特攻の拓と缶拾い
最近妻が愚痴をこぼす。
目の前のアパートの住人が缶拾いをした後に、最近朝から足で潰す音が耳障りだから。
なんとかならないかと思う。
日曜日もお構いなしで、ガシャガシャと煩い。
正直言ってやめてほしい。
とはいえ、それぞれなんとなく自分の都合良く騒音を出しては、言い訳しながらも周りとの軋轢で精神をすり減らしながらも暮らしている。
時にウチの親が朝7時から掃除機をかけたり、早朝から爆音を出しながら通り過ぎるバイク達。
風呂を洗いながらそんな事を考えていると、ふと思い出した。
昔見た『特攻の拓』という漫画である。
ご存知の方は多分50代かもしれませんが(^^)
その中で、元レディースの保健の先生が
「暴走族は煩いと取り締まられるけど、空を飛ぶアメリカ軍のジェット機は何も言われない」的なシーンがある。
すごい比喩だ。少年誌にこんな難しい喩えを「ぶっ込んで」いた事を今更に気付かされた。
まさに今目の前で、同じような事が起きている。
人は自分の嫌いな音には、ひどく攻撃的になる。特に個人的に嫌な場合には。
ところが、公共的に叶うものは仕方ないと割り切れる。出す人は違うかもしれないけど、同じ
『音』であることは変わらないのに。
なぜ人は、同じ音でも我慢できたり、イライラしたりするのか?
何故同じ騒音なのに、暴走族はダメで飛行機は許されるのか。
何故缶拾いの音はムカついて、廃品回収のスピーチは平気なのか。
何故同じ音なのに。
つまりは、その人の心が騒音か否かを決めていると思う。
風呂掃除を終えて、そう結論が出た。