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うんこは、嫌われ者か?

Facebookでうんこのパーマカルチャーにおける循環について書かれていた投稿を読んで、真っ先に浮かんだのは、森山直太朗さんの『うんこ』だった。

この歌は、子どもが小さい頃に教えてくれて、散々聞いて大笑いしていたのだけど、ここには本質的な問題が隠されている。

さっきまで体の中にいたのに
出てきた途端
いきなり嫌われるなんて
やっぱりお前はうんこだな

『うんこ』作詞 森山直太朗・御徒町凧

排泄物は、体内にあるときは自分と一体にも関わらず、体外に排出された途端に嫌われて、分離される。うんこは、単に分離されるだけでなく、嫌われ、トイレで流され、なかったことにされてしまうのが、現代社会の扱い方だ。

一方、自然界やパーマカルチャーなどの循環型社会においては、うんこは、分解者とカテゴライズされる他の生物のエネルギー源であり、分解され無機物となり、再び植物の生育に利用される資源として扱われる。

前者を「排除・分離」の世界観とすれば、
後者は「循環・統合」の世界観と見ることができる。

ここで、母親と胎児の関係に置き換えてみよう。

母親の体内にあるときは母親と胎児は一体であるが、出産と同時に母体と分離し、個別の存在となる。

胎児の場合は、出産と同時に愛され慈しみの対象となるのが一般的だろう。愛を与えて育てた子どもが、愛を与えてくれる、これは愛の循環と言えるだろうし、両者の関係は永続的に続く。後者の「循環・統合」の世界観といえる。

しかし場合によっては「子どもを生まなければよかった」という忌み嫌う対象にもなりうる。逆に子どもが親の態度を見て「生まれてこなければよかった」というケースもある。そのような関係性になると、途端に前者の「排除・分離」の世界観になる。

うんこの話から、親子関係の話に飛び火したが、結局のところ、何かを捉えたときに「自分とは異なる、不快だ、あってはならない」と考えた途端にそれは「排除・分離」の世界観になる。「水に流してなかったことにする」とは、その現れだろう。

しかし、「物体としては別になっても、自分とつながっているし、それは循環する」と見ると、それは忌み嫌う対象ではなくなる。

更に一歩すすみ、うんこも、子どもと同じように「愛」であると捉えてみるとどうなるか。

愛は循環し、その循環によって自分も世界も豊かになる。

愛そのもののはずな子どもも、認知によっては不快の対象となってしまう。
その逆に不快そのものの、うんこも、「愛そのもの」として受容できるのではないだろうか。

森山さんの歌のこんな続きを考えてみた。

月曜の学校帰りに
お腹が痛くて
我慢できずに
木陰で出したうんこ
金曜に行ったら
もうなかった。

次の月に
その木の横を通ったら
その場所から芽がでてた。

そのとき気づいた
嫌われもののうんこは
自然にとっては
贈り物だったんだな。

そうかお前は
いいやつなんだな。

『うんこ』続き 作詞:懸田剛

本来は、すべては愛そのものであり、人が認知を変えるだけでいいのではないか、そんなことを「うんこ」は教えてくれる。

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