市民科学とは何か/市民とは誰か
「市民」という語の捉え方は人によってさまざまだろう。
ある人にとっての市民とは階級の一つかもしれない。
またある人にとっては社会などの共同体を構成する人間全てかもしれない。
あなたにとっての市民とは誰だろうか?
あなたは誰にとっての市民だろうか?
前書き/vibes
筆者は、20数年という短い人生において、個人による意見や関与が許容されているにも関わらず、自らの生活や共同体としての活動に関わる意思決定や合意形成に対して、個々の存在や意見が関与し得ない場面が非常に多い、言わば除け者にされ続けていることに違和感を感じてきた。
これは、自身の発言こそ他者の意見よりも正しく精確であるという自尊心を主張しているのではなく、むしろ逆である。
個人の発言や意見の脆弱性や弱さを自覚しているからこそ、共同体を構成する全市民が相互に補完し、合意形成に参画することの意義を主張しているのだ。
人には人の個性、表現方法、相互作用の仕方があり、それらを尊重し自由度を底上げすることで、動的にバランスを取っていこうという発想である。
こうした考えを持つ筆者にとって
市民科学とは、主体性と能力の個人への回帰を促すための一方法論なのだ。
Intro
では、具体的に「市民科学」とはどんなものか?
多くの場合、職業的専門家などのプロフェッショナルに対して、非専門家である市民がアマチュアとして研究に参画することを市民科学と指す。
直接/間接的に関わる場合、全体/部分的に関わる場合、専門の多様性、発言者のスタンスなどにより「市民」と「科学」という語の関係性は異なってくるだろう。
市民の中でプロとアマチュアを線引きするのは、昨今では専ら「職位や学位, 経験, 実績, 又そこに費やした年数」などが分かりやすい指標だ。
では、プロはアマチュアをどの時点からプロと呼ぶのだろうか?
スポンサーやレーベルと契約したらプロだろうか?顧客, 納期の有無?
どうだろう?特殊なこだわりや事情がない限り、正直どうでも良いのではないか?
他者を市民と呼ぶのも、プロとアマチュア、それらに準ずるカテゴライズをするのも、決めるのは自分の価値観であり自由だ。
しかし、他者の価値観に振り回されないために忘れてはならないのは、あなたの価値観が何に影響され、何に根ざしているか、「こだわり」や「事情」は何のためで根源は何か、こうした価値観の言語化だ。
自身の価値観と向き合うことであなたにとっての市民が見えてくるだろう。
伝えるための表現の努力をしなければ、他者も自分も振り回してしまう。
ちなみに、筆者にとっての市民とは人類全体である。自分でもまだうまく言語化出来ないが、anarchistとcosmopolitanistの二面性を持っているように思う。要は、合意形成に関してまだまだ課題があるものの「人類皆平等だよね」というバイブスだ。
また、「主体性を持った行為, 又その度合い」がポイントであると考えているため、プロアマも関係なく志を共有するなら協働すれば良いと考えている。
さて、こうした考えを持つ筆者は、昨今の市民科学という語に関して、以下のような意味の分類が出来るのではないかと考えている。
1. 市民と連携した研究 (データ取得のための協働など)
・市民参加型
・タスクソルバ型
2. 市民に対する説明/調査 (市民に対する情報開示や意見聴取など)
・情報開示型
・意見交換型
・教育型
・調査型
3. 市民による科学 (市民各自が主体となる研究など)
・日常生活型
・DIY型
・コミュニティ型
1. 市民と連携した研究
アカデミックな文脈で用いられる市民科学の多くはこの分類に属するのではないだろうか。職業的な専門家やある組織によって立てられた仮説、方法(観察方法やプロトコル)に基づいて、市民参加を募る、もしくは意識的ないし無意識的にタスクをこなすよう促すプロジェクトなどが挙げられる。職業的な専門家やある組織によって立てられた仮説、方法(観察方法やプロトコル)に基づいて、市民参加を募る、もしくは意識的ないし無意識的にタスクをこなすよう促すプロジェクトなどが挙げられる。
市民参加型
専門家から市民に協力を要請する場合が多いが、野鳥や特定外来生物、星、形状、物質などを探してもらうようなプロジェクトなどがある。
この場合、市民はある研究プロジェクトのクライテリアに則って参加する、クラウドソーシング/主体的なセンサーとして関わっている。
タスクソルバ型
意識的(又は半ば意識的)にタスクをこなすものでは、タンパク質の構造解析をゲーム感覚で行う「Foldit」やセキュリティサービスとして文章や画像のデジタル化や地理情報処理などを支援する「reCaptcha」などが例に挙げられる。
