白い猩々

「ねぇ、死体埋めるの、手伝ってよ。」
宮部は、まるで一緒にコンビニなんかに行くのを誘うような話し方だ。私の目に映る光景はいつも通りなのに、違和感があった。目の前の彼女の服装__10月に入っても暑い日が続いて、現に今も長袖は少し汗ばむのに、宮部は長袖の黒いワンピースを着ていた。私はぼんやりと、去年の冬に宮部が同じワンピースを着ていたのを思い出したので、恐らくそれは冬用のものだろう。
宮部の顔は、憔悴しきっていた顔でも、何かを諦めた顔でも、殺人狂のような笑みでもなかった。本当に、いつもの宮部だった。教室で休み時間に話す時と一緒。鎖骨の辺りまでの長さの黒髪の毛先をいじるいつもの癖まで、本当にいつもの宮部なのだ。なのにワンピース以外にも、何となく違和感があった。
「ねえ、谷村」
イエスでもノーでも早く答えて、と言わんばかりの声色に、私は我に返った。なぜか焼けるように冷たくなった脳をどうにかしたくて、私はそのまま暫く宮部の二重瞼を見つめていた。

𓆛

自転車に2人乗りする時は必ず、宮部が私の自転車のハンドルを握る。閉塞的な田舎も、こうやって自転車を飛ばすと自由になった気持ちになる。疾しい気持ちにならないためか、家に私しかいない日の日暮れを見計らって誘っているあたり、死体を埋めに行くのは嘘では無いらしい。季節外れの暑さは、夕方は落ち着くものの、やはり長袖を着るにはまだ早い気温だった。赤い屋根の家から二つ目の角を曲がって、赤く錆びた橋を渡る__どうやらこの自転車は宮部の家に向かっているようだから、死体はまだ宮部の家にあるのだろう。見慣れた景色と、沈みきりそうな太陽をぼんやり眺めながら、宮部の家に向かう(であろう)銀色の自転車に揺られた。宮部はその間、一言も喋らなかった。私も何も言わなかった。それが得策だとも思ったから。

「これ」
宮部は家に着いて私をリビングに案内した。宮部の家は片親で、父親が毎日夜遅くまで働いているため、宮部と私しか居ないこの空間が、じっとり沈んだ寒さを演出した。
「1人じゃ埋められないでしょ」
なるほど死体だしな、少しわがままな部分もいつもの宮部だな、と思いながら、ふと眼前のテーブルに目をやる。
そこには紛うことなき死体があった。
私の目に映るそれは確かに死体だ__金魚の。
宮部の家には何度も遊びに行っているので、宮部の家が金魚を飼ってあるのは知っていた。リビングの隅の小さなテーブルに置かれた水槽で5匹、餌をしっかり貰っていたのだろう、鮮やかな赤い体の金魚があぶくを吐きながら泳いでいるのを何度も見かけた。その中で、ひときわ小さくて真っ赤な金魚は、傾国の美花のように水槽の中で振る舞うのを見ていた。宮部はその金魚のことを特に気に入っていたらしく、その金魚にだけは「ユキ」と名前をつけていた。鮮やかな赤い体なのに、それを清々しいほど無視して真っ白を連想させる名前。何となく宮部らしいなと思っていた。ユキもきっとここにあるのだろう。水槽の置いてあった方を見やった時、水槽は空っぽで水すら入っていなかったが、岩や流木などがやけに多いため気づきづらかったのだ。
ダイニングテーブルに敷かれた濡れてふやけた新聞紙の上に、数体の金魚が乱雑に積まれている。宮部は裏庭にこれを埋めたいらしい。
なぜか、なんだ、と思った。私は宮部にスコップを借りて、金魚が載った新聞紙を丸めて金魚を包んで家の外に出た。生臭い臭いがかすかに鼻についたので、外に出るまで息をあまりしないようにした。

