アスノヨゾラ哨戒班の歌詞で一番好きな一文字
本日8月19日20時37分をもって、アスノヨゾラ哨戒班は投稿5周年を迎えました。
(Youtubeには後日投稿なので、ニコニコ動画上での換算)
5周年かぁ…筆者がこの曲を知ったのは投稿から1年以上経ってからのことなので正確にこの5年間をこの曲とともに過ごしてきたわけではありませんが、それでも感慨深いものです。
Twitterではしばしば「古のオタクに刺さる曲〜」などとして黎明期のボカロ曲を載せたツイートがバズったりしますが、あと数年もしたらアスノヨゾラやウミユリ海底譚、ECHO、ビビカセあたりもこのラインナップに駆り出されるのでしょう。逆にまだまだ現役で聴かれ続けている限りは大丈夫ということですね。
さて、筆者はこれまでもOrangestarやアスノヨゾラ哨戒班についてのnoteをいくつも書いてきました。
ちょうど1年前、北海道旅行中に4周年記念として書いたものがこちら↓
こちらはアスノヨゾラの歌詞に「て」が多く含まれることに注目したものです。
また以下のnoteでは、この曲に出会った当初、いかに詞へ自己投影をしていたかという黒歴史を取り繕いながら綴っています。
つまり、少なくとも2度、アスノヨゾラ哨戒班の歌詞について語っているわけですが、まだまだいけます。
今回は、アスノヨゾラ哨戒班の歌詞のなかでいちばんすきな部分──いちばんすきな1文字──について語ってみようと思います。
もったいぶる必要もないのでさっそく発表します。
わたしが「アスノヨゾラ哨戒班」の詞でいちばん好きな1文字は…
2番サビ冒頭
また明日の夜に 逢いに行こうと思うが
の「思うが」の
『が』
です。
(ここで全世界のアスノヨゾラファンからの「分かる〜」「それな〜〜〜」の声、拍手喝采、スタンディングオベーションが起こる)
・・・えっ!?分からない!?
仕方ないので説明しましょう。と言っても説明するのはむずかしく、
「ここの『が』、なんか知らんけどめっちゃ好きだ」という感情がまずあり、その感情が自分の中で発生している仕組みを後付けで考察しているだけです。
神は「ここすき」と言われた。
すると「すき」があった。
と『創世記』第1章第3節にもあるように(ない)、現象というのは神を持ち出さない限りは常に理由に先立ちます。感情の発露というのも物質世界で起こるひとつの現象に過ぎませんから、「好き」の理由を求めるのはその名の通り"求める"行為、本質的に後付けのものでしかありません。
しかし、後付けだからといって好きな理由を分析する意味がないわけではありません。言葉によって感情を解きほぐすことで、自分でも見えていなかった感情の一面が明らかになり、より豊かな「すき」へと昇華させることができるのです。そうして新しく生まれ変わった「すき」も現象でしかありませんが、もとの現象よりも一歩豊かになっているという点において、価値は大いにあります。
閑話休題。
「また明日の夜に 逢いに行こうと思うが」の『が』が好きだ、という話でした。
ここは2度目のサビ冒頭ということで、曲全体のなかでもいちばん盛り上がる部分になります。
なぜ「が」の1文字がそんなにピンポイントで好きかと言えば、
・歌詞の流れとしてここの文節末に「が」が来るのに少し違和感を覚える
・それでも歌のリズム的にはこの「が」でしかあり得ないようなドンピシャなハマり方をしていると感じる
からです。つまりは「違和感と納得感が同時に感じられる」のです。サカナクションの山口一郎氏が言うところの「よい違和感」という観念に近いかもしれません。
ひとつずつ説明します。
①なぜ違和感?
