KKL 20230531 研究室会議レポート

はじめに



こんにちは。
2023年も今回のゼミを持って半分を過ぎたことになります。

研究室としては先日OB会が開催されました。残念ながら出席できなかった方も多数いた中で60人以上が参加し、10年目を迎え、そして新たな10年の幕開けを宣言するような素晴らしい会になったのではないでしょうか。

私としては久しぶりにnoteの投稿回がきたということでいつぶりであるのか遡ってみたところ、前回が前期初めの2022年4月、前々回は後期初めの2021年10月と年一投稿、いや年一投稿以下であることが発覚。

そこで少し気になったのですが研究室会議レポートが開始されてから毎年この時期(前期の折り返し地点である5月末~6月初旬)に先輩方がどのような内容で投稿されてきたのかをざっと眺めてみようと思いました。

ただこれは本来、各年毎に全体を眺め、相対化してこの時期の分析をする方が面白いところではありますが、今回は

時系列順に過去のnote(5月末~6月初旬)の気になった箇所を引用(若干まとめるために省略、書き直しした)

しつつ、それに対して思いつきによる殴り書きをしてみた上、そのあたりは温かい目でご容赦お願いします。

それでは、ひとつよしなに。

過去のnote引用(5月末~6月初旬)と思考


「街に出られなくて一番辛いのは、想像の余白のある出来事に触れにくくなっている点だ(2020.5.20)」

コロナ禍の緊急事態宣言真っ只中での更新回。規定された生活では想像を働せる場面は少なく、そのような場面は受動的にはそう訪れないことを痛感させられました。

「ある程度満遍なく話をふる司会の腕も大事ですが、各位、発言のハードルを下げて、チャットなり口頭でどんどん喋っていきたいですね。(2020.5.20)」

「各位、発言のハードルを下げる」は「素直になる」や「ぶっちゃけを吐露する」と表現すると良いのかなとも思いつつ個々に与えられた発表時間の目安がある中でアカデミックな議論の妨げになるのではないかという雰囲気は今も全くないとは言えない…。コロナ以前とは違ったMeetingOwlを囲むドーナツ状の配置はどこか当事者性と積極性の低下に一役買ってしまっているのかもしれません。


「研究において、大きな2つのテーマは羅針盤と時空間の地図を手にいれることではないか。卒業設計で得た羅針盤を片手に、修士論文を書く中で、地図と、地図を読む力を手に入れる。時間の地図とは連綿と続く研究の系譜の変遷、空間の地図とは自分の研究の立ち位置を徹底的に相対化し、客観視した地図である。その二つを携え、建築という大海へと漕ぎだすのだ(2020.5.27)」

研究の変遷を把握し、自分の立ち位置を相対化して客観視するという内容であり、これは自分にとって耳が痛い指摘でもあるがとてもわかりやすい比喩表現であり大切な思考だと思いました。卒業設計を始めた者、卒業設計を終えた者、卒業設計が過去になった者が同席する貴重な場であることを再確認し、それぞれが羅針盤と地図を巧みに使って航海して行けたらいいなと言ってみます。


作品を通じ、1人の主体として世に何かを問うと同時に自分の設計がある種の普遍性を帯びなければならない。(中略)具体的な興味を掘り過ぎたあまり、普遍性のない属人的なものとして、見向きもされない作品のなることもある(2020.5.27)。

この考え方は門脇研の活動を通して、特に研究室会議を重ねることで身につけていく感覚の一つであると年々メンバー、そして自分自身に感じています。特に普遍性においてはそれが依拠するところを探し当てるセンスなども重要な感覚だと感じています。プレゼン資料や口頭でも導入からの本題がスムーズで、研究のプロットと自分の悩みや心中がわかりやすく区別できていると、客観性のある発表であることが多いと思いました。

「ジェネラティブなデザインを志向するのならば、デザインのフレームをしっかり構築する必要がある(2020.6.3)」

当時のリモートという制作環境において、B4のプロジェクトにてバトン形式でデザインをするという方法論に対しての門脇先生がおっしゃったコメントの抜粋なのですが、通常ではそもそも至らないような、本来亜流である方法論ならではの面白い議論があったことを想像させられました。個人研究のみでなく、プロジェクトにおいても「普遍性」と「具体」の考え方が通底していることが窺えます。