「随分深く穴掘るんだね」
若干息を切らしながら宮部に話しかける。彼女は金魚を5体埋めるには十分すぎるほどの深さと広さを持った穴を掘っていた。彼女のワンピースは土に汚れ、顔や首だらだら流れる汗が、住宅街の寂しい街灯に照らされている。もうあたりは真っ暗だ。
こんなもんかな、と宮部が言い切る頃には、人1人埋まりそうなほどの穴が空いていて、金魚たちの墓にしては豪華すぎるほどだと思った。
金魚を包んでいた新聞紙を解く。プレゼントの包装を解く時みたいだと思った。この中にいるのは、プレゼントとは真逆な存在なのだが。
穴の丁度真ん中辺りに、金魚の死骸を置く。この間見た時より色がくすんで動かない金魚を1体ずつつまんでは土の上に置いていった。湿った金魚の体に土がこびり付いてさらに汚くなったところで、新聞紙ごと埋めれば良かったと後悔した。

4体目の金魚を手に取った時、それまで何も言わなかった宮部が急に口を開いた。
「あたし、金魚だって言わなかった」
宮部は跪いて埋める準備をしている私を見下ろすように立っていた。秋の風に吹かれて、黒いワンピースが靡いている。
「そうだね」
「あたしが人を殺したとしても、谷村はこうした?」
その質問に私は思わずハッとした。考えてみれば、お互いずっとおかしいのだ。季節外れの暖かすぎる程のワンピースも、この深すぎる、広すぎる穴も、金魚のことも、死体といわれたのに、なんの違和感も抱かずついてきた私のことも。
そしてその時ようやく、あの冷たく焼けるような脳味噌の感覚に気づいて目眩がした。宮部はそんなことお構い無しに話し続ける。
「ユキは、あたしが食べちゃった」
驚いて地面に置いたままの新聞紙を見る。もう上には何も置かれていなくて、水を含んだ重さと、それによって土とくっついたことで辛うじて飛ばずにいたようだ。穴には、金魚の死骸が4体。確かにあの小さい金魚だけがいなかった。
宮部は急に歩き出すと、穴の中に入る。宮部の足で金魚たちは潰されてしまって、私はそれから目を背けるように宮部の方を見た。
「ねえ、谷村、あたしのことも踏みつけて、埋めてよ」
うわ言のように呟いた宮部の右頬には何故か涙がつたっていた。

𓆛

「ユキは、ほかの金魚たちにいじめられてたの」
宮部は親に叱られた子供みたいに顔をぐしゃぐしゃにして、すすり泣きながら話した。
金魚は体格差があったり、数匹を同じ環境に置いたりすると、まれにいじめが起こることがあるらしい。水草などのレイアウトを置くのは、いじめられている金魚が身を隠す場所を作ってあげることにも繋がるという。思い返せば、宮部の家の水槽は水草や岩など、かなりの数配置されていた。
「あたし、あたしとユキを勝手に重ねてた」
宮部の家は母親がおらず、父親と2人暮らしだ。その父親も夜遅くまで帰ってこないうえ、裕福とはいえない暮らしをしている。宮部は幼い頃からその事で同級生から詰られることがあった。私は宮部とその頃から友達だったし、片親を理由に人をいじめる理由が分からなかったので、その都度同級生たちを怒っていた。それのおかげか、宮部に嫌な絡みをする人間はいつしかいなくなった。宮部は今でもそのことについて感謝の言葉を述べてくれるほど、私のことを慕ってくれているようだ。
金魚を飼い始めたのは丁度その頃、3年ほど前だった。普段ほとんど顔を合わせられない父親が、宮部が寂しいだろうと、5匹、あの金魚たちを買ってきたのだ。友達は多い方がいいだろ、と。小さい体に目を引く赤い体を持つユキはその時からのお気に入りで、5匹の金魚の中で唯一名前がある個体だった。
少し前、ユキがいじめられているのを見かけた彼女は、インターネットで対処法を学び、なけなしのお小遣いやお年玉をはたいて水槽に入れるための水草や岩を購入し続けていたのだ。
しかしその努力も虚しく、丁度昨日、ストレスによってかユキは死んでしまった。ユキは彼女が学校に行っている間に死んでいて、ほかの金魚たちに食べられていた。お腹の部分が少しなくなっていたという。
宮部は考えた。いつからユキはいじめられていたのだろう?本当はあの時、私が気づくより前にいじめられていたのでは?もしもそうならば、あの殺風景な水槽でユキは何を思っていたのだろう?レイアウト商品を置いて満足していたあの日々の中で、ユキは何を考えていたのだろう?死にゆく中で、ユキは何を思い出せるのだろう?食べられる己の体に、ユキは__?

