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山下達郎「ご縁とご恩」発言以降の居心地の悪さ

山下達郎の、例の「ご縁とご恩」発言と、それ以後の沈黙から、山下達郎と竹内まりやに対して微妙な感情を抱くようになってしまった。「もう二度と聴かない」という極端な気分にもならず、かといって以前のような積極的な気分にもならず、新譜を出しパブに積極的な竹内まりやを眺めるたびに複雑な思いになる。

「作品と人格は別もの」という意見も分かるし、「看過できない」「もうそういう時代ではない」という意見も分かる。どちらかと言えば自分は前者の考え方だったが、達郎の件以降、もやっとした後味の悪さが抜けない。そもそも達郎ってすごくロックで反骨の人で、権威とか理不尽なことに対して楯突く印象があったので、「自分が権威になるとこうなってしまうのか」と正直ガッカリした。

そんな状態でも彼らの音楽はたまに聴くし、細野晴臣とのラジオも楽しく聴いた。でも、あれほど熱心に申し込んでいた達郎のツアー申し込みを止めてしまったし、まりやの新譜も買っていない。過去の作品も重複していたリイシュー盤は手放し、オリジナル盤を残すのみとなっている。

なにより切ないのは、山下達郎と竹内まりやの作家、レコーディング・アーティストとしてのキャリアに見切りをつけている自分に改めて気づいたことだ。今までも薄ら気づいていた。達郎は「僕が良い曲とも思えるような曲をもう書けない」ということを。もちろん、他の人はそんなことを思っていないのかも知れないが、自分はトキめかないのだ。正確に言えば、レコーディング・アーティストとしての達郎は、アルバム『COZY』まで。以後の作品も聴いてきたけれど、どんなに頑張っても好きになれず、こちらも発言以降、全て手放してしまった。

ちなみに、これは「同じような曲ばかり」であることを言っているのではない。同じような曲でも全然良い。自分の気持ちが踊れば、全く問題ないのだけどダメだった。

この気持ちを、発言以前は自分の中でごまかしていた。「相変わらずツアーアーティストしては素晴らしいし」と心の中でズラしていた。でも、発言以降、ツアーへの思いも薄れ、後ろ向きな気持ちがむき出しになってしまったのだろう。

大滝詠一は「もう曲が書けない」「ロンバケ作ったからもういいじゃん」(意訳)と、30代後半(!)で、アーティスト活動をほぼドロップアウトした。一方、達郎は毎年ツアーを続けている。以前は「大滝詠一も達郎くらい勤勉に・・・・・・」なんて思っていたのだけど、今は大滝詠一の冷静な自己評価と判断の凄みを感じている。

もちろん、どちらが良い悪いという話ではない。近年の達郎の立ち振る舞いを見て、色々考えさせられるということです。

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