恥ずかしくなって病んで咲いて枯れたりした。
自分らしくなんていうのは甘えで。
人間らしく生きるべきだ。
もっと自分とはたたかうべきだ。
叩きつぶして、残酷に挑むべきだ。
岡本太郎氏のうけうりです。
人間らしくは人によってきっと違う感覚。違う到達点。
どう考えるかはたぶん自由で、でもとにかく、今のそのままが自分らしさなんて自分自身で思っているような生き方は、全然カッコよくない。
もっと壊したり求めたり絶えず使い果たして生まれなおしていく方が素敵だって思う。
大坊珈琲を味わう会。
参加した回の最後では、珈琲を挽く際に出る微粉の話題になった。
抽出段階において、味を決めやすいのは挽きの細かさ(粗さ)。
細かく挽けば表面積が増えるから成分がより濃く抽出されるようになるし、粗ければその逆だけれど、どちらにしても、挽いた粉の粒度が揃っている方が、抽出が均一になり、きれいな味わいになる。
そこに微粉が多く混じると、その一部だけが過抽出みたいな状態になるからどうも、雑味の印象が目立って出てしまう。
おいしいコーヒーを淹れたいのならミルにはちゃんと投資するべきだというのが、やはり正解なんだろう。
手挽きでも電動でも、この頃の高価なものは、技術を以って進化している。
それでもやはり、均一なんてありえないから、本当にこだわるときには器具を使って選り分けてから抽出に入るという人までいる。
そうやって一杯の珈琲をつくる人のこと、尊敬している。
(美味しんぼにも、そんなお米のいい話があった)
ただ焙煎士としての大坊さんの考え方。
微粉は出るもの。
だから微粉を一緒に抽出しても、おいしいコーヒーを焼く。そういうことにこだわる。啖呵をきる。言ってみせる。
取り除いて、抽出されないものがあることを、良しと思わない。
全てを抽出しようというあり方は、教科書的ではないかもしれない。
でも大坊さんは、最後のアクまでも抽出しきり、カップに注ぐ。
豆の一粒が含んでいるもの全部をそこに、あらわすように。
…この微粉うんぬんの話、自意識の塊のような私は、自分に言ってもらっている気になって、あとからあとから、たまらず泣けてしまったのです。
ただ肯定してくれるのが、やさしさとは思わない。
本当のやさしさは、覚悟をともにするような、愛にも似ている。
…大坊さんのはちゃんとやさしかった。
一粒の珈琲にだけではなくて、人やものや、あらゆるすべてに向いている気がしたそれは、勘違いではないと思えた。
私ってもうまずいとこばっか。全然このままでよくないんだけど。
人間らしいってどういうことか、この先だって何度も何度も、今を否定しながらやっていくんだと思うんだけど。
ビフンもあるのがあの日、ちゃんとおいしかったって、時々思い出すようにします。
そんなことあなたにも証明したくて、おいしいの出したくてがんばります。
だからね。
ダメダメだったって今日、落ち込んでいてもいいよ。
自分と存分にたたかっていてね。
だってほんとにこれからだもんね。
たまに休憩しながらならまだちょい、お互い無理してやってけそうじゃない。
…やっぱり私、真面目に焙煎また始めたいって思うんだ。