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映画感想『泣きたい私は猫をかぶる』 酷評と絶賛よくばりセット


※ネタバレ・未整理ちゅうい


面白くない。

ストーリーも微妙ながら、演出というかテンポというか、全体的なノリがすごく低年齢向けっぽい。
効果音やモノローグの演出が悪く言えば露骨、良く言えば親切で、話の流れやキャラの心情を全部言ってくれる。

背景美術は素晴らしいが、作画は全体的に肌に合わなかった。
高水準をずっと保っていた気がするが、メリハリに欠けるというか、観てて「おおっ!」となるカットが全く無かった。


「むげ」の100%恋愛脳には「めっちゃマリーだな〜」と嬉しくなり、初めから完全に恋愛感情がハッキリしていてかつ積極的にアタックしているというのは、「私達の関係は恋なんかじゃない」的な、性欲を不自然に排除した自己陶酔テンプレ青春モノに比べてよっぽど良い!と好印象だったが、話が進むにつれてものすごくありきたりでつまらない恋愛モノになっていった。(まぁ中盤で大振られした時点でハッピーエンドは決まっていたようなものだけど)

クライマックスの猫島のくだりも、本当にこれをクライマックスのつもりでやっているのかと正気を疑うほど盛り上がらない。
結局、山寺宏一の仮面屋は元人間猫ズにあっけなく都合よく倒されるし。

親友のヨリちゃんだけが救い。海辺の回想シーンの「私はむげのこといる〜」はとても良かった。逆にヨリちゃんのこと好きにならないオタクいんの?

新しいママ(薫さん)とその愛猫が絡んでくるところは面白くなりそうだったが、こっちも結局すぐに人間に戻りたいとなっちゃうし…。

全体的に、とても低年齢向けの作品であった。
しかし子供が観て面白いのかもわからん。どの層狙い?ヨルシカファンの小中高生?

マリーもこんな脚本書くんだな……どこまで監督や他の手が介入しているか分からないが。(自分の推しを守ろうと都合良く解釈しようとする無様なオタク)


というか本当にこれを劇場公開するつもりだったのだろうか。
主題歌と挿入歌に加え、「エンドソング」までヨルシカが流れていたけれど。
尺調整感がすごい。

エンドロール中のイラストにご丁寧にフキダシを入れて全部を語ってしまうのが本当に低年齢向けって感じ。


脚本岡田麿里、主題歌ヨルシカ、そして制作は今度『Burn The Witch』の劇場版をやるスタジオコロリドと、ピンポイントで自分が狙われているかのような布陣にネトフリ加入までして観たが、個人的には残念な出来だった。



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酷評だけでは心許ないので、もうひとりのいけすかないオタクの感想を併記してお茶を濁しておきます。(許可はとってある)



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子どもは子どもでええんやで ―やっと登場したニュータウン文学?―

「泣きたい私は猫をかぶる」観た。これはいい……実にいい。こんなに好みだとは思ってなかった。岡田磨里のことは空青を劇場まで観に行ったのを少し後悔するくらいには興味が薄れてたし、セラムンおジャ魔女でならしたスタッフと聞いてそそられるほど僕は目利きではないし、スタジオコロリドははなからぜんぜん興味がなかったしで、猫をかぶるのことなんざほとんどノーマークで、正直今日の今日まで存在を忘れてたんだけど……観てみると、なんだこれは、えらい僕好みの映画じゃあないか。単に僕の好みだというだけじゃなく、売り出すところに売り出せば固定ファンもつくだろう。ただ、どこで売り出すのが正しいのかを考えるのはかーなーり難しそうだが。

この映画はどんな話だったんだろう。僕の解釈では、この映画はおおざっぱに言うと「子どもが子どもになる話」だ。

この映画の最初の方(そして割とあとの方まで)は、笑って過ごせる日常の中に、声を荒げるほどでもない小さなぎくしゃくが紛れ込んでいるような雰囲気で進んでいく(僕はこういう「はっきりと何かが起こるわけではないがぎくしゃくしてる時間」がかなり好きだ)。おだやかな時間のなかにわずかに張られた緊張の糸をたどって、僕たち観客は象徴的な事物を探す。

あまりに意味深な絵本プッシュは、心の中に子どもを残したまま体だけ成長してしまった悲哀みたいなものの象徴である可能性がある。でもまだはっきりしないので保留。猫の仮面をかぶっているといずれ猫になる、というロジックは、子どもは大人になるか猫になるかを自分で選ばなければいけない、という使命みたいなものの象徴である可能性がある。でもこれもはっきりしないので保留。

頼子さんは泣き出し、カオルさんはビンタをかまして、それでも不思議と大事件にはならないまま、物語は進み続ける。フシギが不思議のまま日常が続くと、絵本にも仮面にもそうややこしくて危険なモティーフは込められていないんじゃないかと思い始める。僕は、象徴的なアイテムや設定の中に深刻でシリアスなものを期待しすぎていたのだろう。

思えばこの映画はテンションが上がりすぎることを慎重に避け続けていた。アニメ映画にはおなじみの「挿入歌フェイズ」はなにか微妙に外した使い方だし、いかにも盛り上がりそうなアクションシーンに入ると、テレビアニメをほうふつとさせるような少しだけスケール観の小さいBGMが流れ始めるし、もっと大ピンチの局面になるともうBGMを止めてしまったりする。この映画は、「でかい事件が起きて奇跡的に解決する」話にはなりたがっていない。命が危なくなっても、どこか深刻になりきらず、雰囲気はいたって軽やかだ。

