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ブックレビュー「反逆の神話~「反体制」はカネになる」

トロント大のジョセフ・ヒース教授が2004年にアンドリュー・ポター氏と著した”The Rebel Sell~Why the Culture Can't Be Jammed"は、2014年にNTT出版より単行本『反逆の神話~カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』として刊行されているが、2021年に新たな序文と解説を付し、新版として改題文庫化されたのがこの本である。

カウンターカルチャーと聞いても、若い人にはピンと来なくなっているだろうが、1960年代後半から70年代にかけてアメリカ社会の「消費主義」を拒絶、愛と平和を実現したビーズネックレスと平底サンダルとフォルクスワーゲンのビートルに乗り、「ドラッグにしびれ、ライフスタイルに目覚め、ドロップアウトした」ヒッピー世代が信奉した反体制文化をいう。まさにウッドストック世代のフラワーチルドレンたちだ。

やがてヒッピーはヤッピー(都会に住む若いエリートサラリーマン)になり、ビートルをSUVに乗り換え、アメリカ市場最も顕著な荒っぽい消費の復活を牽引することになった。

カウンターカルチャーは、自己も他者も開放する唯一の方法は文化に抵抗することであり、敵は目覚めることを拒む、文化への順応に固執する人間たち、すなわち主流社会だ、としていた。

べービーブーマー達は、1960年代に「体制」への執念深い抵抗を宣言し、物質主義と強欲さを捨て、規律と画一性をはねつけ、個人の自由に基づく新しい世界の建設に乗り出したしかし40年後、「体制」はさほど変わったようには見えない。彼らは体制に取り込まれたとも言われるが、カウンターカルチャー的な思考は続いてきた。

むしろカウンターカルチャーの反逆は無益なだけではなく、消費資本主義を新たに活気づけることになった。過去半世紀、社会正義の観点から前進した部分は、民主的な政治活動の面倒な手順を経て議論し、研究し、提携し、改革を法制化することで達成したものだ。すなわち体制内で計画された改革によるものであり、反体制がもたらしたものでは無い。

本書では、カウンターカルチャーの反逆が消費資本主義を活気づけた例として、ロックミュージシャンの例が挙げられている。「ネヴァーマインド」でブレイクし、期せずしてメインストリームに踊り出だれたカート・コバーンは、オルタナティブ音楽へのこだわりと商業的性向の折り合いをつけることが出来ずに自死した。彼は自分がヤッピーになってしまったヒッピーの二の舞になるのを是が非でも避けたかった。著者はまたピストルズはヒッピーと言うサブカルチャーにはびこっていたアナーキズムを取り入れて、さらに敵対的なひねりを加えたに過ぎない、という。

カウンターカルチャーの反逆者は自分のしていることがラディカルで、社会を揺るがす挑戦だと信じていた。ところがいつまで経っても体制は崩壊しない。一般大衆は労働者として有形財を搾取されているので、貧困と苦しみを生む諸根源である資本主義を転覆したいはずだったが、どうも資本主義に心から満足しているようにも見える。

彼らはフロイトの心の「圧力釜」のように、人は抑圧を受けている、と考える。ピンク・フロイドのアルバム「ザ・ウオール」はファシズムのフロイト的解釈を大衆化したものだ。カウンターカルチャーの反逆者たちは、抑圧を敵とし、文化的抵抗活動に邁進した。

そして体制側は彼らの行動が既存の秩序にとって深刻な脅威だから、絶対にやめさせなければならないとの信念を再確認するために、「俺たちに明日はない」や「イージー・ライダー」のように反乱分子が最後に鎮圧されるという映画を作った。しかし彼らの闘争は、街頭演劇、バンド演奏、前衛芸術、ドラッグに奔放なセックスをやりまくることで、成果を挙げるために何も犠牲にはしなかった。反逆者のお楽しみのための反逆でしかなかった。

抑圧とルール。いわゆる囚人のジレンマで見るように、ルールを設ける制約で誰もが利益を得る結果を生む。ルールは基本的な欲求や願望を抑圧するどころか、むしろ満足させられるようにするものだ

意味の無い、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とは区別すべきだ。前者は異議申し立てであり、後者は逸脱だ。意義申し立ては市民的不服従、基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対しているときに生じる。逸脱は利己的な理由からルールに従わないときに生じる。

カウンターカルチャーの反逆者たちは、社会規範が強制されているという事実をとりあげて、違反のための違反を賛美し、政治の面では惨憺たる結果しか招いてこなかった。そこに根本的な問題がある。