一方、無意識的にタスク処理に関わるものでは、市民が何気ない日常で用いるデバイスによる計測データを用いる例として、市民の位置情報を用いて地図形成に役立てるなど、自動センシング端末の運び手として関わる場合もある。一方、無意識的にタスク処理に関わるものでは、市民が何気ない日常で用いるデバイスによる計測データを用いる例として、市民の位置情報を用いて地図形成に役立てるなど、自動センシング端末の運び手として関わる場合もある。」などが例に挙げられる。
一方、無意識的にタスク処理に関わるものでは、市民が何気ない日常で用いるデバイスによる計測データを用いる例として、市民の位置情報を用いて地図形成に役立てるなど、自動センシング端末の運び手として関わる場合もある。
補足
市民が積極的に参加するための取り組みやプロジェクトのデザインを行うことで、職業的な専門家だけではこなすことができない煩雑で膨大な作業を加速、サポートすることができるこの考え方は、研究者やプロジェクトの主体にとって非常に魅力的に映る。事実、上記のような関わり方は世界中で非常に多く見受けられ、多大な功績に非常に多くの市民が貢献している。
一方で、こうしたプロジェクトに参画する市民は末端でデータの取得や処理を行う役割以上の参加を想定していない場合が多い。
クラウドソーシングという言葉で対等性を無視してはいけない。
2. 市民に対する説明/調査
この分類は、主に行政や研究機関が主導の計画などに際した合意形成を行う際に開かれる市民への説明会であったり、リテラシー教育、プロジェクトデザインに対する意見聴取などが該当するだろう。
情報開示や意見交換、教育、インタビュー/アンケートによる調査などによって職業的専門家から非専門家である市民に対して情報を提供、市民からは「意見」を募集する。といった具合だ。
情報開示型
施設の一般公開やアウトリーチ活動がこの分類に当たるだろう。
施設の一般公開は特に市民への情報開示を目的としたものが多く見られる。安全面やセキュリティの観点から普段は一般公開されていない空間を非関係者である市民に公開することでアウトリーチ活動にもなり、教育効果や周辺住民への理解促進にもつながる可能性があるため、様々な施設で行われている。ちなみにJAXAの特別公開イベントは非常に楽しいので一訪の価値あり。
情報開示が一方通行的で対話性は比較的低い。
意見交換型
施設/インフラ建造や開発時に開かれる説明会がこの分類に当たるだろう。
職業的専門家から市民に対して情報を開示しつつ、比較的対話的に市民からの懸念点や質問に対して専門家が回答及び情報を整理し研究や開発のプロセスに反映するというものだ。
プロジェクトの性質やプロジェクトの主体に依存するが、多くの場合、形式的な意見交換であり、専門家と市民が対等ではない。
教育型
教育ワークショップやセミナー/資料等の公開がこの分類に当たるだろう。
職業的専門家と市民の情報格差を是正し、より主体的かつ効果的に研究などのプロジェクトに参画できるようにするためのリテラシー教育はさまざまな年齢や属性に向けて実施されている。
学生向けの長期休暇時の合宿やイベント、勉強会から一般向けの公開セミナー、書籍や資料の公開など、そのメディアの性質によって市民の関わり方が異なる。対話性も企画によりさまざまだ。
ただの情報開示に留まらず、専門家と市民がいずれ対等な立場になり情報の受け手から作り手へと変化するロードマップのデザインが非常に重要であると筆者は考える。
調査型
「市民の要請に基づく調査」や「市民に対する調査」がこの分類に当たるだろう。
・前者は、職業的専門家に対する市民からの意見や要請、タレコミを参考に研究を行うモデルだ。一つ目の分類の市民参加型に近いように思えるが、仮説や着眼点が市民が主体的起点である点が特徴だ。
・後者は、職業的専門家が市民の行動や影響を調査することで研究を行うモデルだ。市民が主体的起点である必要がないため参加感が低めだ。
補足
研究倫理や技術倫理を科学者コミュニティに閉じた不透明な議論で定めてしまうのがまずいことは想像に易いだろう。
限られた人間による合意形成は未曾有のリスクに対してはあまりに脆弱だ。
現実世界という複雑系は捉え所がなく、この複雑系に対して、要素還元的な「有識者」だけで挑んでは歯が立たない。
例えば、街づくりに際して、デベロッパーや都市の専門家、ランドスケープ業者、行政、デザイナー、広告代理店だけで取り組んでよいのだろうか?
