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お隣さんとの『KOBUCHA事件』

我が家の隣には、明るく面倒見の良いメキシコ人一家が住んでいる。昨年夏に初めて話をしてから、困ったときは何かと助けてもらっている。

そんなお隣さんとの間にちょっとした『事件』が起きたのは、昨年末、私が日本への帰省のために、夜中に成田行きの飛行機に乗ることを予定していた日の午後のことだった。

荷造りも8割がた終わり、一息ついた私は娘を連れ、今夜からしばらく留守にする旨と、早めのメリークリスマスを伝えるため、お隣さんのチャイムを押した。いつも通りの笑顔で迎えてくれた奥さんが、しばらく会えないことだしぜひゆっくりしていって、と中へ招き入れてくれる。それから私たちはリビングで、互いの休暇中の予定を話しながら楽しいひと時を過ごした。

話が途切れ、何か飲まない?と、奥さんが立ち上がった。

"Tengo KOBUCHA"(「こぶ茶があるの」)

健康志向で日本の食文化に興味津々の彼女から、とっておきの感じでそう言われ、私は粉末のこぶ茶を思い浮かべながら、いただきますと答えた。

が、奥さんが向かったのは戸棚ではなく冷蔵庫で、取り出したのは粉末ではなく、ガラスのピッチャーに入った見たこともない液体だった。表面から5センチくらいは白いフワフワとした泡状の層になっており、その下は半透明の薄茶色。底に向かうほど色は濃く、グラデーションになっている。これ手作りなのよ、と奥さんがとびきりの笑顔で言う。

メキシコに来てから、すでに片手の指以上の回数は食あたりを経験していた私は、おそらく同じ苦しみを味わったことのある方が皆さんそうであるように、危険な雰囲気の食べ物を前にすると自分の中で黄色信号が点滅し、食べることを躊躇するようになっていた。しかし、ここはレストランでも自宅でもなく、大好きなお隣さんの家だ。KOBUCHAを見たときの私の信号は完全に真っ赤だったが、現物を見て、さらには手作りとまで聞いてしまったあとで、「やっぱりいらない」とは到底言えなかった。

そんなわけで、目の前に綺麗なグラスに注がれたKOBUCHAが置かれ、隣に座った奥さんと膝に座った娘から熱い視線を注がれつつ、私はそれを静かにひとくち飲んだ。途端に口中に想定外の酸っぱさが広がり、私は思わずむせそうになりながら、なんとか「健康的な味がしますね。」と言った。すると、奥さんは嬉しそうにこんな情報をくれたのだ。 

「ピュアなオンゴスを使って作ったのよ!」

…ん?オンゴス?hongos?

必死で頭の中の辞書をめくる。hongoはたぶんキノコ。複数になって急にキノコがこぶになるなんてこと、あるだろうか?落ち着いて、部屋に戻ってからもう一度ちゃんと辞書を引いてみよう。そんなことを考えているそばから、脳ミソと同じくお腹もグルグルしてくる。私は、もし気に入ったらいつでもお裾分けするからね、という奥さんの言葉にひたすら御礼を言って、なんとかハグをして、挨拶もそこそこに娘を抱いて自分の家に戻った。そして、真っ先に電子辞書を開く。

hongo、キノコ。複数で菌類。おぉ。

その晩、キリキリと痛むお腹を抱え、夜中にメキシコシティ国際空港のラウンジで冷や汗をかきながら、私はその日起きたことを振り返っていた。大好きなお隣さんと話す時間は私の癒しだ。これからも失いたくない。けれど、あの恐怖のKOBUCHAの存在を知って以降、「お茶でも…」という展開になる前に、ついそそくさとお宅を失礼してしまう自分がいるのだった。





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