ブックレビュー「アダプティブ・マーケット 適応的市場仮説 危機の時代の金融常識」
何年も前に理系出身の上司だった人が、私が経済学部出身だったことを知った後、「経済学は何の役に立つのだ」と質問してきたことがある。その人はずっと工場・研究畑を歩んだ人で、いかにも実践的な知識を好む人で、学者や専門家についてさえも日頃から好感を持っていない人だった。実際ITバブルが崩壊した頃で、現実の経済があまりに混沌としていたこととその混沌の中で時には無力をさらけ出す経済学自体の有効性に疑問を持っていたのだと思う。
当時どうやってこの質問に答えて切り抜けたかよく覚えていないが、内心経済学を語れるほど理解してない、という負い目もあったし、自分自身も何の役に立ったのかと訊かれると半分は「本当に役に立つのかな」とも思っていたのだろう。
本書はポール・サミュエルソンとユージン・ファーマがたどり着いた効率的市場仮説(資産価格には全ての情報が瞬時に正しく反映している)という考え方とジョン・ミュースが主張した合理的期待仮説(市場参加者は過去のデータを使って将来の需要を計るとする適応的期待仮説では無く、賢明な参加者、すなわちホモエコノミクスの賢明な期待だけが経済的均衡を成り立たせ得るとする考え方)に対して、資本市場を進化論的に理解しようとする適応市場仮説に関する本編608頁にわたる金融工学に関する本だ。
効率的市場仮説と合理的期待仮説は、わかりやすく言うとテクニカル分析、ファンダメンタル分析、自己ポジションのトレーダーやヘッジファンドの運用担当者を時間の無駄とし、要は株価は予測不可能なもの(これをランダムウオークという)なのでプロの運用担当者にお駄賃を払う必要があるのか、むしろ幅広く分散投資してパッシブに運用されていてかつ最小限のコストを顧客に請求する投資信託に預けるべきだ、という進言に結び付いた。
しかし世の中にはウオーレン・バフェット、ジョージ・ソロスといった市場に圧勝している(透明性が無いのであくまでも「といわれている」)人がいるし、金融危機後は上記仮説を提唱する学者のプライドはズタズタで、アラン・グリーンスパンも金融危機後に自分の過ちを陳謝した。そして今では行動経済学者は「人間は非合理な判断をする(バイアスがある)」ものだと言っている。
元々本書を手にとったのは、昨年夏ころに私が日頃フォローしている山崎元氏が推薦図書として挙げていたのを目にしたからだった。山崎氏は効率的資本仮説の是非についてはうんざりしている模様だが、少なくとも第六章までの過去20年ぐらいのファイナンスの本の復習にはもってこい、との評価だった。
その第六章までは先の効率的市場仮説、合理的市場仮説の説明に加えて、著者のホモ・エコノミクスの反論の基礎となる行動経済学、心理学(損失回避、確率マッチング、少数の法則、代表性)、神経科学(恐れ、痛み、喜びによる非合理性)、進化生物学(知性とはいい物語を作る能力)、人工知能(ヒューリスティクス:意思決定のときに経験則や先入観から答えを導こうとする思考法)という分野での研究成果が振り返られる。
そしてそれらを説明した上で、適応市場仮説は、次の5つの重要原理でまとめられる。
1. 私たちは常に合理的でも常に非合理的でもなく、進化の力によって特徴や行動が形作られる生物学的存在である。
2. 私たちの行動にはバイアスがあり、私たちは一見すると最適でない意思決定も行うが、過去の経験に学び、否定的なフィードバックに応じてヒューリスティクスを見直すことができる。
3. 私たちには、先を見据えた抽象的思考、過去の経験にもとづいた未来予測、環境の変化に対応する準備を行う能力があり、これは思考の速さで進む進化であり、生物学的な進化とは異なるが、まったく別物というわけでもない。
4. 金融市場のダイナミクスは、私たちが行動や学習を行い、周囲の人々や社会、文化、政治、経済、自然の環境に適応する際の相互作用によって形成されるものである。
5.
先の効率的市場は、「変化のしない金融環境の内部における単なる定常状態限界」に過ぎず、「一定の状況下における投資実績を近似できる」という点では有用な抽象化ではあるが、適応的市場仮説は効率的市場仮説とその例外との間にある矛盾の多くを解決できる、とする。
適応的市場仮説による新しい投資パラダイムの5つの原則は次の通りとなる。
1. リスクとリターンのトレードオフは、市場が正常な間は正の関係が存在するが、極端な金融の脅威に直面すると、投資家は非合理的な行動をとり、リスクをとった人が罰を受ける。
2. CAPMと線形ファクター・モデルはポートフォリオ管理に役立つが、市場環境によっては近似とはいえない仮定に頼っている。
3. ポートフォリオ最適化ツールが役立つのは定常性や合理性という仮定が現実と近似するときだけに限られるので、技術的進歩と相まってたとえパッシブ・インデックスファンドであってもリスク管理が優先されるべき。
4. アセット・アロケーションは資産クラス同士の境界があいまいとなっており、リスク管理として有効とはいえない。
5. 株式の長期保有は現実的な投資機関で考えると損失の確率が跳ね上がるので投資家は積極的にリスク管理を行うべきだ。
本書は、2007年8月のクウオンツ・メルトダウン、2008年の金融危機(未だにその本質的な原因がわかっていない!)、バーナード・メイドフのネズミ講詐欺などの事例でなぜそれらが未然に防げなかったのかについて振り返る。特に2008年の金融危機は「アメリカの金融機関は大いなる安定に適応した」のだという。1980年半ばから2008年の変動の小さい時期に適応し、それ以前の変動が激しい時期への適応を忘れてしまったのだ、という。これは思考の速さで進む進化の落とし穴、すなわち「しょっちゅう間違う私たちのヒューリスティクスは、条件が変わっても、不意の出来事が起きれば私たちに古い適応にもとづいた反応をとらせる」。
要は効率的市場仮説には穴がいくらもあり、適応的市場仮説はそれに勝つ理論となりうる、適応的市場仮説のもとでは消費者の行動はかなり経路依存で、最適でも合理的でも無いが、十分に満足できるものになっている、一方金融技術はさらに複雑性と不確実性を増しているので、パッシブインデックスファンドであっても積極的なリスク管理は怠ってはならない、ということだ。
山崎氏自体は以前から本書の著者であるアンドリュー・W・ローに注目していたらしい。ただ「適応的市場仮説は、物事を理解する枠組みであって、枠組みだけを理解しても、何かが予想できるようになったり、投資でもうけられるようになったりするような「直接的なもうけの種」ではない」としている。
なお山崎氏は効率的市場仮説に関わらずインデックス運用がアクティブ運用に比べて有利な理由を挙げているので、そちらも参照されたい。
さて最初の昔の上司に対する質問をもし今されたらどう答えるかというと、「思考の訓練」、とでも答えたことだろう。そもそも学問がすべて実践的であったら学問では無いし、即効性が無い学問が長期に見ると意味を持つこともあるだろう。頓智のような質問に対して最も効果的な回答は常に相手の固定概念を打破するものなのだと思う。
何しろ「物理学者は、ニュートンの運動の3法則を用いて、観測される物理現象の90%を証明できる。(経済学者は)実施には、私たちの経済行動の3%を説明できる99個の法則がある」のだから。