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エモ、あるいは思考の放棄

たまには自分の考えをつらつら書いてみるnoteもいいかと思って。

みなさん、「エモい」という単語はご存知ですか?若者のあいだでやたら使われているアレです。「まじ卍」とか、「えぐい」とか、そういう系統の。(古いとは言わせない)
「エモい」は「emotional」という1つの単語からなる言葉で、言葉に出来ないような気持ちに当てられた時、「エモい」を使うのだそうで。

私はエモいという言葉が正直苦手、嫌いです。
いやいや、16歳の高校生が何を言うと。そうじゃないんです。だって私、「まじ卍」は許せるんです。だって、「画狂老人卍」がいるから。葛飾北斎には勝てませんよ。

余談はさておき、エモいを忌避する理由を話したいと思います。
色々あるのですが、1番は「思考の放棄」。
人は五感から多くを感じとります。絵画、音楽、文学、映画、写真諸々、それらは私たちの世界をより彩るものとして、古くから愛されてきました。その素晴らしい作品を見て、人々は何を思うか。楽しい気持ち、重く沈んだ気持ち、心臓が高鳴る程のインスピレーションに駆られた人だっているかもしれない。全くおんなじ気持ちになった人なんていない。そしてそれらは何にも代えられない程の財産になりうる。それは皆さん周知の事実だと思います。

ではそこに「エモい」という概念を足してみましょう。
例えば、凄く泣ける映画があったとします。それは分かりやすく涙を誘うのではなく、日常のちょっとした一コマに幸せ或いは悲しみをにじませたもの。きっとたいそう心を動かされた。その時あなたはこう言う。
「あのシーン、まじエモくて泣けた!」

なかなかチープになると思うんです。文面の印象が軽く見えているのもありましょうが、もう1つ、そこには「思考の放棄」が根底にあると考えられます。
どう心を動かされたか?何にどう惹かれたか?「エモい」の3文字が、それらを限りなく抽象的にしているのです。
「言葉に出来ない」を理由にそこで考えるのをやめて、「エモい」で片付けている所に、私は勿体なさを感じます。朱色、紅色、茜色、これらを同じ「赤色」と表現した時の勿体なさに似ています。全部違う色なのに。

思考の放棄はきっと止まりません。デジタル化が進んだ今、考えるという行動が不必要になってきているのかもしれない。だけどせめて芸術、ひいては人の心に触れた時に、感じるということ、考えるということは捨てないでいて欲しいと思います。正解なんてそこにない訳ですから、何も恥ずべきものは無いのです。そうして得た考えや思いは、いつか自分を救うものになりうると私は信じています。

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