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あなたの花し

少女の花し

例えば、その腰くらいまでの長さの、絹みたいに綺麗な黒髪とか。
例えば、その雪みたいに白くて綺麗な肌とか。
例えば、その大きくて、夜空を閉じ込めたような無垢な瞳とか。
あなたは私にとって、「少女」の究極的な存在だった。

飛世女子学園は、中高大一貫教育が謳い文句の、誰しもが認めるであろうミッション系のお嬢様学校だ。それはもう、絵に描いたようなお嬢様学校。人里から少し離れた森を抜けた先にある全寮制のこの学校は、1度入ってしまえば世間からは隔離され、淑やかな少女としての教養や所作、その他諸々のあれこれ云々が叩き込まれるのだ。生きとし生ける少女なら誰しも夢見たことのあるであろうこの学校は、外の世界の人間からは「秘密の花園」と呼ばれた。

私は所謂、社長令嬢というやつで、例に漏れず私も中学1年生から半ば強制的に飛世の女の仲間入りを果たした。入学式は若干のうたた寝を挟みつつ、何とかクリアー。校門前に貼られていたクラス分けの表によると、私はD組らしい。入学式の眠気の残滓と戦いながら1番奥のD組を目指していると、知らない少女たちの話が耳を掠めた。
「知ってる?彩世様はD組ですって」
「えぇ、いいなぁ、D組の皆様は毎日彩世様を拝めるというのですね」
彩世様が誰だかは知らないけれど、なんだかすごい人がクラスメイトらしい。知らないけど。
由緒正しい飛世女子は…なんというか、もう、色々と古くてボロい。廊下は歩く度にギシギシと軋むし、窓は風が吹く度にガタガタ唸るし、由緒正しいどころか、もう由緒正し過ぎるのかもしれない。多分飛世は金の使い方を間違えている。ここで中学校3年間、高校3年間、大学4年間過ごすと考えると、何となく先が思いやられた。
D組の教室に入り、黒板に張り出されている座席表を見上げる。黒板から見て1番窓際、後ろから2番目。うーん、なんと無難な位置。最高。迷うことなく席に着いて、そろそろ腕を千切ってしまいそうなボストンバッグを置いた。
次は学校生活にあたっての説明だとか、寮の部屋決めだとからしい。まだ予定の時間まで少し余裕がある。でもどこかに行くほど気力は無いし、話す知り合いもいない。仕方が無いので、窓の外を眺めて時間を潰すことにした。
「社長の娘だから」というのが嫌いだった。皆皆、私を壊れやすいもののように扱った。皆皆、私の機嫌を損ねぬようにと、気持ち悪いくらいに気を使った。馬鹿みたいだ。私は社長の娘である以前に、1人の人間だ。それ以上もそれ以下でもないのに。五感も四肢も、皆とほとんど変わらないのに。だから飛世に入った。ここに入ってしまえば、もはや身分とかそういうのは関係ない。古いしボロいし埃の匂いもするけれど、ここなら皆が皆を対等に見てくれる。だってここにいる彼女らは皆、所謂「お嬢様」の集まりなのだから。

「彩世様!ごきげんよう」
「ごきげんよう彩世様、お待ちしておりましたわ」
急に数人の人間が入口に駆け寄る。びっくりして、思わず入口に目をやった。
「彩世様」と呼ばれるあなたは、もう完璧な少女だった。濡れ羽色の艶のある髪は腰にまで届いていて、柔らかそうな白肌は陶器のようだ。宝石を埋め込んだように綺麗な瞳は、長い睫毛に飾られて余計に綺麗だった。制服の、赤いラインの施された黒いセーラー服は皆同じのはずなのに、あなたが着ると心做しかその価値が高く見えた。
私はあなたが私の右斜め前の席に座り、そして私の方を振り返って優しく微笑むまで、ずっとずっとあなたに釘付けだった。私は人形が好きだった。人形は心を持たない。手入れをすればずっと美しい人形は、心を持たぬからこそその美しさを持ち続けるのだと思っていた。しかしあなたは、心を持ちながら、絶対的な美しさを持っていた。しばらくして担任であろう先生がやってきて、この学校の事やこれからの話をされた。話の中で、神の偉大さについて説かれた。けれどもう私にはそんなのどうでもよかった。出会ってほんの少しの間に、彩世様…あなたは私の神様になったのだ。

