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inaba

「あ、見て、飛行機」
一学期の終業式の帰り道、夏芽が指をさしたのは、昼下がりの空のもっと遠く、青空を裂くみたいな飛行機雲だった。もう今年で18にもなるのに、この、空とか海とか田んぼとかしかない、この土地で生まれて、この土地で育って、こんな景色見慣れてるはずなのに、未だにそんなことで目を輝かせられる彼女に、聞こえないようにため息をついた。
夏芽は、周りにいつも「変な子」と言われていた(現在進行形かもしれない)。幼稚園の頃はいつも、うさぎのぬいぐるみと一人で喋っていた。小学校に上がってもそれは変わらなくて、先生にいくら怒られても夏芽はうさぎのぬいぐるみを毎日、赤の汚いランドセルに詰めて持ち歩いていた。ふと、夏芽のリュックに目をやる。汚くなってくたびれたうさぎの耳だけが見えた。
そんな夏芽だから、勿論彼女に友達はいなかった。ランドセルが汚かったのは、ぬいぐるみが汚いのは、夏芽の扱いのせいだけじゃない。
こんなド田舎だから、中学校に上がってもメンツは変わらない。進学しても夏芽はクラスで孤立していた。
それでも夏芽は変わらなかった。中学生になっても夏芽はうさぎのぬいぐるみを持ち歩いたし、無視されることを分かっている筈なのに、わざわざクラスメイトに「私、実はうさぎさんなの!この子とおそろいなの!」なんて言って、例のうさぎのぬいぐるみを見せびらかした。両手を頭の上に持っていって、うさぎのようなポーズまでして。

そんな夏芽と、私は幼なじみだ。

たまたま幼稚園で隣の席だったという理由で私たちは仲良くなった。私は夏芽を傷つけようとする人間から夏芽を守り続けた。先生や母に「あなたは優しい子ね」と言われるのが嬉しかった。シングルマザーで、未だに会ったことは無いが、いつも仕事で忙しい夏芽のお母さんに代わって、私の母はよく夏芽にも夕飯を振舞ったりしていた。

「もう夏芽ちゃんとは関わらないで頂戴」
母にそう言われたのは確か中学生の頃だ。母曰く、夏芽は、夏芽の母は"おかしい"らしい。最近夏芽が私の家に全く遊びに来なくなったのに気づいたのはその時だった。
そういえば、クラスメイトにも同じことを言われた気がする。私は夏芽と違って友達は多い方なので、その分''普通じゃない''夏芽の陰口もたくさん聞かされる。
それでも私は夏芽と友達で居続けた。だって、私は夏芽の唯一の友達。「気持ち悪い」と、夏芽に石を投げたあいつから守ったのも、あのぬいぐるみとの会話を引かずに聞いていたのも、夏芽のことを無視しないのも、夏芽の制服の裏、少し見えにくいところについた痣を知っているのも、全部私だけなのだ。
私と一緒の高校に入るために必死に勉強した夏芽。彼女に期待しないで私が高校のレベルを下げたおかげで私はいつも学年でトップの成績を取れてるし、実質win-win。

可哀想な夏芽。
私がいなけりゃとっくにこの夏に溶けて、寂しさで死んでしまってただろうに。
可愛い夏芽。
私がずっと一緒。
私が染みる潮風から守ってあげる。

「ねえ、夏休みどうする?」
夏芽の甘ったるい声で我に返る。もう飛行機はほとんど見えなくなっていた。夏芽の天然パーマのかかった茶髪が風で揺れている。
「私?受験生だし、勉強しかしないよ。夏芽も頑張ろうよ」
そっか、と言った夏芽の表情があからさまに寂しそうで、思わず私は笑いそうになる。
こんな底辺の高校で夏芽は下から数えた方が早いくらいの成績だ。いつもヘラヘラ笑ってるだけで物覚えも悪い。このままどこの大学にも行けない、なんてこともありうる。高校受験の時は私がレベルを落とすことで何とかなったが、大学受験となると訳が違う。こんな田舎のコミュニティで進学以外の道を選ぼうものなら、すぐに周りから白い目で見られるだろう。
だから、もしも夏芽が大学に落ちたら、2人でどこかに逃げようと思うのだ。夏芽がいないと私は存在する理由がなくなってしまうから。夏芽をひたむきに守る私という存在が消えてしまうから。幼い頃の夢とか、そんなものは最早どうでもいいのだ。