宮部はユキを水槽から取り出すと、それをそのまま口に入れ、咀嚼して飲み込んでしまった。それはユキの弔いと安置、そして宮部自身の償いを意味していた。水槽の中の温度を急激に下げ、残りの金魚を殺した。いつもと違う挙動を見せながらゆっくり死に近づいて行く金魚を、宮部はずっと見ていた。黒いワンピースは喪服のつもりだったという。

𓆛

「なんで私が宮部を殺さなきゃなんないのさ」
「あたしはユキを救えなかった」
私が問いかけると、宮部は泣き腫らした目で私を睨んできた。
「あたしはずっと、谷村みたいになりたかった」
おそらく、私が宮部を庇っていたあの時期のことを言っているのだろう。人から人を庇うことと、言葉の通じない金魚から金魚を庇うことは訳が違うだろうと言いかけてやめた。
「ユキは昔の私みたいだったの。あたし谷村がいなくちゃ、逃げることしかできない。ねえ、あたしに色々言ってきたあいつらはユキをいじめた金魚たちと一緒だよ、言葉が通じないんだよ」
そこまで話された所でようやく、宮部が私の家に来たところからずっと宮部の様子は変だったことに気づいた。宮部はずっと苦しそうだったのだ。それに気づけなかった私は、もはやあの金魚たちと同然だとも思った。私は今の宮部になにか言える資格はない。それに__。
「私も、ユキ以外の金魚と一緒だよ、ごめん」
私がそう言うと、宮部はその言葉の意味に気づいたのか、膝をついて泣き叫んだ。宮部は縋るように私を抱きしめたけど、自分の腕を宮部の背中に回してあげられなかった。私まで泣きそうになった。代わりに私は宮部と唇を重ねた。宮部も私も、ユキをいじめた金魚たちと一緒だ。真似事に過ぎないけれど、互いを食べるような思いでキスをした。贖罪と情けを込めて。生臭い金魚の味がした気がして、少し泣いた。

𓆛

「谷村」
次の日の放課後、まだ少し腫れた目で私のところに来た宮部はなんというか、若干遠慮がちな感じだった。
「一緒に帰りたい」

帰り道はずっと真っ赤な夕暮れが眩しかった。それに昨日の昼間はあんなに暑かったのに、今日はびっくりするほど寒くて、今朝は焦って冬用のブレザーや上着を準備したくらいだ。
「昨日、ごめん、ほんとに」
今までに見ないくらい申し訳なさそうな顔をしてる宮部を見て、私は大笑いしてしまった。宮部は不満げに口を尖らせたが、安心したのか少しだけ笑っていた。何にも解決していないけど、多分これでよかったんだと思う。2人で歩いていくうちにたくさんの答えを見つけていけばいいのだ。それは宮部も同じ考えだったようで、私の家の前に着く頃には、いつもの私の友達の宮部に戻っていた。

𓆛

「ただいまー」
宮部と別れて、家に入る。その直前に家の隣のガレージに車が停まっているのを見かけて、私は少し大きな声を出してみる。母はおかえりなさい、と言いながらぱたぱたと駆け寄って来てくれた。
「昨日まで暑かったのに、もう冬になっちゃって」
困ったわ、と言わんばかりの母の顔は疲れているように見えた。目の下に隈がある。
「お母さん、夕飯は私が作るよ」
そう言うとぱああっと母の顔は明るくなる。子供みたいに分かりやすくて私はまた笑った。
「本当?助かるわ、それならお言葉に甘えさせて頂こうかしら」
母は鼻歌を歌いながらそのままリビングの方に戻っていったので、私はすぐに夕飯の準備をはじめた。
「本当、できた娘を持ったわよ。いつもありがとうね、雪」
キッチンのすりガラスの窓は空の色だけを室内に入れる。鮮やかな赤色の光が、キッチンを照らしていた。

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