住民や来街者などの利用者たちの声を聞き入れる取り組みに関してはSherry R. Arnsteinの"A Ladder Of Citizen Participation"で詳しく論じられているが、形式だけの意見聴取ではいけない。
筆者が学生時代に憧れたKevin Esveltは、Gene Driveのフィールド実験に際して、現地の市民だけでなく先住民らへのヒアリングも根気よく行っていた。
一言で市民というだけではその中での多様性が見えなくなりがちだが、この取り組みでは、研究者自らが多様なアイデンティティと原風景を持つ多様な個人の意見に真摯に耳を傾けることで自らの倫理観を更新、補強するための努力をしていた点が非常に興味深い。
職業的な専門家が自身と市民を切り離して考えてしまうと本質的に対等な議論にはならない。専門家である以前に自身がであるかを忘れてはならない。
Be humble.
3. 市民による科学
やっときました、本丸。
この分類に当たるのは、市民が主体になって探求を行う「市民科学」だ。
二つ目の分類で市民が主体的起点になった例を紹介したが、本項では市民が主体になる場合について触れる。
日常生活型
"我々"市民は、誰もが日常のどこかで仮説検証を行い、少なからず自身の記憶や本能にアーカイブを残している。
例えば料理をする際
「塩を足したら水気を切れるかな」「とろみが足りないときは何を入れようか」「焦げないように焼く時間を短くしよう」「刺身に何かかけよう」
例えば部屋を片付ける際
「重いものは下に置こう」「危ないから尖ったものは収納しよう」「どこに何をしまったか記録しよう」「この大きさのタンスなら除湿剤は一個かな」
などなど、何気なく脳裏に浮かんでは消える仮説や検証、誰もが日常的に行い失敗を繰り返して脳内のアーカイブを更新していく。
最初は人づてに聞いた情報や調べた情報を「使って」行動してみるが、時に間違えたり、代用したり、楽をしようとしたりして、いつの間にか自分で新しい発見を積み重ねて知識体系を「作って」は更新し続けている。
DIY型
天体観測や野鳥観察、自宅での細胞培養や園芸、家庭菜園、日曜大工などなど、個人が主体的に自らの仮説やアイデアに基づいてプロジェクトなどを行うことをDIYやアマチュアなどの接頭辞をつけて論じられることが多いが、既製品を用いない、自己資本による活動など線引きの仕方は多様である。
日常生活型と分けたのは、DIY型は食事のように生活に必ずしも必要ではない文化活動に近いと捉えたからだ。科学的な探求行為もそうした文化活動として、近代的な事例よりもはるか以前から存在している。
Johan HuizingaのHomo LudensやSeymour PapertのConstructionismのように主体的な行為を通して体系を構築し、体系を通して現実世界と触れ合うのがDIY型の特徴である。アーカイブを手記やイラスト、論文などの形式でインターネットや書籍、ブログ等で公開する者もおり、職業的専門家の中にもDIY型の活動をしている者もいる。
生物学界隈においては、職業的専門家でない者が積極的に活動している事例をDIYバイオやキッチンバイオ、ストリートバイオなどと呼ぶこともある。
コミュニティ型
市民は一人ではない。
個々人が情報を共有し、相互作用することで、知識体系が作り上げられていく。いわゆる人類の英知だが、作っているのは他でもない"我々"市民だ。
コミュニティ型では、アーカイブを残し共有することが重要である。
アーカイブは、レシピや仕様書、プロトコルなど設計図や方法論の記録に加え、それらを用いて仮説検証を行ったプロセスと結果を主観的及び客観的に記述することで他者への伝達が円滑になる。
そうしたアーカイブは、論文や書籍、音などの作品の発表やメイキング映像やコードの公開という形式で他の市民と共有され、それらが相互に引用し合うことで市民全体の集合知を作り上げていくのが特徴だ。
「git」のようなバージョン管理システムや「オープンアクセスジャーナル」、「Creative Commons」、そしてこうしたインフラを作る"偉大な市民達"によってこの集合知の形成が比較的容易になっている。
