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智慧を身体に刻み込む「我守破離」というモデル

「守破離」の本当の意味知ってる?

有名な「守破離」という学習モデルがある。これについて、色々疑問をもって以前調べたことがある。

根本的な問いとして、最初から「守」として型を受け入れるところがスタートでは、本当にその「守」が必要な理由、型が生まれた動機が掴めないのではないか?という疑問があったからだ。

「守破離」については、多くの人が勝手な解釈をしているので、冒頭のscrapbox(cosense)のリンクでは、守破離の起源や本当の意味を調査したのでぜひ見ておいてほしい。(ちなみに調査は『甲陽軍鑑』を入手するところまで行ったが、入手した部分の『甲陽軍鑑』の中で守破離に言及する部分を見つけることができずに途中で断念した。国会図書館などで調べることができる方はぜひ教えていただきたい。)

「守破離」から、「破守破離」そして「我守破離」へ

経験則として、個人的に意識してやってきているのは、なんでも「これをやるとうまくいく」という成功例(=型)がある場合、まずは我流でその型に囚われずに自分で試行錯誤してやってみるということだ。

自分で試行錯誤してやってみると、うまくいくこともあれば、うまくいかずに詰まる部分も出てくる。現場でやってみてうまくいかないことは、大抵様々な制約の組み合わせで解決するのが難しい場合が多い。

  • 「あちらが立てば、こちらが立たない。」

  • 「この問題を取り除きたいが、どうしてもうまくいかない」

  • 「どうしていいかまったくわからない」

という悩み・葛藤が現場で生まれてくる。

こういった切実な悩みに対して、光を当ててくれるのが、それらの悩みを解消する先人の智慧だ。

この、我流でやったときの「どうしてもうまくいかない」という切実な悩みはその人の身体に刻まれており、そこを一気にブレイクスルーする解決策が見つかった時に、人は強烈なAha感、「その手があったか!」を感じる。

この悩みのどん底から一気に浮上したかのような解放感を感じた時に、その人の中で身体知として刻まれるのだと思う。

では、この身体知として刻まれるには、一度思う存分悩んでおかないといけない。この苦悩を刻み、そこをピッタリと埋める解決策が見つかると、そこに智慧として刻まれるのだ。

このプロセスを体験するためには、一度苦悩を刻む、つまり「我流でやってみて、試行錯誤をするも、うまくいかずに悩み抜く」体験が必要だ。その体験を経て、解決策の価値・有り難さ・必要が実感できる。

悩みたくない、という心持ち、最初からうまくいくことを期待しているのでは、身体知として智慧が刻まれることは決してない。表面的にうまく行っているのは、単に誰かの智慧を借りて表面をなぞっているだけなのだ。表面をなぞっているだけでは、

「なぜ、この一手間が必要なのか?」という問いに、体験をもって「XXXだから必要だ」と答えることが出来ない。「そういうものだから」あるいは「XXXだから必要だ、と(本に書いてある|誰かが言ってる)」と返すのがせいぜいだ。

ここで「守破離」について考えてみたい。守破離とは、既に体系だった方法論を学ぶ際に、守るべき型やルールがあり、それを学び実践することにより身体に染み付かせることが目的だ。

しかし、既に誰かが体系立てた方法論や解決策をなぞるだけでは、その方法論がどのように生まれたのか、どのような葛藤があったのかの身体知は当然得ることは出来ない。先に述べたように、最初から「守」で始めてしまうと、智慧が刻まれる前段階の苦悩は刻まれることはない

本当の身体知・智慧として身につけるには、一度悩み抜くというプロセスが不可欠であると考えるならば「守破離」という学習モデルは明らかに手薄であると言わざるを得ない。

そのような意味づけで、以前から守破離を拡張した学習モデルとして「破守破離」というものを提唱してきた。まずは「守」から始めるのでなく、あえて「守」を破ってやってみるというプロセスを組み込むことで、苦悩を刻むというプロセスを体験することができるからだ。

最近、他者に上記のような話をしている中で、ふと浮かんできたのは「破」ではなく「自分でまずはやってみる」という「我流」のプロセスなのではないかという気づきだった。自分なりにコンテキストに身を置き、試行錯誤してみる。その中でうまくいかないことにぶつかってみる。この体験こそが、その人の中で智慧を刻む前段階の苦悩を刻む体験につながる。その苦悩の時間を必要十分に体験すれば、その後の解決策、「守」のような先人の智慧の価値が本当の意味でわかるのだ。

なので、新しいモデルとして「我守破離」を提唱したい。まずは「」、自分なりにやってみるというプロセスを学習に組み込む。苦悩を刻み、そして先日の知恵を刻み込んで、己の智慧にするのだ。

智慧とはタトゥーである

ここまで書いてきて気づいたのは、このモデルは、身体に傷をつけ、そこに色素を流し込む、タトゥーと同じなのだろうということに気づいた。傷をつけずに皮膚に絵を描いても、その絵は表面的にすぎず、いつかは消え去ってしまう。見た目が同じシールを貼っても同じだ。それは表面的にすぎず、いつかは剥がれ落ちる。

「失敗させる」というモデルは教育上の必要性も言われているが、「ワークショップで失敗してもらって、あとでうまいやり方を教える」という練習・トレーニングの一貫、という軽いものというよりも、実際の現場における失敗や苦悩、自分なりの試行錯誤を体験することが必要となるだろう。