ここでの「が」は接続助詞です。接続助詞はこの後に来る文との橋渡しを担っているため、後の歌詞もまとめて表記しましょう。
また明日の夜に 逢いに行こうと思うが
どうかな君はいないかな
つまり、「また明日の夜に逢いに行こうと思う」という文と「どうかな君はいないかな」という文を「が」は繋いでいるわけですね。
さて、このような接続助詞の「が」には大きく分けて3つの用法があるようです。
(引用元:国語の文法 主な接続助詞の用法)
まず、ここでの「が」は並立の関係を表すものではないでしょう。すると1番目の「確定の逆接」か2番目「単純な接続」のどちらかになりますが、どちらなのか判断するのが結構むずかしい。
「(君に)逢いに行く」ということから当然「君」がそこに「いる」ことが予想されるにもかかわらず「君はいないかな」と続くため、確定の逆接のような感じがしますが、そもそも「逢いに行く」ことは確定しておらず思っているだけであり、しかも「君はいない」のも確定事項ではなく「君はいない"かな"」と思いを馳せ心配しているだけです。
したがって、専門家でもなんでもない筆者が判断するに、ここでの「が」は逆接っぽくみえて「単純な接続」を表す接続助詞です。そういうことにしましょう。
というか、そもそもこの2つの用例(逆接と単純接続)の間にはゆるやかな連続性があり、バシッと明確に区分けができないということが専門家からも指摘されているようです。※リンク先PDF注意↓
(参考:山下直『接続助詞「が」の機能分析 ──文法学習の観点から──』)
少し専門的な話になってしまいましたが、ここでの目的は「が」の文法上の用法を厳密に明らかにすることではなく、あくまで違和感の正体を説明することです。
さて、接続助詞「が」は、「けれど」「けど」等の接続助詞と置き換えが可能です。じっさい、
また明日の夜に 逢いに行こうと思うけれど
どうかな君はいないかな
や
また明日の夜に 逢いに行こうと思うけど
どうかな君はいないかな
という風に「が」を置き換えても、歌のリズムを度外視すれば「文章としては」違和感がありません。というか、むしろこちらのほうがしっくりくるのではないでしょうか。その理由は、話し言葉(口語)と書き言葉(文章語)のどちらに合うか、という性質の違いに起因すると思われます。
「けれども」は、「が」と用法上の違いはなく、ほとんどの場合言い換えが可能である(中略)。話し言葉で「けれども」を用いるほうが丁寧な感じを与えるという程度に過ぎない。一方、文章語としては「けれども」よりも「が」を用いることが多い。なお、「けれども」は「けれど」「けども」「けど」の形でも用いられるが、この順で丁寧さが薄れ、特に後の二つはくだけた話し言葉でしか用いられない。
(参考:goo辞書 出典『類語例解辞典』小学館)
ここで問題になってくるのは、曲の歌詞は話し言葉か書き言葉か、ということです。一般的に考え出すときりがないため、あくまで『アスノヨゾラ哨戒班』の歌詞は話し言葉と書き言葉のどちらに近いか、に焦点を絞ります。
すると、多くのひとが「話し言葉に近い」と答えるのではないでしょうか。
「叶えたい未来も無くて 夢に描かれるのを待ってた」
「忘れてないさ 思い出せるように仕舞ってるの」
これらの部分を見れば分かるとおり、この曲の詞は比較的くだけた口語調(独白調)で綴られています。もう少し書き言葉に近づけようと思えば
「叶えたい未来も無く 夢に描かれることを待っていた」
「忘れていない 思い出せるように仕舞っている」
のように丁寧にすることが可能です。元々の「〜てた」「〜さ」「〜(する)の」といった語尾は、この詞の語り手が親しい間柄の他者、あるいは自分自身に向けて心情を吐露していることの表れでしょう。
また、そもそも
「気分次第です僕は 敵を選んで戦う少年」
と唄っているように、この語り手は「少年」なのです。
では、こうした少年による口語調の詞において、問題となっている「逢いに行こうと思う"が"」はふさわしいか。
筆者にとっては「思うけど」や「思うけれど」のほうがしっくりきます。
というのも、特に若者の話し言葉でこのような「が」ってあまり使わない気がするのです。
「今日予定空いてる?」
「んー、ヒマだけど」
と言う会話で、「んー、ヒマだが」と置き換えると違和感があるでしょう?少し堅苦しく角が立った印象を受けます。
余談ですが、『未確認で進行形』の主人公である夜ノ森小紅は女子としては珍しくこうした角張った口調で話す特徴をもっています。それが逆に彼女のチャームポイントになっているのですが、架空の人物のキャラ作りの一つとして用いられるくらい、日常会話で若者が「が」を使うことは珍しいのだと言えるでしょう。
というわけで、アスノヨゾラ哨戒班においては、
また明日の夜に 逢いに行こうと思うけど
としたほうがそれまでの歌詞の口調的にしっくりくるにもかかわらず
また明日の夜に 逢いに行こうと思うが
としている点で違和感があるのです。
②それでも納得感
を感じられるのが、ここの詞のすごいところです。
この納得感というのは歌ったときのリズムの良さということですが、そもそもアスノヨゾラのサビの部分の歌詞はかなりトリッキーな歌メロをしています。じっさいに歌うリズムに則して1小節ごとにスラッシュで区切って書くと