八月の半ば、夏休みの終わりが見えだした頃。
「海に行きたい」と夏芽は言った。恥ずかしそうに、うさぎのぬいぐるみで顔を隠しながら。海沿いの地域に住んでいるのに海に行きたいなんて、1人で行けばいいじゃないかと思ったが、夏芽は私と2人で行くことに意味を見出したらしい。
夏休みの間も学校は勉強する生徒のために解放されている。私と、私が居るからという理由で着いてくる夏芽はいつもそこで勉強していたので、夏休みの間も私たちはほとんど毎日顔を合わせていた。
その日は早めに勉強を切り上げて海に行った。自転車の後ろに夏芽を乗せて、下り坂を駆け降りる。時々「きゃー」とか「わー」とか声を上げる夏芽がバカみたいで愛おしかった。

「きれー!」
夏芽は靴を履いたまま海にバシャバシャと入って行く。靴と靴下を脱いで、私もそれに着いていくが、彼女は既にセーラー服の裾が濡れそうなくらいまで水に浸かっていた。
「ここに生まれてきてよかったー!ね、そう思わない?」
満面の笑みの夏芽に愛しさが溢れた。
私はそのまま彼女の肩を掴んで、思い切り突き飛ばした。彼女はそのまま海に沈んだ。足で水中に倒れ込んだ彼女の腹を踏みつければ、彼女は起き上がれない。
しばらくして足を離すと、彼女はすぐに水面に戻ってきた。その顔は笑っていた。
「もー!何すんのさ!ひゃー、制服もびしょびしょだ!」
キャッキャと笑う夏芽には、もう救いようがないということを再確認する。結局私たちはそのまましばらく、少し深く海に浸かったままはしゃぎ続けた。時々口に入る海水はしょっぱかった。

制服をある程度乾かさないと変な目で見られそうなので、夕方まで防波堤に2人で座って海を眺めていた。
正直、あのまま夏芽を殺そうと思っていた。その後に自分も死のうと思っていた。2人で逃げるなんてあまりにもリスクが高いことを私は分かってた。それならば、と思った。私は海が嫌いだ。あんなに青いのに、近づいてみればなんだ。結局汚いではないか。ゴミも、きっと死体も沈んでいる。こんなところに生まれたくなんかなかった。こんな気持ちになりたくなかった。
「私、どこで間違ったんだろう」
そう呟いてみたが、夏芽は不思議そうに私の方を見るだけで、何も答えなかった。彼女の腕の中にはあのうさぎのぬいぐるみが抱かれていた。

桜の木の下には、醜い死体が埋まっているから綺麗な桜が咲くらしい。
ならば、あの青く光る海にはいくつの死体が沈んでいるのだろう。

夏芽は馬鹿だ。幼稚で、どうしようもなく愚かだ。
でも、夏芽は他の誰よりも純粋だと思う。夏芽にはなんの翳りもない。ただひたすら綺麗なのだ。

9月1日。私があの時夏芽を殺さずとも、彼女は自分からその道を選んだ。入水自殺だった。あの海に沈んで居なくなったのだ。
遺体は見られなかった。水死体、しかも死後数日経って発見された。お察しの通りである。
葬式もされなかった。骨になって、あとは私も知らない。もっといえば、動機も、私は知らないままだ。
夏芽が居ない学校はそれでも何も変わらなかった。喧騒。
始業式、早く終わった学校から、私は1人で帰った。自転車を押して帰った。もう、そんなことする理由もないのに。
上空の方で低く唸る音がした。見上げると、空に切れ込みを入れるみたいに飛行機雲が出来ていた。真下は海。綺麗だと思ってしまった。綺麗だと思っていた夏芽は醜い死体になって、綺麗な海の肥やしになったのだろう。
何故か涙がボロボロと溢れる。口に入ったそれは、あの日口に入った海水の味に似ていた。

潮風が痛い。
寂しくて死にそうだ。

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