模擬ではない、本当の苦悩であるほどよい。

人生において、自分の意志に関係なく大変な思いをしている方が沢山いる。そのような方々が生きてきた人生、苦悩を乗り越えて今に生きているプロセスは、それ自体がタトゥーであり、一人ひとりにとって思い出したくもないような出来事も数多くあるはずだが、それでもなお、そこに刻まれた一つ一つは美しいデザインのタトゥーとして刻まれているのだと思う。

智慧とは、それらの人生の苦悩のように、悩み、もがき、苦しんだ中で掴み取ったであり、だからこそ後世の人を広く明るく照らすのだろう。

パタン・ランゲージも「我守破離」で

これは「守破離」の学習モデルにとどまらず、「パタン・ランゲージ」のような解決策のコレクションにも当てはまる。この場合、パタンが「守」となるだろう。

最初から失敗せず成功するためにパタンを使おうとする前に、自分なりに試して苦悩するというプロセスを意図的にどう組み込むかが、重要だ。

パタンでは「フォース」と呼ばれる、その場における問題の解決を難しくしている場の力の働きがある。そのフォースを現場でうまく対応していくかが、ある場(コンテキスト)における問題解決の決定要因となるからだ。

現場の苦悩を知らず、最初から「パタン」を使っていると、このフォースの存在に気づかない。なぜそのような解決策になっているのかが、たとえ頭で理解したつもりでいても、実際にはわかっていないままだ。「我守破離」であれば、「我」の段階で現場における問題解決を難しくしているフォースを強く感じるため、なぜその解決策が有効なのかが、頭ではなく身体でわかる

ある分野のパタン・ランゲージに興味を持つ人は、それまで自分なりに取り組む「我」のプロセスを経ている可能性が高い。そのような人であれば、パタンとしてまとまっている解決策を見た瞬間に、「ああ、自分が探し求めていたのは、これだ!」というAha感を感じるはずだ。実際、自分が20年ほど前に、現場の苦悩していた悩みを解決するパタンに出会った時が、まさにこの瞬間だった。

逆に現場で苦悩している人が見て「Aha感」が得られないとするなら、パタンとして整理されまとまっていても、本当の意味でパタンではないのかもしれない。

フレームワークという方法についての懐疑

こう考えていくと、フレームワークというアプローチ、枠組みを当てはめて、その中で物事をすすめていくというアプローチは、早期に結果を出すという意味では正しいが、実際にその中で人が智慧を刻むという意味では、役不足なのだろう。

もちろん、効率的に物事を進めたいという欲求は常にあるし、時間をムダにしたくないという感覚、早く成果を得たい気持ちもわかる。しかし、それだけでは「なぜそのフレームワークが必要なのか」というそもそもの苦悩には繋がれず、ゆえに智慧はその身に刻まれない。

「破離」はどうなの?

ここまで、「守」については語ったが、「破離」については語っていなかった。「我」を経て「守」に到達した段階では、「守」がなぜ「守」なのかがわかるはずだ。そして、「我」によって刻まれた苦悩を解決する方法は、「守」だけではないことも可能性としてはわかるだろう。

単に「守」を破るだけでなく、より良いやり方に到達する上で、「守」では解決できない苦悩を体験するかもしれない。そうすれば、もはや「守」にとどまる必要はない。

ここでも「今のままでいい」という不快のない段階にとどまっているのであればそれまでだ。新しい段階に含みこむためには、何かしらの不快の体験が必要になるはずだ。

それはもしかすると、「現状維持」に耐えられないという感覚かもしれないし、新たな生まれた問題に直面することかもしれないし、まったく別の価値観に出会うことかもしれない。

いずれにせよ「今のままではいけない」という何かしらの感覚・衝動が、内側から湧き上がって「破」の段階に向かうことになる。

「守」がなぜ「守」であるのかを理解しておくことが「我」を通じて得られていれば、もはや「守」に執着する必要はない。

智慧につながるために必要なこと

我守破離」は、タイパ、コスパばかり気にする今の風潮とは真逆なものであることは間違いない。できるだけ不快を避けて、快適に過ごしたいという欲求が人を技術革新に導いてきたが、今は行き過ぎて「不快は存在してはならない」と言わんばかりの快適さを求める時代になっている。最近流行りの「ネガティブ・ケイパビリティ」がとても低くなっている。

「我守破離」は、「ネガティブ・ケイパビリティ」を必要として、知を身体に智慧として刻むための一つのモデルだ。快適さだけを追求していたら、知の深みは得ることが出来ない。最初からうまくいくやり方だけを与えていると、結果として、当人に智慧が刻まれずに表面的な知恵だけ持っているというパラドックスに気づく必要がある。

本当の智慧とは、「楽な道だけを歩みたい」というものでは到達できず、自分なりの悩みとそれを乗り越えた体験を通じて初めて得られる。

手っ取り早く成果を得ることも大事だが、人生に深みを与えるのは、己の体験として、どれだけ腹の底から「これが大事だ」と自信を持って言えることを、どれだけ多く持っているかではないだろうか。少なくとも、自分はそこを大事にしている。

不快や苦悩を恐れずに、自分で飛び込んでやってみる、そういう体験を多くの人が得て、そこから多くの智慧を身体に刻んでほしいと切に願う。

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