20210504 浅倉透について

 昨日今日と仕事だった。明日は休みなのでウィスキーを飲むことにする。

 ちょうど浅倉透の誕生日だったから、というわけでもないけれど、直近のpSSRとGRADのシナリオを読んだ感想を書く。

 簡単に言ってしまうと、pSSRのほうは時間の話で、GRADシナリオのほうは生の話だった。そしてそのどちらも、それの不確かさ、のようなものがテーマだったように思う。
 浅倉透は捉えどころが無いように思える。「ノクチル」と名付けられた幼なじみ4人の中心人物、その関係性で切り取れば、輪郭はある程度はっきりするけれど、そこから切り離されたときに、浅倉透の存在は、風船のようにゆっくりと浮いていくように思えてしまっていた。
 pSSRの話。テープに今の声を未来に向けて残すこと。たわいもないやりとりに感じる既視感、ドラマで先週と同じように役者が撃たれているシーンを観て、時間が巻き戻ったと錯覚すること、日誌に過ごした時間を書き付けること。行為や体験が、直線的ではない時間と結びついていく。直線的では無い時間に自覚的であると言うことは、それは時間から浮いているということでもある。
 そしてGRADのシナリオ。湿地における食物連鎖。ミジンコの血。透が映り込んでいた有名人の写真がたまたまバズったことによる人気。学年2番のクラスメイトからの羨望。ダンスレッスン講師からの顰蹙。大きなうねりによって、透自身の意志があるのかどうかもわからないままで、状況が動いていく。自分のことなのに、自分で当事者になれない。それは自分が生きていることから浮いているということだ。
 pSSRのシナリオと、GRADのシナリオを並行して進めていたからせいもあって、そういった浮遊感が尚更際立って感じられた。そして、GRADシナリオはそういう地点から透にとっての「生」を見出し、浅倉透という輪郭をはっきりさせていて、そのスケールに少し茫然としてしまった。
 最近ウマ娘をやっているから殊更にそう感じる部分もあるのだけれど、アイドルという存在自体、その価値が多面的で、ただ「アイドルであること」そのものを絶対的には肯定できないという屈折が、主題の描かれかたに大きな幅を持たせているなとつくづく思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?