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落日

 こんばんは。今日はなぜか一日に二度も更新することにしました。というか暇すぎて打ち込みたいなと思っているので、今回は楽しく書き込もうと。まぁ暇な理由は、今日出かけてるんですけど一緒に出掛けた人間がなぜか出先でパチ屋に行ってしまったっていう意味不明な理由です。二時間以上帰ってきません。
なので某ファミレスのテーブルに座りながら書いています。セブンイレブンが見える席で。

 夕方の景色が僕は大好きなんですよね。いつまでたっても。太陽が落ちて空が橙色や紫色に染まっていく情景が、なんともいえない気分にさせてくれます。子供のころなら、“ああ、もう今日は終わりか”という気分にさせてくれた景色ですが、今の歳になると「今日はこれから」っていう気分になっちゃいますね。特にサービス業をやってると、普通に毎日深夜まで働いていると、どうしても夜が中心になってきちゃいますね。生活リズムにおいて。

 そんな自分がまあ前ポスト参照なんですけれども、朝から起きていろいろ巡って辿り着いたファミレスでパソコンおっぴろげて書く文章はどうしてもお粗末になりがちだと思います。普段から頭回ってない文章を書く癖があるけれども、今日は特段にひどいと思います。

 そんな私は、埼玉県民です。だけどさっきから江の島の夕景の写真を張り付けまくっています。なぜかと申しますと、なぜか無性に海が恋しいからです。海なし県で育ってきた私ですが、なぜか海が好きなんですね。泳ぐのはいやだけど、勿論夜と嵐の海は苦手ですけれども、朝と夕方、特に夕方の海は非常に好ましいもの。夕日がゆっくりと沈んでいく様を眺めていると、自分の存在がちっぽけに思えてくる。
 別にこれをして自分は存在価値がないとか、自分はダメな存在だと考えているわけではないです。むしろ夕日を見ていない時こそ、そんなことしか考えていないですね。
 ちっぽけに思えることで、自分が成さねばならぬことは必ずしも達成しなくてもいいんだ、無理することはないと感じることができるのです。結局自分を縛り付けるのは、尊大な自尊心であり、自分を自分自身で買いかぶっていることだと思うのです。ある意味そこまでみんな自分に対して期待しているわけじゃないんだよ、と気づけることがこういう自分と向き合う時間には必要だと思うのです。

 もちろん、毎回そういったことができているわけではないですし、自分からそういったことを自発的にできてないのが現状です。夕日という触媒がない限り、自分を肯定的に見つめることができず、今日の自分はダメだった、明日はここを改良しなければならないという否定的かつ強迫観念に近しい自省しかできてない。ここが変われば、少しは自分を変えることができるんじゃないかなぁ。そう思います。

 こいつ写真やってるくせに、心情的な話ばかりしかしないんですよ。 
どうしてもしたくなっちゃうんですよね。そういう話が。写真で伝えられる感動と、文章でしか表せない感情。そういったものがあると思うんです。写真でしか表現できないものは、写真で表現するべきだと思うし、文章でしか表せないものも然り。絵画や音楽も然り。
 生憎様、私は後者二つに関しては鑑賞はするものの、まったくと言っていいほど不向きなもので、自分の感情や感動、心情をアウトプットする方法として採用しないのでそれらに対する然りはこじつけかもしれないが、写真と文章に関しては、普通の人間レベルで思考できていると感じているので、あながち間違いではないと思う。

 そろそろこの話も終わりにしようと思います。田舎の牧場みたいにどこからどこまでが話なのかまとまってないし、ファジーすぎる。でもそれが私が書きたい文章なのかもしれない。多分。

 タイトルに「落日」というコトバは、拙文である『取りまとめもない事』でも述べたように最近よく聴く東京事変の「落日」から引用したものです。併せて拙文も読んでもらえると嬉しいです。このころはちょっと疲れていたのかな、悲しい文章になってますが。

 落日という曲では、ストレートに描写しているわけではないが、キミ(これはインターネット上ではいろいろな解釈がなされているため、私は皆様の解釈に委ねたい、私は動物という説を考えている。)を失うボクの歌であるのが大枠である。
 この曲の一番好きなフレーズが「ちょうど太陽が去っただけだろう」という歌詞である。この曲のストリームで解釈するのがセオリー通りだろうけど、敢えて私はこのフレーズだけに絞って話を広げたい。
 確かに、子供のころは夕焼けを恨んだものだ。なぜもう日が落ちるのか。まだまだ遊んでいたいにも関わらず、時間というものは非情だ。鐘がなりますキンコンカン。まぁキンコンカンじゃなくてチャイムでしたけどね、夕焼け小焼けの。でも、また明日があるじゃないか、という気分に切り替えられたのも子供のころだけだった。
 小学生を過ぎ、中学生。そして受験を経て高校生、そしてまた受験を経て大学とどんどん成長していくことに、夕方以降にも遊ぶようになると夕焼けに対して美しさを見出せるようになったと思う。
 だが、よく考えると一日一日にとらわれて、明日を考えたくないと思うようにもなった。
 夕方かぁ。もう。明日が来るんだなぁ。今日できることをもっとめいいっぱいやらなきゃ。
 そういう考えに縛られて、結局寝れなくなって、朝起きるのがやっと。そんな人生に化けたときに、ああ、改めて考えると自分はいつからこんなに明日を考えたくないと思うようになったんだろうと感じるのです。考えて思って感じてるよこいつ。
 そこでこの曲に出会った。そう、「落日」という曲。確かに先ほども申しました通り、歌詞の流れとは違うし、全体的に通して理解するうえでは異なっていると思うが、「ちょうど太陽が去っただけだろう」という歌詞が刺さった。
 そうだ、日々の夕方はただちょうど太陽が去っていくだけであり、また新たな明日が来るのだ。それなのに、既存の自分に甘んじている。勿論、今の世の中は不安定で、未来への希望的観測をすることは机上の空論的で僕は嫌いだ。だから既存の幸せに甘んじて、つらいことから逃避しようとしてしまう。逃げるという人間の逃避本能はどうしようもないのかもしれないが、少しは未来について考えたいと思う。特にこの歌詞に触れてからは。


 結局ただの椎名林檎の歌詞に惚れています宣言して終わりになってしまいました。笑っちゃうレベルで持論を展開してるんで、何言ってんだこいつと思った方は嘲笑してスルーしてください。先ほど引用した拙文にも記しました通り、私は人様から怒られるのは苦手なので。笑ってくれる分には構わないのですが、ただ僕が拙文を垂れ流しているだけの状況に怒られると非常に困ってしまうので。どうぞよろしくお願いします。

 それでは失礼いたします。お疲れ様でした。1h書いてたのに、待人来ず。乃木神社のおみくじ『中吉』だったのが響いているのかな。

P.S.誤字ってました。訂正しましたんで許してね。

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