであって、本当の自分の夢をもって努力してここまで来た・・・その軌跡に泣ける。
最後の運命戦での勝負を決めた(千早と新に勝利をもたらした)人物/札が太一(「立ち別れ」の札)であったことはいろいろと考えさせられる。もちろん、この瞬間に、恋愛での太一の勝利も確定したのだとも読めるし、あと↑で書いていた、第一部「青春」のピークが富士崎との太一の運命戦であったことを踏まえると、第二部もまったく同じかたちで(しかし競技者として勝負に臨む人物/それを傍らで見守る人物の配置は入れ替えたうえで)幕を下ろした、といえるか。逆に読まれなかった「瀬をはやみ」の歌の、『ちはやふる』でのこれまでの意味合いなどももう一度ちゃんど読み返して考えたい。
《これまでに書いた、『ちはやふる』や競技かるたに関するnote》