入学前の環境のあまりの不満さに、私は幼い頃から「奇跡なんてない」と考えてきた。そう、今までは。
「彩世椿。あなたは…」
「あ、えと、篠宮杏です…!な、何卒よろしくお願い致します…」
「ふふ、ルームメイトなのだからそんな固くならなくてもいいのに。よろしくね、篠宮さん」
ごめんなさい、やっぱり奇跡はありました。
神様…あなたとルームメイトになったのです。2人で一部屋の寮で、私はあなたと2人きりという贅沢を勝ち取ったのです。こんなに幸せでいいのでしょうか。
「もう今日の予定はおしまいですし、夕飯の時間まで学校を回ってみない?」
本当に、こんなに幸せでいいのでしょうか。流石に不安になる。断るわけないけれど。
他学年のフロアに行ったら怒られるので、音楽室や図書室など、共同の部屋を外から見回ることになった。あなたからはほんのり甘い、いい匂いがした。あなたは、名前を言えば誰もが分かるような大きな企業の娘だった。私の少し前を歩くあなたは私より背が高くて、姿勢も良く。すれ違う先生や先輩、話しかけるクラスメイトには完璧な程に美しい挨拶をした。私はそれを真似て動くことで精一杯だった。
一通り回り終えた頃には夕食の時間になっていて、そのまま2人で食堂に向かった。隣で同じものを食べているはずなのに、あなたは貴族たちのパーティに出席しているかのような淑やかさを嫌というほど放っていた。
あなたは眠りにつくその時までずっと、胸焼けがしてくるほど美しかった。
私はあなたにかなり気に入られていた。私が何をするにもお構い無しにあなたの隣に行くものだから、きっとあなたはそれに慣れてくれたのだ。暇さえあれば私とあなたは一緒にいた。つまらない世間話も、あなたとなら楽しくて仕方がなかった。

部活は、あなたと同じ合唱部にした。
音楽は好きだし、歌う事もかなり好きだ。たったそれだけの理由。あなたが合唱部に居なくても、それ以外特別好きなもののない私は合唱部に入っていただろう。
あなたは歌声すらも美しかった。本当に何から何まで完璧だった。それなのに、あなたは私が歌ったあとは、決まってこっそり小さく拍手をするものだから、もう目眩がした。
梅雨に入る頃には、もうあなたの信者と言っても過言ではないほどあなたに心酔しきっていた。

「次のフロラは誰なのでしょう」
「きっと彩世様がフロラになるに決まってる」
「彩世様こそがフロラに相応しい」
廊下で立ち話をする少女たちからヒソヒソとそんな話が聞こえ始めたのは、2年生に上がって、もうすっかり夏になった頃だった。
フロラ。それは少女の頂点の存在。
他の学校で言うところの生徒会長辺りが近いのかもしれない。中等部、高等部、大学部で3人のフロラが居る。普段の生活態度を見守る先生方が毎年夏に決めるフロラはそれぞれの部の頂点のような存在で、神の次に偉大な存在とされる。
フロラとして君臨するのは部の最高学年の時だが、飛世は狭い世界、フロラになる人間が誰かなんて皆もう分かりきっていた。
彩世様がフロラになる__。
それは約束された事のようだった。私だってそう確信している。だってあなたは美しい。それは見かけだけではなく、内面まで、フロラとして相応しい心まで持ち合わせている。この学校に入学して、友達も多く出来た。けれどあなた以上にフロラに近い人間は居なかった。心から愛し崇拝している人間が神に近しい人間になるのは、あなたが素晴らしいと人々に改めて知らしめることができるのは、彩世椿という宗教の敬虔な信者の1人として誇らしくて仕方がなかった。

けれどどこか違和感があった。ああ、あなたは私には無いものをたくさん持っていた。経験も知識も実力も美しさも全部あなたが上。私はあなたについて行くばかり。「彩世様のルームメイトだから」という言葉でしか、無個性な私は飾られなかった。言ってしまえば、私はあなたに嫉妬していた。あなたは何をしていても常にそこに品性が伴っていて美しいのに、私は常に気をつけていないと陰できっと笑われてしまう。けれど愛おしくてたまらないあなたの傍を離れることなんてできるわけが無い。入学前と変わらない居心地の悪さに気づいて辛かった。
嫉妬は罪が重い。いつかの授業で習ったっけ。それなら、私はもう罪人だ。いっそあなたがものすごく嫌な奴だったら良かったのに。嫌えたら良かったのに。フロラになんてならなければいいのに。ずっと私のものでいればいいのに。最初から私のものでは無いけれど。嫌だ。嫌だ。そうだ、もう無理やりにでも嫌いになってしまおう。何が神様だ。何がフロラだ。彩世様なんて、あなたなんて、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「篠宮さん?」
急に呼ばれたのにびっくりして、転びそうになる。自分で体勢を整えて、目の前のあなたに目を合わせる。
「ごめんなさい、考え事をしていて。どうしたの?彩世さん」
1度こう考えてしまえば、その美しさも声もすべて憎かった。夏服の、赤いラインが袖に施された半袖のブラウス、膝下までの丈の黒いジャンパースカート。胸元には真っ赤な別珍のリボン。私と同じ。そう、同じ。だから憎い。虫唾が走る。そのどんな時も崩れない涼しい顔が気持ち悪くて仕方ない。あなたは私の耳にそっと囁いた。
「次の授業、一緒にサボタージュしませんか?」

