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毎日定時で帰り続けて、自分の内面に起こった変化
こんちは、かわこうです。
令和4年度が終わりましたね。
僕は令和4年度、1年間やり通そうと思っていたことがあります。
「定時で帰り続ける」ことです。
長女の学童と次女の幼稚園、2箇所の迎えがあり、夫婦で分担するため、職場にもあらかじめ時間外勤務ができない旨を伝えておきました。
妻に無理言って行ってもらうこともできたかもしれませんが、2箇所迎えも2年間限定の話なので、その期間ぐらい仕事をセーブしたって良いじゃないかとも思ったわけです。
しかも、勤務時間を最も早い枠に設定して、子育て支援の特例として、休憩時間を15分短縮してその分15分早く帰るので、結構早く帰ることになります。毎日誰よりも早く職場を出るわけです。
この時の「お先に失礼します」が、まあなかなか言いづらいんですよね。
別に悪いことしてるわけではないし、仕事をちゃんと終わらせていれば良いはずなのに、何か、恐縮している。
これは1年間あまり和らがなかったですね。
それまでの11年間ぐらい、全然残業をいとわない感じで働いていいたのがしみついていたんでしょうね。
ところでなぜ、年度のはじめに「定時で帰り続ける」ことをそんなにも固く誓ったのか。
僕は入庁から11年ぐらい、基本的に仕事第一でやってきました。頑張った甲斐もあってか、ものすごく評価してもらったこともあります。
でもそこで、「んで?」となりました。
仕事を一生懸命やってちょっとした成功みたいなものもつかんで、上司からも評価され、大きな仕事も任されて乗り越えたのに、何故かほとんど達成感がない。
不思議なものです。
これをまだ自分でも分析しきれてはいないんですが、仕事って与えられたモノなので、その与えられたモノをいくら上手くやれたとしても、自分からやろうと思ったことではないので、達成感が湧かないのかなあと。
僕が最も評価された仕事は新規事業の立ち上げです。と言ってもまっさらな状態から新規事業を立ち上げるということではなく、所属している課・係の所管事務の中で、やらなければならない流れが生じたためにやったこと。それを確かに自分がやりたいと手を挙げて担当させてもらったものの、それでも、限られた枠の中で自発的に動いただけで、純粋に自分の内発的動機から動いたものではないわけです。
こうなると、公務員やサラリーマンといった雇われの仕事というものの中では、受動の域を出るものはないんだろうなと思いました。
そう思った時に、このまま仕事第一で仕事に没頭していては、いつまでたっても何にも達成感なんて味わえない、人生を後悔することになると思ったわけです。
仕事以外の何か、自分が心からやりたいと思ったことに一生懸命になる経験が、自分の人生には必要だと思いました。
と言ってもすぐに何か“これ”というものがあるわけでもないんですが、とりあえずは時間を作らないと、何も湧き上がってこないだろうなと思い、仕事との距離をできるだけ置いてみようということで、「定時で帰り続ける」ことを自分と約束したわけです。
筋トレを継続できたり、新たにボイトレに通って歌の練習を始めたことは、収穫だと思います。
一方で、思っていなかった効果を感じることもあります。
あまり同調圧力に飲み込まれてないなあと思うんです。
毎日定時で誰よりも早く「お先に失礼します」と言って職場を後にする。これ、たぶん人目を気にして行動できないとか、周りに合わせてしまうといった感じだと、帰れないと思います。
定時になってもちょっとダラダラして、みんなが帰り始めてから帰るという感じになってしまうと思います。
でも僕は「定時に帰る」を決めていたので、サッと帰るんです。周囲の目が気になるとかはあるのはあるんですが、そこは勇気を振り絞ってサッと帰るんです。
毎日毎日これをやっていると、訓練みたいになったのか、普段からいろんな場面で人目を気にしすぎないようになったり、過度に周りに合わせるといったことがなくなった気がします。
例えば、マスクが個人の判断になってから、僕はサッとマスクを外しました。たぶん周りを気にして外せないという人もいると思います。
飲み会の参加・不参加も自分の意思で決められるようになりました。以前は誘われたら何となく行っていたと思いますが、今は「絶対行きたい」と思う飲み会しか行きません。
「毎日定時に帰り続ける」ささいなことのようですが、意外と自分軸で生きる良い訓練だったのかもしれません。
こういった小さなことの積み重ねが、後悔しない人生を歩むということなのかもしれません。