こうした集合知を「使う」だけでなく、自ら「作り」集合知に積極的に関わる土壌を作る動きとして、MIT Center for Bits and Atoms(CBA)とMIT Media Labによる「Fab Academy」や「FabLab」などの市民による主体的な学習とモノづくりを支援するオンラインコースや施設もある。
Do-It-YourselfからDo-It-With-Othersへ
DIY(Do It Yourself), そして, DIWO(Do It with Others)への道のり ~Chiptune Marching Bandの活動を通じて~, 城 一裕, 2010
https://doi.org/10.3169/itej.64.1465
長い補足
これまでの「職業的専門家」やそれに対する「市民」という位置づけを散々してきた流れを受け「非専門家である市民が主体とはどういうことか」というお気持ちになる方もいるのではないだろうか。
そもそもこの分類において、専門家とは何かに詳しいという以前に皆平等に市民である。
市民は、自らの意思に関わらず、周囲の社会や環境と相互に影響しあうことで独自のアイデンティティや世界観、原風景を獲得し、個々人がそれらに裏付けられる個性をもって生きている。(と筆者は考えている。)
そうした個人、またその集団が生きる複雑な世界を複雑なままでは理解するのは大変難しいので、科学や芸術など要素要素に分解し言葉を与える行為がそれぞれの個性にあった言語を探す手助けになる。しかし、そうした要素への分解は視野狭窄に陥れる危険性がある。
西周が"Encyclopedia"という語を、「百学連関」と翻訳したのは、そうした視野狭窄や分野間の隔絶から脱却し、複雑系であるこの世の中を共に生きようという宣言だったのではないかと筆者は考えて止まない。
(教えてくれた津田さんありがとうございます。)
西周の現代的意義, 小泉 仰, 2012
https://core.ac.uk/download/pdf/234717748.pdf
個々人の個性には得意不得意があって当然である。
寿命やら何やら制限の多いこの世の中で万能を目指すのは容易ではない。
しかし、足りない者同士、他者と共感/共創することでそうした不得意を相互に補完し、共に生きることができる。
異なる個性を持った個人の相互作用によって思ってもみなかった表現や発明、発想が生まれる。
ここで気をつけるべきは、発展途上での搾取構造や独善的なプレイヤーの存在である。明確に分かれば良いが、本音と建前で隠されている場合もある。
筆者は、個人の可能性に期待し、個々人の相互作用が最大化することを願い
3つ目の分類である、市民が主体である「市民科学」を強く推している。
あとがき/feelings
改めて、なぜ筆者は今回のような文章を書いたのか。
これまでも度々、なぜ市民科学や民主化という言葉を使うのか、なぜ生物に関係することなのかといったことについて自問自答もするし他者から聞かれることもあった。
その都度、生物学という世界観があらゆる探求行為の起点になることの面白さ、その行為は誰しもが生まれ持った肉体だけで始めることができるということをあの手この手で言語化してみていた。
例えば、その面白さとは、共感/共創などに欠かせない人類の共通言語を獲得すること、全生物の共通言語を獲得するということであり、この面白さが腑に落ちれば他のことも一気に何倍も楽しくなることを伝えたかった。
自分の言葉はまだ弱い。だからこそ繰り返し言語化しようと考えている。
昨年、サウンドスケープについて勉強をしていた際に九州大の城一裕さんから教えてもらったFrancisco Lópezの文献を読み、主体性に関する考えが一気にまとまった。
また、Clubhouseで青木竜太さんと朝晩近況報告ができたり、伊藤光平くんやPlacyの鈴木ソーマ、「Creative Footprint Tokyo」の伊藤佳菜さんと喋ったり、深夜に友人の悩みを聞いたり、podcastを録ったり、論文を書く際の雑談やmedia lab時代の友人達との議論を回顧をしたり…
いろいろと重ねていくうちに、何となく自分の言いたいこと、やりたい事がクリアに考えられるようになってきたのだ。
表現欲がじわじわ溜まっていたが、決め手は津田和俊さんや酒井康史さんとの近況報告、Ricky&たけせーとの表現/鑑賞/共感に関する主体性や責任、態度の議論だった。これについてはまた別の機会に書こうと思う。
