小説について思う、いくつかのこと
ぼくは小説を読む。体調や気分によって波はあるものの、習慣のように小説を読んでいる。
昔からそうだったわけではない。高校ぐらいまでは、音楽や映画にどっぷり浸かっていて、正直、小説はめんどくさいと思っていた。音楽は数分で気分を変えることができて別のことをしながらでも楽しめるし、映画は視覚や聴覚にダイレクトに響いて二時間ちょっとで壮大な世界を体感することができる。
それに比べて小説の地味なこと、まどろっこしいこと。読むのに集中力が必要で、時間がかかってしょうがない。他の表現形式に比して刺激の絶対量が少なく、読んでいるとすぐ眠くなる。椎名誠さんや原田宗典さんのエッセイはもともと好きで読んでいたが、大学に入るまで自主的に小説を手にすることは少なく、映画の原作を当たってみる程度だった。
そんなぼくが、二十歳前後に、数冊の小説に出会い小説観がガラッと変わった。
「この本を読んで人生が変わりました!」
と言うと詐欺のにおいがするが、実際そういう本にぼくは出会ったのだった。おそらく万人に響く物語ではないし、書きだすと長くなるのでここでは紹介しないが。
「小説って、なにがおもしろいの?」
昔からの友人にそう訊かれたことがある。彼は小説を読まない。ぼくが薦めた恩田陸『夜のピクニック』は開かれることなく、鍋敷として天寿を全うしたようだ。
小説のなにがおもしろいのか。
まず、自分が知らない世界を知れること、自分が知らない世界の見方を知れること。
誰だったか思い出せない(言葉も若干間違っているかもしれない)が、
小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議
という趣旨のことをおっしゃっていた。
人は皆、ひとり分の人生しか生きることができない。しかし小説を読むことで一度きりの人生を超え、他人の人生を、もしかしたらあったかもしれない人生を疑似体験することができる。小説を読むことで、他人の人生を覗くことができるのだ。ぼくは小説を読むことは「合法の覗き」だと思っている。
しかし、これだけでは「小説」の説明としては不十分である。小説以外の映画や音楽や絵画でも、他人の人生は疑似体験可能だ。小説に特有のものではなく「物語」の効能を述べているにすぎない。
では小説に特有なものはなにかというと、その表現形式にほかならない。文章で表現されているところに小説の醍醐味はあって、ぼくはまさにその、文章で表現されている部分に魅かれたのだ。
たとえば、ひとつの風景を描写するとき、写真ならシャッターひとつで瞬時に切り取ることができ、形も色も大きさも手っ取り早く相手に伝えられる。一方、文章では言葉をひとつひとつ並べて描写するしかなく、手間も暇もかかる。画像が面だとしたら文章は線であり、表現できることより表現できないことのほうが多い。なにを書くかではなく、なにを書かないか、なにを捨てるかに文章はかかっている。文章は鉋(かんな)と釘で作るものだ、とぼくは考えている。いかに言葉を削るか、どこに句読点を打ちこむかで、作品の良し悪しは決まるものだと。
「小説は消しゴムで書くもの」
と、ある作家が言っていたが、これも同じような意味合いだろう。
日本人に分かりやすい例で言えば、小説は水墨画のようなものだ。なにも塗られていない作品の余白こそが主体的に参加できる余地であり、鑑賞者の想像力がその余白を埋めるのだ。
小説を映画化した際、原作を先に読んだ人たちは「なんか思っていたのと違う」と口にするが、当たり前のことで、小説で描かれなかった余白部分を映画では映像化せざるをえないので、実体としてなにを被写体にしたって必ず読者の想像と齟齬が生まれてくるものなのだ。
文章で表現されているところに小説の醍醐味はあると先に述べたが、文章であることの長所としては、精緻な心理描写ができる点もある。映画なら、その心理を描くには仕草や台詞など間接的な方法で表現するしかないが、小説なら心理の動きや思考の流れをダイレクトに、ダイナミックに追うことができる。人がなにを考えているのか、なにを思ってその行動をとったのかを追体験させるのに、文章ほど適したものはない。
と書くと、文章は心理や思考を伝えるための道具のように思われるかもしれないが、ぼくは文章そのものの美しさも味わうべきだと思う。文章は情報を運ぶ乗り物ではない。手段であると同時に目的でもあるのだ。文章の書き方みたいな講座や本では、言いたいことが伝わるように読みやすい文章を書けと手ほどきを受けるが、小説に関しては読みやすければいいというものでもない。読みやすい文章より、いい文章をぼくは読みたい。ぼくにとって小説は文章がすべてで、文章が悪ければ、どんなにいい筋書きでも読む気がしないし、逆に文章がよければ、どんな筋の小説であっても読んでいられる。
巷には、小説を要約したり漫画化したりしたものが出回っている。小説から得られるテーマや教訓を分かりやすく解説した書籍は多くあるが、ぼくは読む気がしない。その小説のエッセンスを抽出して自分の人生に役立てようとするのはさもしいし、作品への、作者への冒涜だとすら思う。言葉ひとつ、句読点ひとつ欠けても本来の読書体験が失われるほど、小説は繊細なものだ。
最後に。
尊敬する作家マーク・トウェインが『ハックルベリー・フィンの冒険』の巻頭に次の文章を載せ、安易な要約をたしなめている。引用して終わる。
「この物語に主題を見いださんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見いださんとする者は追放さるべし。そこに筋書きを見いださんとする者は射殺さるべし」
(了)