屋上に行くのは初めてだった。立ち入り禁止の屋上の鍵は、あなたがヘアピンを駆使して開けた。音をたてぬようにゆっくり閉めて、2人で空を見上げた。もうすぐ夕方の空はオレンジ色がかっていて、あなたを見ようとすると西日が眩しかった。目を細める私を見て、あなたは私の反対側に移動する。
「こうしたら、私の方を見ても眩しくないでしょう」
そんな小さな気遣いすら今は痛かった。ああ、なんで来てしまったのだ。
あなたはいつもの笑みをたたえて世間話をした。数学科の薗田先生はチョコレートがお好きだとか、C組の花寺さんは実はハーフだったとか、そんなどうでもいいものばかりだ。夏の匂いと蒸し暑さで眠たい。いつも楽しかったソレが苦痛でしかない。一通り話し終わったあと、しばらくの沈黙が私たちを包んだ。そしてその静寂を破るのは、やはりあなただった。

「私ね、椿になりたいの」

あなたの視線はまっすぐ私を見ていた。だから、それが冗談だとか、ふざけて言ったことでは無いのは確かだった。椿になる。私には分からなかった。だって私にはあなたほどの教養がないから。
「椿の花言葉の中に、「控えめな優しさ」というものがありましょう。それは椿の花に、匂いがないことから来ていると言われているの。私は色んな人に崇め奉られて来た。でもね、私、疲れちゃった。椿って名前なのに、私、全然椿になれない。私も香りのない、ただの少女になりたいだけなのに。でもあなたは、あなただけは私のことを恐れないで来てくれたね。ありがとう、あなたが私の神様なんだよね、きっと」
今までに聞いたことがないくらい丁寧な口調を崩したあなたはそう話しながら泣いていた。西日に照らされたあなたの涙は次から次に流れ落ちて、黒いジャンパースカートに落ちていった。
私は何も言わなかった。何も言えなかった。今のあなたはもう神なんかじゃない、1人の少女だった。生まれる場所を間違えたばかりに、自由も何もかも奪われてしまった悲しい少女。やがてあなたは私の汗でじっとり汚れた躰をそっと抱きしめた。
「フロラにもなりたくない」
そう言ってあなたはわんわん泣いた。私はその華奢な体に腕を回すことはしなかった。どうやら自分に嘘は吐けない。だから私はまだあなたが好きだった。あなたに恋していた。それは認めざるを得なかった。でも嫌だった。贅沢な悩みだと思った。そう思ってしまう自分も嫌だった。私も同じ悩みを持ってここに入ったというのに。私は、そんな我儘な願いを持つほど恵まれたあなたが嫌いだ。だけどそれ以上に醜く嫉妬して、泣いている想い人を抱き締め返すことも出来ない自分が何より嫌いだった。
「…杏ちゃんが、好きだよ」
「…私も好き」
そんな機械的な私の返事で、あなたは私の恋人になった。杏ちゃんなんて誰にも呼ばれたこと無かった。
けれどとうとう、最後まであなたの背中に腕は回さなかった。
その後、少し満たされたような笑顔を見せたあなたと、私は屋上で賛美歌を歌った。あなたの甘い匂いに目眩がした。
次のフロラが発表される、丁度1週間前の出来事だった。

1週間後、案の定、あなたがフロラになった。
「神の下、私が皆様を救ってみせましょう」
講堂の壇上でそう言ったあなたの指先が微かに震えていたことは、きっと私だけが知っている事。あなたの救済の宣言に涙するほかの少女らに、あなたの本当の気持ちなんて理解できなくていい。私だけが知っていれば充分。だって私はあなたの恋人。孤高で強欲で高嶺の花なあなたの穢れを知っている唯一の存在。
フロラは忙しく、あなたの心が壊れるのにそう時間はかからなかった。
フロラは神に限りなく近い存在。それに救いを求める少女が多いのは当たり前だった。毎晩寮で病的なまでに泣き続けるあなたを、やがて泣き疲れて眠るまで抱きしめるのが私の仕事だった。だって私はあなたを愛しているから。恋人の関係の人間は常に支え合わねばならないから。あなたからはやっぱり甘い匂いがした。
「杏ちゃんは、私だけの神様なの」
杏ちゃん。2人だけのときは決まってあなたは私のことをそうやって呼んだ。そう、私はあなただけの神様。神様だから、救わなきゃいけない。あなたが今日も明日も、さしてよく知らぬ人々を救うように。