これまでは、何かあると長文をFacebookに投稿したり、信頼する人々に長文DMを送ったりすることが多かったのだが、今自分の言いたいことをテーマ毎に記述し、アーカイブとして比較的閲覧しやすい形でこれまで関わってきた人たちに伝えると何か良いことがあのではないかと思ったのだ。
直感で生きているのでまずやってみる。そんな"お気持ち"で書いてみた。
影響
本文やあとがきでも少々触れているが、こうした文章を書くにあたって、筆者が受けた影響を、本文の内容に紐付けて記述できる範囲であげてみたい。
筆者の考えに大きな影響を及ぼしたの前述のFab AcademyやConstructionismといった学びの概念を継承し提示し続けているMIT CBAやMIT Media Labである。このコミュニティから受けた影響は非常に大きい。
筆者は、(今振り返ると)高校を出て社会に踏み込む一歩目がmedia labだとどんな人間が出来上がるのかという実験的なパスを歩んだ訳であるが、思想/姿勢という面でもJoiさんと日本のインターネットの父、村井純先生や彼らのコミュニティの影響が何よりも大きい。とはいえmedia labとは一言では括れない。バイブスは千差万別で、市民科学やOpen-hoge系を扱うグループにもいろんな思想背景がある。
筆者の所属していたCommunity Biotechnologyグループでは、Fab Academyの思想を受け継いだBio Academyというコースを提供していた。PIのDavid KongはDJで詩人系ラッパーでフォトグラファーで音楽系コミュニティハウスEMWの管理人でもある。マイノリティが集い緩いcollective of individualsなクリエイションが巻き起こるEMWの屋根裏部屋に筆者も住んでいた。
このコミュニティでは全員が平等に自由で、ギルド的に案件やプロジェクトを持ち寄り生きていくためのリソースもクリエイティブなリソースもシェアし合う。この影響も大きい。
本文中で津田さんの名前を度々出しているが、初めて山口情報芸術センター[YCAM]に訪れ、スタッフの方々が話しかけてくれた時、それまでの自分の殻が壊れた。特にインターラボの方々との対話なくして今の自分は存在し得ないと思う。感謝しかない。好きです。これからも一緒に仕事したいです。
正直、こうした影響を受けるまでは、言語化できないが何か無視できない生き辛さを常に感じていたが、それに対して向き合う言葉やリテラシーを持っていなかったが、今となっては、持ち前のお喋りな性格のおかげか、本当にいろんな人たちと繋がり、集合知をどんどこ膨らませることができている。
新潟時代からの仲間であるRickyはもちろん、上京したてで困っていた時助けてくれた仲間たちや恩人たち、お金がなくて何も買えなかった時にすっと本や資材を差し出してくれた人たち。いろんな人に叱咤激励されて今もすくすく成長中です。
なんだかshoutoutsっぽくなってしまったが、とにかくいろんな影響に感謝してます。意見の対立も価値観を磨く上では非常に有用です。
筆者について
Kosuke Katano
1997年新潟生まれコシヒカリ育ち
野生の研究者という肩書きは、昔知人にに付けてもらったものだ。
在野の研究者なのか、野生についての研究者なのか、そもそも研究者なのか、よく聞かれるが、品もなく肩書きでモチベーションを保ってもいないので、hookになるなら正直なんでも良いタイプだ。提案されると地味に嬉しかったりする。
錯覚であれ自分で獲得した自由で生きているという主観的な体験ができるとやる気が出る。
人と楽しさを共有、共感して一緒にわちゃわちゃ共創するのが好きなので、お互い否定をせずに優しく穏やかに対話ができると嬉しい。
今も昔もスタンスとしては皆と同じ"市民"なのだと考えている。野生の研究者や独立研究者、さまざまな呼び方はあれど、要は仕事としてではなくライフスタイルとして仮説検証を行いアーカイブ作業を行っているのだと考えている。方法はその時のバイブスでいろいろあるだろう。
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