やがて、猫特有の自由さによって、変身のトリックはあっさりと日之出にばらされ、物語はかくりよでの最終局面へと移行する。かくりよでムゲに状況説明をしてくれる猫たちは元人間で、ムゲに人間に戻るように強く説得するが、自分たちが猫であることにはいっこうに悲壮感は感じられない。どうもこの映画は、人間でなく猫を選ぶ未来にしても、そこまで悲観的にはとらえていない。少なくとも、自由な猫の位祖選んだ者たちに対して愛情がある。

妙にのんびりしたアクションの末、最後は猫たち、いや「なんだかんだどこかで見守ってくれている大人たち」の助けが来て、ムゲと日之出の運命は万事いい感じになる。再開したわき役たちが、どうやら画面に映らないところでそれぞれの恋愛模様を進めて、知らないうちにそれぞれの結末を迎えていたりするところなんて、実に中学生的でいいよなあと思う。中学生の頃目に映る世界っていうのはこういうものだ。他人の恋は知らないうちに進行している。知らないうちに進行している他人の恋の経過が妙にいとおしかったりする。これは子どもの世界だなあ。

どうも、これまでの大作アニメ映画では、子どもというものを病気か何かと思っているやつが多かったような気がする。

宮崎駿:ちょっと子どもというものに純真さを求めすぎるきらいがある。あと、御大自身若いころは苦労したので、「労働する子ども」賛美が強い。

富野由悠季 :大人が作った悪い世界を壊してくれる救世主として子どもに過剰な期待を乗せている。だから作品によってはサイコパス少年少女が大量に出てくる。

庵野秀明:子どもというものは大人との関係の中で常に苦しんでいる、根源的メンヘラとされる。ラカン的に言えば「人類みな精神病」みたいなところあるもんね、仕方ないよね。

核家族化でもなんでもいい、社会構造の変化が進むと、新しい子どもが出現してきて、大人は子どもを理解できなくなっていく。旧い時代の人間は、「中身は子どものまま体が大人になってしまうこと」とか「体が子供のまま中身が大人になってしまうこと」とかあるいは「子どもであること」をめちゃくちゃ怖がっていて、大人の描いた物語の中では子どもと大人は対決しなければならなくなったりする。

しかし、当たり前のようにニュータウンに生まれ育った子供たちのなかには、もっと違った哲学があるはずだ。子どもと大人は必ずしも対決しなくていい。「子どもと大人は違うよね」という単純な認識まで頭を戻してみよう。

果たして、「泣きたい私は猫をかぶる」では子どもと大人はどんな関係にあったのか。まず、子どもだから無邪気だとは限らない。ムゲが自分でもよくわからない怒りを爆発させなければいけなかったように、子どもは子どもでしんどいのだ。では大人はどうか。もちろん大人もしんどい。カオルさんはどう見てもしんどい毎日を送っているし、派手な原チャリに乗っちゃうお母さんだって、あれはあれでいろんなものに縛られた人間だ。そして、この映画の中で、「子どもはいつか大人になる」というようなモチーフは実は描かれない(僕の観た限り)。子どもはべつに今すぐ大人になる必要はなく、子どものままでいいのだ。ピンチになったらいつでも大人が助けに行くしね。

つまり、この映画では、「子どもであること」は決して病気扱いはされない。子どもは子どもらしく生きているだけで健全だし、大人が子供の純真さに過度な期待を寄せることもない。ついでに言うと大人も大人らしく生きていて健全だ。

一見いかにも特殊に見える「親の再婚」という状況も、この映画からすると、存外に普通のこととして扱われていたんじゃないかと思う。ムゲからしても、正直たまったもんじゃないとは思いつつも、それがものすごく特殊な状況だとは思っていなかっただろう。実際にその状況下で暮らしてきた子どもからすれば、「まあなくはない」環境であり、その環境がすべてなのだ。

「そこで生きてきた子供たちにとっては存外普通で存外健康な世界観」この世界観が唯一の解答であるなどとは僕も言うつもりはない。ただ、ニュータウンで育った子供たちが、いつか語られるのを待っていた物語のひとつだったのではないかなあと思う。こういった世界観は、大作アニメ映画としては、これまでありそうでなかった(いや、あるいは「猫の恩返し」や「耳をすませば」がそうだったのかもしれないけれど……)。だからこの映画はうまくいけば固定ファンがたくさんつくと思うし、ついてほしいなとも思う。時代が時代ならジブリに夢中になってたような10代女子が狙い目。

でもこの映画をターゲットまで届けるのはかなり難しそうだ。スタジオコロリドの絵というのは、この映画に関しては、目指しているものにぴったりの技法を使っていてかなり素敵だと思うんだけど、一般的な観客が大作アニメ映画に求めているタイプの絵では全然ない。キャスティングに関しては、声優たちはちょっと安パイが過ぎる(例えるなら、「マジックツリーハウス」とか「若おかみは小学生!」を作ってるときみたいなキャスティングになってしまっている。微妙にターゲットを外している)。非声優のキャスティングはかなりいい線をついてるように思うんだけど、コロナ影響下のネトフリ配信になってしまっては、せっかくの芸能人キャストの宣伝効果はほぼないようなものだ。たぶん令和版「猫の恩返し」がこの映画の一番狙うべきラインなんだろうと思うけど、この映画にはジブリほどのブランド力はない。そしてジブリほどのブランド力を持っているスタジオなんてもう日本のどこにもない。

この映画には、うっかり「ターゲット層を間違えた映画」のまま埋もれたりしないでほしいと思う。






『泣き猫』とは2人の評価が真逆な映画


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