「言葉遊びや連想ゲームのような手つきは客観性を失い、まとまらなくなりがちである為、ルールや規定する箇所を決めて進めるべき(2020.6.10)」

これもまさに普遍的な思考と属人的な思考のどちらも同時に考えるべきという議論につながっています。今週の研究室会議でも何度か事象と事象のインターフェースの議論がありましたが、言葉遊びや連想ゲームは思考を単純化して拡張していく段階とそれぞれのインターフェースを思考する段階に分けて考えていくと客観的な見方ができそうだと思いました。この二つの段階には違う能力が問われており、得意不得意が出るようにも思えます。

「情報に対する接し方そのものが、自らの限界を規定し、試行の輪郭を露呈させる。(2021.4.28)」

こちらは今回遡る中で最も印象に残った引用箇所です。上記の通りだとすると、構成員の中でM2という立場は残酷で処刑台のような気がしてきてしまいます。しかしこれは反対に当たり前のことでだからこそ研究室会議の個々の議論を共有するというテーマであることに気付かされます。


「何百万も払った上で、知識を学ぶだけならば、もったいないのではないでしょうか。(2021.5.26)」

このような考えは少し生々しすぎるのかもしれませんが、1年間の学費のうち1回のゼミやそれに関連する活動がいくら分に相当するものなのかと考えるとそれらに臨む態度や姿勢は…。新しい環境に慣れ始めるこの時期に心に留めておきたい内容です。


布を動かし研究室全体を俯瞰して見たとき、それぞれの場所によってあまりにも変数が多く、バラバラに進んでいくことでデザイン全体の統一感を欠いてしまうことや布の組み合わせのデザインに終始してしいまうのではないかという議論が上がった。そこで、最初に掲げたコンセプトをプランだけではなく素材選定や仕様にも延長させていけないかという話し合いを行った。(2021.6.7)

コンセプトはプロジェクトの全体を一環して貫く観点とはいえ、設計と施工の段階で乖離してしまうことがよくあります。「議論による方向性の修正や変更」をレポートした新プロジェクトが立ち上がりやすい前期のこの時期に読んでおきたい回だと思いました。


「研究室会議は、何かを教えてもらう体で臨むと肩透かしをくらってしまう。議論から自分は何を真似し、どう拡張させられるか。(2022.6.1)」

やはり常に「全体計画」と「具体化」の往復が進める上での前提としてあり、その前提が話し手と聞き手の間合いのようなものを取りやすくするのではないかと現在の研究室会議においても感じました。


「門脇先生がよく“案をすべらす”という表現をするが、前期に丁寧な計画とリサーチを経てそのすべらすための「てがかり」を見つけられれば良いのではないか(2022.6.8)」

これは少し抽象的でありつつも掴みやすいニュアンスなのではないかと思いました。これまで積み重ねてきたリサーチや実験は無駄ではなく、多少滑らせても落下することはない大きさの土台を築く前期を過ごせとも読み取れるのではないでしょうか。


「もの」を通した議論が多いような印象があります。(中略)「もの」が強すぎて自分の考えと乖離したまま議論が進んでしまう懸念も今後出てくる可能性があるのかな、とも思ったりしていて、あくまで自分の考えを伝える手段として使いこなせるようにする必要があると思っています。

こちらは最新の研究室会議レポートからの引用です。隔週の発表での成果物が目的化し過ぎているということだと思いますが、これも「普遍的」と「属人的」、「全体計画」と「具体化」の重要性を説いていると還元できると考えられます。


おわりに


ダラダラと断片的で冗長的な内容になってしまいましたが、今回はこの辺にしておきたいと思います。すいません。
ただ特徴としては新年度が始まってから約2ヶ月というところで、研究室会議の内容以前に研究室における自分の立場やあり方のようなものを見直しているものが多かったです。

ほとんどがコロナ禍での更新であることが、環境的に客観性を失いやすい状況に対しての心境を書くきっかけにさせた部分もあると思いました。

これといった結びはないですが、まだ日の浅い研究室のnoteを見返すのにさほど時間はかかりませんし、先輩たちの本音を垣間見ることができておすすめです。(もう既にしている方がほとんどかもしれませんが)

M2 門田

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