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M-1はなぜ、高比良くるまに乗っ取られてしまったのか


「ソーシャル笑い」とは

笑いには2つの性質がある。

1つは、個人的な同意や共感からくる「パーソナルな笑い」。
これは「他人がどう思うかはさておき、自分は理解できる」という、シンプルかつオーソドックスな意思表示だ。

もう1つは、社会的同調を示す「ソーシャルな笑い」。
「共感できるかどうかはさておき、他の人たちは笑うだろうから笑っておこう」といった、特定の集団への帰属意志を表明する行為といえる。

本稿の主張ポイントは主に3つ。
1)高比良くるまは「ソーシャル笑い」の天才である
2)M-1は「みんなでつくる大会」としてリアリティショー化した
3)「みんな」が勝者を決めるシステムは「乗っ取れる」

はじめに断っておくと、私は「M-1村の住人」ではない。
かといって、M-1アンチでも令和ロマンアンチでもない。
いってみれば、ただの野次馬だ。

今回は、そんな野次馬から見た「令和ロマン連覇達成ショー」の怖さと面白さについて伝えていきたい。

高比良くるまは「ソーシャル笑い」の天才である

まず1つめ、高比良くるまが「ソーシャル笑いの天才である」とはどういうことか。

細かなネタの検証はお笑い評論家にお任せするとして、ざっくりいえば、令和ロマンのネタには個性がない。

個性が「足りない」のではなく、個性が「ない」。
人間味がない、とも言い換えられる。
だが会場はウケている。なぜか。

彼らは、観客を「笑わせよう」としていない。
ただ「笑うところ」を教えているだけなのだ。
客に「ここは笑うところだよ」と諭す技術が悪魔的に高い、ということだ。

令和ロマンのネタは、そういったソーシャル笑いを扇動する「悪魔の技術」のみで構成されている。
加えて、「なんとなくすごそう」と思わせるキャラ演出にも余念がない。
すると彼らは、漫才師というよりカリスマ演説家(あるいはマルチのエリート、天才詐欺師)のようにも思えてくる。

M-1は「みんなでつくる大会」としてリアリティショー化した

審査員の権力が強かった旧来のM-1であれば、彼らが優勝することはなかっただろう。以前は、いくら客にウケていても、審査員にハマらなければ勝てない残酷さがあった。

ところが、「誰も傷つけない笑い」が求められ始めた2019年ごろから、変化が生じる。「敗者のいないストーリー」として、M-1は「みんなでつくるもの」というムードが生まれてきたのだ。

個性を重視する師匠クラスは次々に勇退し、客ウケを重視したリスクヘッジの上手い審査員が揃った。
こうして審査員に集中していた権力が「みんな」へと分散して「村化」した結果、M-1はコンクールではなく、リアリティショーになっていったのだ。

「いやいや、M-1はガチの生放送だから」という反論もあるだろう。リアリティショーであるなら、プロットを書く人物がいるだろと。
M-1には、ヤラセも八百長もない(ということになっている)。

ではなぜリアリティショーと形容したのか。
それは、高比良くるまの筋書きに「村人全員が踊らされてしまった」からだ。

「みんな」が勝者を決めるシステムは「乗っ取れる」

権力が審査員から「みんな」へと分散して生じるリスク、それは乗っ取りリスクだ。

「みんな」には意志がない。漫才への絶対的な指標がない。
それはつまり、集団的無意識を扇動する技術に対して、無防備であることを意味している。審査員という名の「セキュリティ」が機能しないのだ。

指標を持たない集団は、容易に操作されてしまう。
それは歴史が(最近なら兵庫知事選が)証明している。

その状況を逆手に取ったのが、令和ロマンだった。
審査員は、個性を評価するリスクを抱えている。
自分が面白くても、「みんな」にはウケてないかもしれないからだ。
審査員が客ウケを重視するなら、個性はいらない。

今大会でも、「個性の爆発」は起きていたと思う。
だが、「みんながウケていたネタ」を評価する方が無難だ。
そうして、爆発は「なかったこと」にされた。

ソーシャル笑いに徹した彼らが優勝したのは、偶然ではない。
「敗者のいない大会」のようでいて、令和ロマンは、審査員や制作陣、観客も視聴者も含めた「村人すべて」をまんまと牛耳った。
これは全体主義の勝利であり、社会のはぐれ者に光をもたらしてきた漫才という文化の敗北のようにも思える。

「みんなが良いと思うものが良い」の滑稽さ

それでは、ここからが結論。

この現象の面白いところは、高比良くるまに悪意が伺えないことである。
悪意どころか、意志が感じられない。まるでAIのようだ。
彼は、「みんな」がつくり出した「退屈なヒーロー」なのかもしれない。

日本を、歴史上唯一成功した全体主義国家と呼ぶ人もいる。
そういう意味ではこの顛末を、日本らしいのどかな現象、と片付けることもできる。

ただ私は野次馬、集団の外にいるはぐれ者だ。
となればもちろん、漫才師に共感する。カリスマ演説家よりも。
それに逆境でこそ輝くのも、社会のジョーカーたる漫才師の真骨頂だろう。

集団的無意識から生まれた、「意志なき演説家」令和ロマン。
彼らはM-1を卒業するようだが、「みんな」が操られるリスクは残されたままだ。
本当に面白いのは、漫才師の躍動か、踊らされる村人たちか。
また来年も、面白いものが見れたら嬉しい。

以上、笑い男事件としてのM-1 2024回顧録でした。

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