ミレニアムの北米で文化的勢力となった反消費主義。「ブランドなんか、いらない」、「さよなら、消費社会」、「ラグジュアリー・フィーバー」、「ファーストフードが世界を食いつくす」といった書籍がその動きを牽引する。

しかしこういった大衆社会批判は、結局消費社会の強力な牽引力となった。ナオミ・クラインのロフトは倉庫ビルの最上階にあるが、これは「差異」のための消費、社会的地位を得るための局地財だ。ところがブランド品と同じように局地財はすぐに模倣されその価値を失っていく。反消費主義の聖典の著者が結局は競争的消費を動かしているという事実がある。

「オーガニック食品を買う」、「地元で物々交換経済を始める」、「スポーツジムの会員をやめて、夕方パートナーと散歩をする」、「充実した今を送る」、「買うよりも修繕する」、「自分で服を作る」。こうしたダウンシフティングを実現するためには、金持ちしか実現できないものが多い。消費社会を牽引すれども、社会改革にはほど遠い。

著者が後記で付言しているように、「オーガニック食品」を揶揄した点は、大きな反応があったようだ。著者はオーガニック製品を買うことが倫理的な消費だと考えていない。伝統的農業には、促進すべき非常によい慣習だが、オーガニックとは認められないものがたくさんあり、有機栽培に伴う阻止すべき悪習も色々ある。

オーガーニック食品運動のイデオロギーは60年代カウンターカルチャーの科学技術恐怖症に根差しており、農法の環境に与える影響と持続性についての偏りのない評価を踏まえたものではない、という。そして「共和党がホワイトハウスを支配するのを横目に見つつ、僕らはルタバガの政治とマンゴーの価格について議論する。そんなのはおかしい。」と喝破する。

カウンターカルチャーは、ナチスドイツが西洋文明に甚大なトラウマを加えていたことのあかし、であり、ホロコーストののち、順応への穏やかな嫌悪が、規則性や予測可能性が少しでも見られるものへの肥大化した憎悪へと高まっていった、という。そして我々が自問すべきなのは、社会にとって無秩序の過剰のほうが秩序の過剰よりもはるかに深刻な脅威だと認めることであり、もしそうであるならば本当にファシズムについて、くよくよ心配するのをやめるべきだ、社会に必要なのは、ルールを増やすこと、減らすことではない、と著者は指摘する。

個人的には、これまで逸脱と異議申し立てを区分することは全く意識していなかったので正直相当考えさせられた。「差異」のための消費にも無自覚で、必要以上の消費財を宣伝広告に乗せられて購入することの繰り返しだ。InstagramやFacebookといったSNSを通じて、旅行や買い物を誇示して社会的地位の向上を狙っているのだ、と言われても否定することはできない。SNSで誇示した局地財だと思っていたものが数年後には局地財では無くなっているのにも関わらず。我ながらこんなことをいつまで繰り返すのだろうか。

最新版の序説には、本書では触れなかったオルタナ右翼の台頭にも言及する。ドナルド・トランプの元主席戦略官、スティーヴ・バノンは「左派が文化的政治を追求することを選んだことでもしろ優位に立った」、「われわれがワシントンを支配しているあいだに、リベラルたちはハリウッドを支配するのに忙しかった」と考えた。この左派に奪われた失地回復として右派の新しい「文化的政治」を、ルールを破るオルタナ右翼の台頭に見出したのだ。カウンターカルチャーは右派にもありうるということだ。

元々本書を読むキッカケとなったのは、日経新聞で見かけたジョセフ・ヒースのインタビュー記事だ。

ここではSNSをはじめとするテクノロジーの負の側面を危惧する。「これらの企業のサービスにうつつを抜かしている間に、貴重な資源である集中力が奪われてしまった刺激に身を委ねるばかりで熟考の習慣を失った人々は非合理的な判断に傾きやすい。思考停止、他者への攻撃的な態度、そして摩擦と分断。情報技術がもたらしたそうした状況を見るにつけ、今の社会は正気を失っていると思う」

検閲を経ない情報の洪水の中、非合理的な判断が、トランプの再選を生み、日本の政治で予想を覆す結果を繰り返す。

テクノロジーの進化は間違い無く我々の生活を向上させたが、逆に熟考の習慣を奪われいてる、ということに意識的にならないとこの流れは歯止めが無くなりそうだ。そして米国政治を見る限り「無秩序の過剰のほうが秩序の過剰よりもはるかに深刻な脅威」であることは間違い無いだろう


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