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「ごめんなさい」が言えない僕と、ビーチですれ違ったよく知るあいつ

今年の夏は海に2回ほど行った。

海はお盆をすぎると急激に人が減る。
滑り込みでギリギリだ。

普段は自室のカーテンを閉め切り、日が高いうちから照明を暗くして、ヒーリングミュージックをかけてパソコンを鍛高譚譚譚するところから一日が始まる。

この大都会の中で、いつもと同じ、視界の狭い景色。





海はいい。

どこまでも青と青が続いていて、世界の一部になれたような気がする。

海岸に近づくにつれて民家が減っていって、開けていく景色がたまらない。

毎年わざわざ遠くまで行くのは、この高揚感を味わいに行っているようなものだ。


しかし2回目にはもはや何も感じなくなっているから、視覚情報というのは本当に足が早い。

京都で人力車をしていた頃を思い出す。
元々田舎育ちの僕は、京都の街が一望できる山の上の物件に惚れて引っ越したのだけど、3日でその絶景に目が馴染み、なんとも思わなくなってしまった。

美人は3日で飽きる。





そんな僕らは、女の尻を追っかけては美人であることを願いながら、飽きることなく声をかけていた。

パラソルの下で休んでいる女のすぐ隣に座って、話して、一緒に飲み、また別の女のところに行って声をかける。

特殊なのは、声をかける側もかけられる側もほとんど裸のような恰好で、日差しの強い屋外にいて脳がやられているところだ。

こんなに昂るアクティビティは他にない。
まるで、大事な試合でゾーンに入ったみたいに僕らはギンギンになる。

目がだよ。

褒めてディスって共感して冷たくあしらわれてを繰り返す。

まわりで見ている男連中にネタにされて笑われながらも、「お前らにこんな度胸ねーだろ」と優越感を感じ、ワンチャンがあると「ざまみー!」と心の中で叫んだ。


そんな夏が、あった。



僕は今年、初めて1人で海に行った。


片道で1時間30分かかるちょっとした一人旅。

途中で2列シートの急行電車に久々に乗り、「岐阜かよ」と声を漏らす。


西日本にある僕の地元では電車を「汽車」と呼んでいて、東京の高校で恥をかいたことが懐かしい。 

ずいぶんと都会に馴染んだものだ。


駅に着くと既に海岸には近く、潮風は湿っているけど風の強さによってぎりぎり快適が勝つ。

今年は人が一段と多く感じる。
クラブのVIPルームと化したシン・海の家はシーシャが導入されていて、盛り上がっているんだか落ち着いているんだかよくわからない。

気が付くと視線が女に行ってしまうが、よく見るとそこに群がる男はあまりいなかった。

どうせ皆気になっているのだから、勇気を出して声をかけてみればいいのに。何が起きるかわからないよ。

そんなことを思いながら、自分にも言い聞かせてみる。


ペイズリーの開襟シャツのボタンを全て開け、イヤホンをつけてyoutubeのチルリストを開き、とても久しぶりにBASIとCHOUJIを聞く。


よく知った顔が、相変わらず淡々とした顔で女の子を笑わせていた。
駅ですれ違ったあいつは、誰と待ち合わせをしていたのだろうか。

頭にかけたサングラスをおろし、僕は顔を背ける。

海と尻を交互に見ながら、痛みと、一抹の寂しさを感じた。

誰にも声をかけることも、かけられることもない、初めての夏の海。










ひとりは、僕の去年の誕生日にサプライズで家に押しかけ、BBQに連れて行ってくれた同い年の奴。

もうひとりは、フェラーリの子だ。


どちらとも仲が良くて、同い年のやつなんかは去年しょっちゅう一緒にいた。

もし声をかけたら彼らは再会を喜ぶだろう。

すれ違い様、心臓が少しだけ高鳴る。


でも僕は気乗りしなかった。

ずいぶんと退化したものだ。
女の子はおろか、友達にすら声をかけられなくなるとは。

友達。

友達ねぇ。

どこまでが友達なのだろう。

嫌いなところが、どれだけ増えたら友達じゃなくなるのだろう。




僕は、彼らのことが嫌いだ。

彼らとはわかり合えないと決めつけて、彼らと会うことが嫌になってしまった。

男として、人として、見下しているところがある。

そして同じように、資本主義のレールをひた走る彼らに「お前は違う世界の人間なんだな」と思われて見下されている気がしている。

見下している人間から見下されることほど、怖いことはない。

実際それはただの被害妄想なのかもしれない。

彼らから攻撃されたり、何か直接傷つけられたことは一度もないのだから。


どちらかといえば、皆はメンタルの弱い僕のことを心配してくれた。

ただ、僕は彼らが鼻についてしょうがなかった。
彼らの言動の一つ一つがマウントに感じて、癇に障る。

つまり僕は、彼らの「悪意のないそれ」を許すことができなかった。

そして、僕だけがそっぽをむいて、つっけんどんな態度をとった。

だから僕は彼らに再びマウントをとられることが怖くて、そして「ごめんなさい」を言うことが怖くて、声をかけられなかったのだ。



HSPという自分を擁護する為の便利な言葉が出来たが、
あらゆることを繊細に感じ取る気質なのであれば
当然その分の体力が必要だ。

距離をとるにも、痛みに耐えるにも、挑戦するにも、体力が余っていなければ無理をしてしまう。

僕は今まで無理をし過ぎていて、だんだんと体力が回復してきた。


僕はまだ、ごめんなさいを言っていない。

僕の胸のうちを明かしていない。

頼れる古い友達に、辛いんだと言えなかった。

嫌われる痛みと恥をかく痛みから、いつだって逃げてきたな。

どうせみんないつか死ぬのにね。


痛みを感じて、海に来てよかったと思った。

正念場はここからだ。

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