ナンセンス趣味
もっぱらお話づくりのことを考える。
音声作品のシナリオを一本書き終わって、次は同人エロゲのシナリオを作る。そういう運びになりつつある。あまり筆が早くないのに、物語をつくるのも本当は苦手だ。ただ、やらないとなあ、と思って、好きなゲームや昔読んでいた本とかを思い出そうとする。自分が何かを書きたいのか、そうではないのか。わからなくなってくる。
青年時代に得た嗜好は定着するというように、好きな物語はずっと似ている。これからもそうだという予感がある。
そしてまた、同じことを書いている。思っていることしか書けない。一度にいろいろなことを考えていられるほど器用でもない。
取るに足らない物語が好きだ。
何も事件は起きない。血で血を洗うようなことも起きない。好みのヒロインをクリックして、むすばれるだけ。ただ、女の子がかわいいだけのゲームで、本質的な事柄は書かれていない。
取るに足らないということはわたしたちのリアリティでもある。人の心を震撼させる何かがなくとも、とりとめのない暮らしがあるだけで充分ではないか。
youtubeでMCバトルの動画を見る。
だいたい、自分がいかに素晴らしいかを語り、相手がいかにダサいか、という話になる。ラップだから韻を踏んだり音楽的な口調で言葉を話すわけだが、話している内容にはだいたい意味がない。勝敗は音楽性や恰好のよさで決まる。本質的なことは、リズムとブラフだ。
話の筋で勝負するのなら、短すぎるビートの上で話し合う必要はない。話が上手い人もいる。でもかれらは自分の音楽を売るために戦っていて、話し合う余地はない。殺したほうが勝ちだ。むろん、それはそれでよい。
一見古代ギリシア世界を想起させるような形式の競技であっても、そこにあるのは言葉や論理の正しさではない。そこに弁証法はなく、人間があるだけだ。口下手な論弁者に出る幕はない。そこで語られていることは、どこへ行くのだろう。
かれらは実は、自分たちのいうリアルとフェイクのはざまで、すれすれの綱渡りをしているという気がする。
リアルとフェイク。本質とナンセンス。
HIPHOPでいうリアルとフェイクというのはつまり、文学と大衆小説のようなものだろう、とわかってきた。
「あたりさわりのねえリリックで 言いてえことなんか意味不明」
言いたいことがある。
言いたいことしか書けない。言いたいことがないと、何も書くことがない。書いているうちにこの記事も書きづらくなってくる。言葉はだんだんとけむに巻くように。ぼくたちのリアルを言葉がけむに巻く。いずこへ、いずこへ。
言いたいことってなんだろう?
言わなくてはならなかったこと。本当は何も言わなくたっていいということ。誰かがそこにいればいい、そういうときが確かにある。
病的な詩も、論理の精確な言説も、少なくとも生活的ではない。言葉は生活的ではない。それでも筆を執ることがナンセンスでなくあり得るだろうか。
なんでもないということが、かえって生活的でもある。寡黙なままで雄弁に語ることも可能だ。寡黙な魂は寡黙であった生涯をしずかに語らざるを得ない。ならば人の生活が雄弁である可能性は必然で、そのうえでさらに雄弁であるということのなんとやりきれないことか。
ぼくらのニヒル、ぼくらの死。言葉は死。死以外が生だ。生はあまりにゆるしすぎてどうしようもなく、語りようのないぼくらをゆるしてしまう。
そういう魂に光を撃つように。書けなくても。言いたいこともほんとうは知らない。書けないということも書けばいい。それくらいでいいじゃないか。
凡人だもの。凡そ人と書くのだ。