付き合い初めてどれだけ経っても、私のあなたへの嫉妬心と恋心の矛盾は消えなかった。一挙手一投足が愛しいのに、その座が私だったらいいのにと思ってしまう。時々、あなたを殺す妄想をした。あなたを殺したら、フロラは居なくなる。そうすれば、あなたに一番近い存在の私がフロラになることは確実だった。でもその妄想はいつも、あなたがいないことで私が壊れてしまうのがオチだった。結局囚われてるのは私の方だ。
フロラになって忙しくなり、あなたは合唱部を辞めた。私はその頃にはあなたの歌を聞くのだけが好きだったので、私も合唱部を辞めた。
ずっとずっと、私とあなたは一緒。あなただって、私がいなかったら壊れてしまうだろうから。

「杏ちゃん」
休み時間、2人きりじゃない空間でその名前を呼ばれた。声の主はあなたで、辺りは静まり返る。気付いて顔を真っ赤にしたあなたは私に駆け寄る。
「ごめん…つい、癖で」

「不平等だ」
クラスメイトのひとりがそう言った。神様に近い存在のフロラは常に誰に対しても平等でなければならない。恋人を持つなんて禁忌だった。みんな口々にあなたを批判した。「最低だ」「神を裏切ったんだ」入学式のときにいち早くあなたに駆け寄った生徒でさえ、あなたを謗った。あなたの顔が段々青ざめていくのが見て取れた。
「死んじゃえ」という言葉が聞こえたと同時に、私はあなたの手を思い切り引っ張って教室を出た。全速力で階段を駆け上がる。もともとボロい校舎だ、律儀に解錠しなくたって、強い衝撃を与えれば鍵の一つや二つなら簡単に開く。屋上に繋がる扉に、私は思い切り体当たりした。扉が壊れて、バランスを崩した私もあなたも倒れかかるように転んだ。
追いかけてくる人は居なかった。

「神様なんて、やっぱそんな偉くないよ。だからフロラはああやって、すぐに信用を失うんだ、きっと」
私がそう言うと、息を切らしたあなたは私を見て、しばらくして笑い始めた。なんで笑ってるか分からないけど、つられて私も笑った。顔が痛くなるくらい、私たちは久しぶりに馬鹿みたいに笑った。
「偉くない、か。そっか、そっか…」
ひとしきり笑ったあと、うわ言のようにあなたは呟いた。
「じゃあ、そんな偉くない私を救ってくれた神様の杏ちゃんも偉くないなら、もうこの世界なんて嫌い」
そうやって悪戯っぽく笑うあなたは走って屋上の柵に捕まり、叫んだ。
「神様の馬鹿!神様に近い私まで、神様はいじめるんだ!何が平等だ、そこにいるだけで崇められるからって、いい気になんないでよ!何も出来やしないくせに!」
最後の方はもうほとんど泣き叫ぶようで、聞いてるこっちが辛くなった。ぜえぜえと息を切らしたあなたに私は駆け寄った。
「杏ちゃんさ、私に嫉妬して、ちょっと嫌ってたでしょ」
言い当てられて何も返せずに居ると、あなたはまた笑って、
「そういうとこも私は好きだったよ」
涙が溢れてきた。臆病でごめんなさい。醜い感情を持ちながらあなたの恋人で居て、ごめんなさい。嫌いなのも、好きなのも本当だ。悔しいけれど、それが本心だ。
「ねえ、2人で神様と戦おうよ」
いつの間にかあなたも泣いていて、私はそれに頷くだけだった。

病める時も
健やかなる時も
悲しみの時も
喜びの時も
貧しい時も
富める時も
死がふたりを分かつまで

柵をよじ登る。思いの外高い。先に超えたあなたに助けられて、何とか私も向こう側にたどり着く。騒ぎを聞きつけた先生が私たちを見つけて、何か叫んでいる。
「杏ちゃん、生まれ変わっても私のこと、好きでいてね」
「死は、私たちを分かつことは出来ないものね」
あなたはわたしを強く抱き締める。わたしはそれに腕を回して、負けじと強く抱き締めた。
「椿ちゃん、大好き」
「…やっと名前を呼んでくれたね、杏ちゃん」
重心を傾け、落ちていく。
私はあなたのこと、今でも妬んでる。けれど、今でも愛してる。それはあなたと一緒だったらいいな。
2人で空に落ちていく。
あなたの匂いは、もうしなかった。

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