(またぁし) / た〜〜〜のよ / 〜〜〜るにあ / 〜〜〜いにぃこ / う とぉもぅが
のように歌っており、前半の3小節はほとんど長く伸ばす音(〜)で占められています。それを最後の4小節目では「逢いに行こう」のあとで間が空き、そして「と思うが」を一気に詰まるように歌い切ります。つまり、サビ冒頭の4小節のなかで考えれば「思うが」の「が」は大きく華麗なジャンプの最後の着地にあたり、ここが決まるか決まらないかというのは曲全体にとっても極めて重要な1音なのです。
これは2番のサビですが、これに対応する1番のサビを見てみましょう。
(そらへま) / 〜〜ぅせ〜か / いのかなた や / みをてらすかいせ / ぇいぇ〜えぇ〜
(こうして文字に起こすとふざけてるみたいですが、真面目にやってます)
2番と比べれば一目瞭然、1番サビとは歌メロのリズムがかなり違うのです。具体的には、2番のように4小節の前半を長音で占めずに、「世界の彼方」のあとで真ん中に空白(休符)があります。そして逆に「闇を照らす魁星」の伸ばす音が最後にあります。こうしてみれば、1番と2番がちょうど対極のリズムというか、相補的な関係にあることが分かります。
伸ばす音で終わるということは、ジャンプが続いているということであり、まだ着地させる必要はありません。そう考えれば、2番サビの「思うが」という部分は、1番からずっと続いてきた壮大な飛翔に一区切りつける役割を担っていると誇大解釈してしまってもいいかもしれません。
まさに「たかが1音、されど1音」を地で行っています。
(ちなみに、「1番と2番の歌メロが違う」のは他のOrangestar楽曲の多くにも当てはまります。それがもっとも顕著なのは2ndアルバムのラストトラック『八十八鍵の宇宙』で、3番までの全てのサビメロがかなり違います。メロディメイクのセンスが溢れすぎてる。モーツァルトかよ)
ここまでは「歌」のリズムとしての納得感でしたが、純粋な「言葉」としての魅力ももちろんあります。
前述のとおり、ここで「思うが」という歌詞が来るのは文章としてみれば違和感があります。そしてその違和感というのはあとに来る歌詞と並べるとよりいっそう際立ちます。
また明日の夜に 逢いに行こうと思うが
どうかな君はいないかな
そう、「思うが」のあとには「どうかな 君はいないかな」という詞が続くのです。
接続助詞の「が」がどこか堅苦しくいきなり大人びた印象を与えるのに対して、「どうかな君はいないかな」で二重に繰り返される「〜かな」という終助詞「か」「な」の合わさった連語。これはどこか不安定で幼い印象を受けます。
全体としては少年の口語調なので「不安定で幼い」というのは文脈に合っているのですが、その前の「が」があるためにその不安定さ、幼さが再び鮮やかに際立って聴こえるような気がするのです。
全体としては青くみずみずしい詞において、ただ1音だけ特異点のように違和感のある言い回しを曲の肝心なところに穿つことで、曲全体の詞が引き締まり、いっそう鮮やかにみずみずしくなる。
これが、アスノヨゾラ哨戒班において筆者がいちばん好きな1文字「が」の魅力です。なんだか不相応に壮大な話になりましたね。
ここまで、「が」の持つ魅力について「詞としての違和感」と「歌としての納得感」という2段階に分けて語ってきました。
おそらく作詞をしている人にとって
・歌としてのリズムや響きを優先するか
・詞としての意味や整合性を優先するか
という二者択一はことあるごとにぶつかる問題でしょう。
言ってしまえば長々と書いてきたこの「思うが」という歌詞だって、もしかしたら本人が
「ん〜〜〜〜『逢いに行こうと思うけど』にしたいけどリズムが上手くはまらないなぁ〜。・・・そうだ!『逢いに行こうと思うが』ならピッタリじゃん!完璧!」
という風に歌としてのリズムを優先して選んだだけなのかもしれません。
しかし、作者がどう考えて作ったのかというのは私たちの知ったことではないし、筆者にとっては「その曲が自分にとってどんな意味をもつか」こそがただひとつ重要なことなのです。
『逢いに行こうと思うが』の『が』というたった1文字は、筆者にとってこれくらい大きな意味を持ちました。はじめは理由も分からないままの「すき」という気持ちから、そしてこのようにその気持ちを分析していく過程で自分にとってさらに大きく豊かで深みのある「すき」へと育っていきました。
筆者はべつにこのnoteを通じて「オレはこんなにも1文字まで曲を聞きこんでるんだぜすげえだろう」とマウントをとるつもりはありません。
ただ、自分のなかに芽生えた「すき」という感情──「すき」以外でもいいかもしれません──をそのままにせず、ちょっと立ち止まってじっくり観察し、なんとか言語化しようとすること──上手くいかなくてもいいんです。だいいちこのnoteだって成功しているかはわかりません──この行為の面白さと奥深さについて、これを読んでくれたあなたに少しでも感じてもらえたら嬉しいです。
さて、長くなりましたが、改めて『アスノヨゾラ哨戒班』5周年おめでとうございます。これからもどうぞよろしくね。
そして明日、8月20日はOrangestarさんの誕生日です。おめでとうございます。再びあなたのやりたいことが形になった音楽を聴けるのを楽しみにしています。
それでは。
【これまでに書いたOrangestar語り】